13 次なる一手
「子供が出てきては、”彼ら”は我が国が馬鹿にしていると思うかも知れない」
「そうですね」
切り出したアルベルト・シュペーアにマリーは小さく首を傾げながらそう言った。どこまでわかっていて、どこまでわかっていないのか理解しがたい。
自分の体よりもずっと大きな椅子に腰を下ろしているマリーが、世間一般的な少女たちと比べても見劣りする体格のせいで椅子のほうが規格外に見えてくる。少し離れた、シュペーアの執務室の隅の椅子に腰掛けたマイジンガーと、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは共に微妙な表情を浮かべたままで並んでいた。
アルベルト・シュペーアが用事があったのは「マリー」だけだ。マイジンガーでもなければ、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクでもない。
「でも、子供だから聞ける話もあるはずだってシュペーアさんは思ったわけですよね?」
「そうだ」
「わたしに難しい話なんてわかりませんよ?」
名だたる法律家や、建築家はもちろん、マリーにとって科学者ともなればさっぱりだ。
「だが君はハイゼンベルク博士やゾンマーフェルト博士、加えてプランク博士とも話はできているし会話として成立している。だから、君が頭が悪いという点については全く問題ない」
頭が悪い――。
ばっさりと切って捨てたシュペーアの物言いに、マリーのほうはというとわずかに眉をひそめただけで意図的にか、そうでないのかはともかくとしても、目の前の豪華な執務机についた軍需大臣の言葉を聞き流した。
「……それで、ベスト博士とカルテンブルンナー博士から聞いた話では、カピッツァ博士たちと話をしてほしいって聞いたんですけど、どういうことなんですか?」
「現状、新型兵器の開発に閉塞感が生じつつある。もちろん、これは公にはされていない極秘事項であるが。この一件については、君にも秘密の厳守を命じる」
国家機密。
おそらくこの場に陸軍参謀本部の面々や、あるいは国家元帥のヘルマン・ゲーリング辺りが同席していれば、彼女に秘密の厳守を命じることそのものが無謀で、無駄な話だとでも言ってアルベルト・シュペーアを声を大にして彼女に秘密を漏らす事態について、反対しただろうが、残念ながらシュペーアはマリーの口が非常に軽いことを知らなかった。
良くも悪くも権力の風向きを見て嘘をつくことなどできはしない。
「わかりました」
マリーはにっこりと笑った。
とりあえずその場に同席していたのが腰巾着のヨーゼフ・マイジンガーと、特別保安諜報部に配属されたばかりのベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクだったから、少女の屈託のない軽快な返事に異論を唱えない。
「それで要するにわたしはどうすればいいんですか?」
行儀悪くシュペーアの机に頬杖をついたマリーは率直に問いかければ、建築家の青年は片方の眉をつり上げただけで彼女の無礼な態度を特に咎めることもせずに話を先に進めた。
「彼らの話を聞き、懐柔してほしい」
「……そんな難しそうなこと言われても」
シュペーアの言葉にマリーが困惑した。
彼女が知的な男たちと話をするときはいつも横にはその筋の専門家や、知識人の姿があった。
ひとりではなにもできない。
それは彼女自身が自覚するところだ。
よく言えば自分の弱さをよくわかっている。逆を言えば、決断力に欠ける。
「別に君になにか期待しているわけではない。君が頭が悪いのは知っているからな」
「そんなに何度も頭が悪いって言わなくても……」
唇を尖らせたマリーに、椅子を回して窓の外を眺めていたシュペーアが、改めて少女を振り返ると唇の端でにやりと笑った。
「君の頭が我々よりもずっと悪いから、わたしは君に期待しているのだ」
ずけずけと他者からの評価を受けてもマリーはけろりとして、青い瞳をしばたたかせた。
「それなりに優秀だと他者から評価を受ける者。もしくは他者よりも多少は優秀だと自負する者。そして、他者よりも明らかに優秀だと他覚、あるいは自覚する者の多くは、それゆえに思考を硬直させ、目の前にあるものに捕らわれる。君みたいに、頭が悪くて考えが足りない子供のほうが、案外大人の思うところを容易に飛び越えていくことができるというものだ。それに、君が子供で、そして女の子であれば、少なくとも知性的な男というものは”手を上げたり”はしないものだよ」
「……万が一の事態になったらどうするつもりです」
軍需大臣という相手の手前、かろうじて敬語で告げたマイジンガーが腰を浮かせながら、声音に強い警戒を滲ませて告げると、するりとシュペーアが冷徹な瞳を滑らせた。
「君たちの言う、”悪辣な”やり方に晒されるのではないか、ということかね?」
ゲシュタポや、諜報部員たちのような。
目的のためには手段を選ばない男たちが選択する方法をシュペーアが言外に示唆すると、マイジンガーはぐっと喉の奥に言葉を詰まらせた。
女と子供というのは概して弱者だ。
彼らを辱め、命を奪い、その力をそぎ取る手段など考えるまでもない。
「まぁ、その可能性は全くのゼロというわけでもないが、おそらく心配は無用だろう。”彼ら”は、そうしたスターリン体制の圧政に晒されてきたのだからな。国家保安本部の子飼いにしているようなゲシュタポや、諜報部員たちのように、冷酷であれと訓練を受けているわけでもない」
意図的なほど淡々とした声に、マイジンガーは顔色を悪くして、一方で事態をまったくつかめていないベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは慎重にふたりの男とひとりの少女のやりとりを窺っていた。
「しかし、彼女だけでは恣意的に会話を進められる危険性もあるのではないか」
シュペーアの理性的な状況分析に、しかし、マイジンガーは一歩もひかない。
彼女の身に危険が迫るような事態になるのは、どうあっても看過することなどマイジンガーには出来はしなかった。
「心配はわかるが、事態は一刻の猶予もならないのだ」
マイジンガーの気負いをシュペーアは素っ気なく切り捨てる。彼が推進する国防軍の新型兵器開発計画はどれも資金難と人材不足に悩まされつつある。かろうじて、昨年のソビエト連邦との戦争において勝利をおさめられたから良いようなもので、労働力確保と、資金調達、そして研究者の確保は大きな問題としてシュペーアの前にのしかかっていた。
「このたび、こうした”産業”の諸々の問題を前にして、親衛隊の使節団は多くの成果をもたらしてくれたことには感謝している。だからこそ、君らの力を再び借りたいとそう言っているのだ」
これについては、国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーも、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーも承諾し、共に親衛隊と国防軍とで人材を分配することで話はついた。
「しかし、かつてのポーランド戦の時のように優秀な人材を無下に強制収容所に送り込んで技術を奪うというのも余り望むところではない。技術者の養成には時間がかかるものだからな。我々にとって、今必要なものは当面の技術者であり、科学者であり、労働者だ。その先に我が大ドイツの勝利がかかっている」
「……――承知しました」
勝たなければ話にならない。
そんなことは先の欧州大戦で、ドイツの全国民が学んできたはずだ。
「だが、国家のために人がいるわけではない。人のために国家があるのだ。”マイジンガー上級大佐”」
シュペーアのやり口を、人が見れば国家のための捨て駒にしているようにも見えるかも知れない。それでも彼にはやらなければならないことがあった。もちろん、それは「友人でもあるアドルフ・ヒトラー」から託されたという理由もあった。けれども、それだけではない。
アルベルト・シュペーアも、ドイツ人だ。彼も祖国を愛している。
一通りのマイジンガーとのやりとりを終えて、シュペーアは青い瞳にくるくると光を閃かせている小柄で華奢な少女に向き直った。
「ところで、君が昨年くれた報告書は大変興味深かった」
「ありがとうございます」
「君の助言のおかげで、国家機密の漏洩を免れた」
言いながら、背広のポケットから机の引き出しの鍵を取り出すと、一番上のひきだしの鍵をあけて中におさめられた書類の束を取り出した。
その中の一冊には「SS」とルーン文字の印刷が入っている。
「連合国は、我々の新型爆弾の情報をほしがっている。スパイが跋扈しているのはわかっているつもりだったが、国家保安本部がその摘発の手助けをしてくれて大変助かった」
危うく、新型爆弾の資料が英米連合に渡ったかも知れない。
進捗状況が知れるだけでも大変な事だ。
それによって、ドイツの命運が決まると言っても過言ではないだろう。
ドイツの命を引き延ばすためにも、力が必要だった。
「しかし、どうして研究所に裏切り者がいると?」
「人間って弱い生き物ですもの」
マリーはころころと笑った。
「”シュペーアさんだって”、強制収容所の人たちのことを見てきているじゃないですか。誰もがコルベ牧師みたいに立派でいられるわけがないじゃないですか」
ライムンド・コルベ――マキシミリアノ・コルベの名前に、アルベルト・シュペーアはわずかに不愉快げな面持ちになって片目を細めた。
一昨年前の一九四一年に建設をはじめた第一強制収容所で、聖人コルベなどとまことしやかに囁かれるポーランドの牧師だ。
脱走罪の連帯責任を問われ、自ら餓死刑に処せられた不屈の牧師。
敵国のドイツ人から見ても、それは立派な死に際だ。
「……それは、機密事項のはずだ」
シュペーアが喉の奥から絞り出すようにしてやっとの思いでそれだけ告げると、マリーは自分の唇に人差し指の先を押し当てていつものように無邪気な笑顔で口角をつり上げた。
「わたしは、国家保安本部の情報将校ですよ?」
「――……、で、では後ほど、彼らのもとへ軍需省が送り届けさせる。待機しているように」
無理矢理話を締めくくったシュペーアが見せた動揺をマイジンガーは見逃さなかった。こちらもにやりと笑ったが、おそらくいけ好かない軍需大臣の動揺をせいぜいいい気味だと思っただけだろう。
「はーい」
ぴょこりと足のつかない高さの椅子から飛び降りて、マリーはくるりと上質な絨毯の上を小走りにマイジンガーとベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの元へと駆け寄った。
「どこで待てばいいですか? ここ?」
不躾に問いかける少女に、シュペーアは「部下に案内させる」と言い置いた。
そうして若き軍需大臣の執務室を出たマリーは両わきを歩いているマイジンガーとベルトルトを交互に見上げながら屈託なく会話を続ける。
それは時に国内情勢のことであり、時に午後のおやつの話であったりする。
当然ながら前をろくに見てもいない。
この場合、誰かがマリーに対して注意を払っていてくれるのが当然だと思い上がった考えをしているわけではなく、単に考えていないだけだ。
長い廊下の角を曲がろうとした少女は、やはりいつもの如く不注意で向かいから歩いてきた長身の男にぶつかってひしゃげた悲鳴を上げた。
「イズヴィニーチェ・パジャールスタ」
「イズヴィニーチェ」
長身の男と、少女の間で咄嗟にそんなやりとりがされた。
「……は?」
ぽかんと口を開けたのはベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクで、マイジンガーのほうは彼女と男がなにを言っているのかもわからずに眉間のしわを深くするばかりだ。
年齢は四十前後といったところだろう。
ロシア語を話すその男は長い指とわずかにこわばった表情が印象的だが、いかにも貴族然としている。とはいえ、ドイツの軍需省で出会ったドイツ人の少女に対してロシア語で話しかけるというのも一体全体どういう常識の持ち主だろう。
もっともロシア語で話しかけられた少女のほうは少女の方で、なんの疑いもなく自然体でロシア語で長身の男と言葉を交わしていた。
そんなマイジンガーの考えなど意にも介さず、少女と男は身振り手振りを交えて話し込んでいるが、なにぶん言語がロシア語であるためさっぱり他者にはわからない。
とりあえず、考えるよりも先に相手に合わせて言葉がでてくるらしい。
年齢に似合わず流暢にロシア語を解する彼女に、長身のロシア人は少なからず驚いたようだ。
「ダ・スヴィダーニャ」
しばらく会話を続けてから、男は少女にひらりと手を振った。
「ダ・スヴィダーニャ」
マリーも相手に片手を振り返す。
そういえば少女は多国語に通じているとベストとヨストが言っていたのを思いだしたマイジンガーは頭を下げてマリーを見下ろすと、改めて問いかけた。
「彼は?」
「シベリアに”送られていた”音楽家さんですって」
「ふぅん……」
音楽家ねぇ。
いまひとつ要領を得ないマイジンガーは勝手に「スターリン体制に反対していた活動家がシベリアにあると噂されている強制収容所に送られてでもいたのだろうか」などと考えた。
このとき、マリー以外のふたりの男たちはすれ違った長身のロシア人が「スターリン体制での囚人」などではなく「スターリン体制での天才」であることをまだ知らなかった。




