1 知恵の実
――ソビエト連邦はもう終わりだ……!
悲鳴のような悲鳴はいったい誰が叫んだものだろうか。
「違う、終わりなどではない」
ニキータ・フルシチョフは不愉快な口ひげの間抜け面を想像しながら、クレムリンの中心で苦虫を噛みつぶした。
終わりなどではないし、終わりにもしない。
昨年のドイツによる第二次侵攻作戦のまっただ中に、ソビエト連邦赤軍内では大きな権力闘争が発生した。それらを主導したのは反スターリン派に担ぎ上げられた一部の高級将校たちだ。そしてまた、フルシチョフ自身も反スターリン派に知識階層のひとりとして担ぎ上げられた。
その選択は外国との戦乱と、内乱というふたつの国難に同様に責め立てられた故郷を救うためにはやむを得ない判断だった。
なんとか良い考えをひねり出そうとして、フルシチョフは頭を抱えた。
全くもって厄介なことは、スターリンが自分の勢力圏に入らない政治家や職業軍人たちを恐怖政治によってほぼ完璧に粛正してしまったことだ。
それではフルシチョフ自身はどうなのかと問われれば返す言葉もないのだが、自己保身と国の行く末と、これから生まれてくるだろう未来ある子供たちのために、再生の未知を考えることもフルシチョフのような政治家の仕事だった。
先の欧州大戦でたたきのめされたドイツが、再び立ち上がったように、ソビエト連邦も大きな損害を伴った「焼け野原」から立ち上がらなければならない。
打倒スターリンという状況は、後釜に座ることになったフルシチョフとしては一向に構わないのだが、それはそれで現在のソビエト連邦内の勢力から鑑みるに、再生にはそれなりの時間が必要に思われる。
いずれにしろ、どこかでスターリン体制の方向転換を図らなければ、ソビエト連邦という巨大な恐怖政治によって束ねられた「大帝国」は崩壊を免れることはできないだろう。
だから、フルシチョフはヒトラーの要求を一旦は飲み込んだ。
言いたいことも山ほどある。
我々は貴様の奴隷ではないと、声を大にして叫びたかった。
それでも、スターリンを追放するということは大きな代償を伴うことだということも、反スターリン派の知識階層の多くが心の底から理解していた。良くも悪くも、急激な方向転換というものにはありとあらゆる意味で痛みを伴うものなのだ。
スターリンを排除した際の被害と、スターリンに組みした際の被害と、いったいよりどちらの被害が多くなるのかなど、今のフルシチョフには想像もできはしない。ただ、自分の道を見定めて進むだけだ。
ソビエト連邦の指導部に立つ政治家として、なんとかヒトラーから良い条件を引き出さなければ意味がない。それを覚悟の上でスターリンを排除したのだ。
「ニキータ・セルゲーエヴィチ」
フルシチョフは呼び掛けられて顔を上げた。
「なにごとだ」
「……――強硬なスターリン派の更迭は恙なく進んでおります」
「そうか」
短く応じてからフルシチョフは、数秒だけ考え込むように執務机を見つめてから改めて顔を上げる。
「それと、スターリンの作り上げた警察機構は想像以上に政権の中枢に入り込んでいた様子です」
同士フルシチョフ。スターリンの悪夢を直視してきたゆえに、そう呼ばれる事を嫌悪するフルシチョフに、言葉を選ぶようにしてコンスタンチン・ロコソフスキーが告げた。
「そうか……、そうだな。くれぐれも強硬手段は自重してくれたまえ。今は、スターリンを追いかけることだけに専念しろ。あと、ベリヤの動向にも全神経を尖らせてくれ」
「……承知しました。行方不明のジューコフについても全力で捜査を続けておりますが、現在行方は擁として知れません」
スターリンらと共に行方をくらました政治家や警察関係者、そして職業軍人は多い。そのほとんどが、スターリンの側近として甘い汁を吸ってきた連中がほとんどだ。おそらく、仮にスターリンが政権に復帰した場合、その権力闘争に敗れれば、ロコソフスキーもフルシチョフも命はないだろう。
戦いを仕掛けたのはフルシチョフなのだ。
相手がスターリンでも、ヒトラーでも、最終的には勝たなければならない。
「コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ、充分気をつけてくれたまえ。スターリン……、ジュガシヴィリは執念深い」
ジュガシヴィリと、スターリンの本名で呼び捨てたフルシチョフはぐっと奥歯を噛みしめてから顔を上げて言い放った。
「はい、ニキータ・セルゲーエヴィチ」
一九三七年にスターリンが主導した赤軍内の大粛正で、ロコソフスキーを救い出してくれたゲオルギー・ジューコフに感じる恩も、ロコソフスキーの中には少なからず存在する。恩返しという言い方もおかしいが、ジューコフがその気であれば、ソビエト連邦の新政権に掛け合ってもよいとロコソフスキーは考えたが、昨年の秋から半年、未だに彼の行方はつかめずにいる。
生粋の突撃屋で猛将と名高いジューコフだが、田舎者というだけで悪い奴ではない。そうロコソフスキーは思っていた。
大粛正を生き残った多くの者がそうだ。
誰もがモスクワのクレムリンを不穏の中心地として警戒していた。ジューコフは辛くもそんなスターリンの手を逃れることができた者のひとりなのだ。
「誰だって命は惜しい……」
身を守るためにはそうするしかなかった。
ただそれだけのことだ。
思い詰めた様子で、コンスタンチン・ロコソフスキーはぽつりと口の中で呟いた。
*
真っ赤になった指で、少女は舞い散る雪を受け止めるように手のひらを上に向けて暗闇の中に差しだした。
空を見上げても、重くのしかかるように垂れ込めた雲がかろうじて見えるだけだ。降り積もった雪には、研究室の窓から漏れる光がくっきりと陰影を残す。
「光の正体を知っているか?」
ひらひらと舞う雪を見上げていた少女の耳に、男の声が響いてブーツを履いた金髪の彼女はゆっくりと振り返る。
昼と夜の別もなく、ライプツィヒのウラン・クラブの研究室は厳重な警備下に置かれている。そこは、ともすればアドルフ・ヒトラーの大本営――狼の巣や、ベルリンの総統官邸以上の警戒態勢とも囁かれる。
「ロシアの」
マリーはぱちりと目を瞬かせてから、逆光になっている男の影を見つめてから小首を傾げた。
「寒くはないのか?」
「寒くなったらすぐ中に入るから大丈夫よ」
茶色の上品なコートと、マフラーを身につけている少女の姿が窓越しに見えたから、なにをしているのだろうとレフ・ランダウは思った。
ベルリンで初めて会った時はすっかりピョートル・カピッツァが話の主導権を握っていたからろくに話をすることもなかった。だから、落ち着いて言葉を交わすのは初めてだ。
モスクワからベルリンに送られ、そこからさらに鉄道でライプツィヒまで運ばれた。もしかしたら、ドイツの悪名高い強制収容所に送られるのではないかと気を揉みもした。なにせランダウは一度は祖国でスターリンの手に寄って強制収容所に送り込まれた過去もある。
恐ろしくないと言えば嘘になる。
だからといって信念を曲げるつもりもなかったから、覚悟もしていた。
だが、到着してみれば本当にモスクワを発つときに告知された通り、ドイツの「物理学研究所」に連行された。さらに言えば、扱いはそれなりに自由な権利もあり、不信感に満たされたランダウにはそれが意外だった。
「それより、なに? 突然」
マリーが小首を傾げた。
汽車での移動の最中に、カピッツァの近くにいたランダウは彼女が「マリー」という名前だということを聞かされていた。
「……いや、なんとなく聞いてみたかっただけだ」
窓からこぼれる光を指さしたランダウに、金髪の少女はしばらく考え込む素振りをしてから目を上げて肩をすくめた。
「興味ないわ」
「君が、マリーか?」
「そうよ」
「ベルリンのホテルにも来たな」
今日まで彼女とは、ほとんど話す機会などなかった。
「ドイツはなにを考えてるんだ」
「そんなこと知るわけないじゃない。わたしはシュペーアさんからあそこで話をしてきてほしいって言われただけで、詳しいことなんて全然聞いてないもの」
「マリー、君はこの計画がなにを追及するものなのか知っているのか?」
「……”レフ・ダヴィドヴィッチ”」
険悪な空気になりつつあるランダウの物言いに対して、唐突に少女は彼を呼んだ。
「……よく知っているな」
「知っているわ、だって移送記録読んだもの」
マリーは感心したようなランダウの言葉ににっこりと笑ってから唇の前に右手の人差し指を立てた。このままではしもやけにでもなってしまうのではないかと思える程、彼女の指先は赤くなっていた。
「あなたは反対なの?」
マリーが逆にランダウに問い返した。
「当たり前だ。仮に技術的な製造の問題がないとしても、あんなものは武器じゃない」
「武器よ」
マリーは即答した。
「アメリカとイギリスは、すでにドイツの計画に気がついているわ。遅かれ早かれその武器を完成させる。そのときに標的になるのはどこの国だと思ってるの?」
「……ドイツだろう」
「あら、そうかしら?」
戦場でドイツに対抗するために、ソビエト連邦もアメリカ合衆国も新型兵器の開発に国力を投じたのだ。その中に「それ」は最重要項目として上げられている。そして、ソ連当局からランダウも秘密裏に打診は受けていた。
新型爆弾――原子核分裂反応を利用した爆弾をソビエト連邦でも製造可能かどうか、と。
もちろんランダウには言うまでもない。
「”理論的には、英米独で可能なものにソ連で不可能なわけがない”」
理論というものは独占できるものではないし、世界を股に掛けて活躍する科学者たちにとって誰かの理論によって新たな検証がされることは珍しいことではない。そして、そうした新発見や新理論というものは、小さな世界でまとまりがつくようなものでもない。
「獲物を食い尽くせば、次の獲物を探すだけじゃないかしら?」
マリーは鈴を転がすように笑うとそう言った。
まるで罪など感じていない。
自分の言葉が何を意味しているのかもわかっていないのではないか、とランダウは勘ぐった。
これだから無知な子供は話にならない。
「……なにが言いたい」
ランダウは押し殺した声でうなると、少女は冷たい指を伸ばして彼の手首をそっと握った。
「”生き物って自分勝手じゃない”?」
唇の端をつり上げるようにして、少女は小さく笑って見せる。
生き物は自分勝手だ。
縄張りの外の世界のことなど「どうでもいい」。
たとえばヒトラー率いるナチスがそう唱えたように。
たとえば、スターリンがモスクワの外の世界をどうでも良いものとして扱ったように。
「イギリス人だって、アメリカ人だって同じじゃない。人の事なんてどうでもいいの」
獲物を灼き尽くした業火が次に灼き尽くすための獲物を探す。それが、自分たちにとって関係のない、どうでも良いものなら、次の不満の捌け口として、あるいはやり玉に挙げる相手として選択するだけのことだ。
「今はドイツと日本を攻撃してるけど、そのうち叩き壊すものがなくなれば、新しく叩き壊すものを”探し出すだけ”よ? あなた、大人なのにそんなことも考えないの?」
マリーの言葉が、不意に鋭い刃物のようにランダウに襲いかかった。
歴史的に見てもそんな事例は山ほどある。
――関係ない。
――どうでも良い。
そうした多くの為政者のやり方が、殺戮の歴史を繰り返してきた。
「戦争のやり方がうまくなったから、一度にたくさんの人間を昔と比べて簡単に始末できるようになったけど、これって”自然淘汰”なのかしら」
自然淘汰――いかに効率良く「種」の劣悪勢力を排除するか。
「それ」を「人間という種」として無意識下で判断して、殺戮しているとでも言うのだろうか。
冷たい少女の指先は、まるで死人の指先の冷たさのようで、ランダウはふと彼女の声がそのまま死に神の声のようにも聞こえてぞっとした。思わずマリーの指先を力一杯振り払った。
「……こ、この爆弾はそんなものじゃない。こんなものが自然淘汰であって良いわけがあるか……!」
動揺して言葉が震えた。
今、世界中で躍起になって開発している新型爆弾は、それこそ使い方を誤れば世界を破滅へと追いやることになるだろう。
そんなものは自然淘汰などではない。
世界を破滅へ導く神の火だ。
「君は、現実をもっとよく知るべきだ……」
横柄で不遜なことで有名な若手の科学者は、それだけ少女に向かって言い捨てると雪の降り積もる研究所の庭で踵を返した。
それは、禁じ手だ。
使ってはならない神の炎。
ランダウは不条理な現実に心を震わせた。
――世界は、「楽園のリンゴ」を手にしようとしている。




