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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IV 神の炎
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11 緞帳

 静かな。

 余分な感情に揺れることのない瞳は、確かに”彼”とよく似ている、とアルフレート・ナウヨックスは思った。

 もっとも、似ていると言っても「彼」と「彼女」とでは余りにも対照的な側面があった。それでも、ナウヨックスには今現在自分の上官となった少女と、今は亡きラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将が似ていると思う。

 そう思ったのだ。

 それは決して理屈ではない。

親衛隊大佐殿スタンダルテンフューラー

 背中で両腕を組んで姿勢を正し、ナウヨックスはヴァルター・シェレンベルクに呼び掛ける。

「どうした?」

 書き物をしていた手を止めて、シェレンベルクは顔を上げる。

「……彼女は」

 そこまで言いかけて、ナウヨックスは咳払いをした。いくら年少の少女であるとは言え、現在はナウヨックスの上官である。形式を重んじるナチス親衛隊で上官を軽んじることなどあってはならない。

「マリア・ハイドリヒ親衛隊大尉殿はいったい何者なのでありますか?」

 単刀直入なナウヨックスの言葉に、シェレンベルクはあからさまに眉をひそめた。

「何が言いたい?」

「小官を、国家保安本部へ喚び戻してくださったハイドリヒ大尉には感謝しております。ですが、どうして小官であったのか、正直理解に苦しんでおります」

「……さて」

 つぶやいてヴァルター・シェレンベルクは万年筆のキャップをすると丁寧な動作で機上にペンを置く。

「それはわたしも知らんことだ」

 シェレンベルクの言葉は嘘ではない。

 日本からヨーゼフ・マイジンガー、パリからヴェルナー・ベスト。そして東部戦線からハインツ・ヨストとアルフレート・ナウヨックスを喚び戻したのはシェレンベルクではないのだから。

 もっともまだマイジンガーはドイツに到着していないから顔も合わせていないが、シェレンベルクは「ワルシャワの殺人鬼」と呼ばれた男のことを余り好きではなかったから、できればそのまま日本に飛ばしたままにしておいたほうが精神衛生に良い。

 正直、もっとましな人選があるのではないかとすら思うところもあるが、その答えはマリーの中にしかないのかもしれない。

「君は命令を遂行すればいい」

 突き放すようにも聞こえるシェレンベルクの言葉にナウヨックスが一瞬だけ逡巡した。

「もちろんそのつもりではありますが……」

 ……ただ。

 アルフレート・ナウヨックスはそこまで言って口ごもった。文句があるわけではない。

「ただ?」

「……ハイドリヒ親衛隊大尉は」

 ためらうように言葉を選ぶナウヨックスの視線が泳いでいる。

「言え」

 シェレンベルクがナウヨックスに命じた。

「なぜ大尉殿ハプトストルムフューラーは、あれほどまで亡き国家保安本部長官によく似ていらっしゃるのか……。本官には理解致しかねます」

 迷った末にやっとそう言ったナウヨックスは険しい顔のままで考え込んでしまった。

「似ているというのは?」

 ナウヨックスの言葉にシェレンベルクは内心でわずかに動揺する。

 彼は彼女にまつわる経過(いきさつ)を知らないはずだ。だというのに、ナウヨックスは「似ている」と言った。

「似ているのです。仕草や目線のやりかた、そういったほんのわずかなところが。何と申し上げれば良いのかはわかりませんが」

「そうか……」

 ナウヨックスの言葉を聞きながらシェレンベルクは腹の前で両手の指を組むと相づちを打ちながら考え込んだ。

「彼女の出自に関して、貴官が気を揉む必要はない。貴官は自分に与えられた任務を全うせよ」

「……了解しました(ヤヴォール)

 与えられた任務。

 その言葉にナウヨックスは一瞬だけ言葉に詰まった様子だった。

 もちろんだが、ヴァルター・シェレンベルクはそれをナウヨックスにご丁寧に説明するつもりなどない。マリーの部下でしかないナウヨックスには、マリーが何者であるのかなど関係のない話でしかなかったのだから。

 退室したナウヨックスを見送ってからシェレンベルクはそっと両目を細めた。

 アルフレート・ナウヨックス。彼はいったい何を感じていたのだろう。

 少し前のヴィルヘルム・カナリスのように。

 ナウヨックスもまた理屈ではないところでマリーの異質さを感じ取っていた。彼女を理解しようとするとき、理詰めで考えるとわけがわからなくなることばかりなのである。

 それ故に。

 ナウヨックスやカナリスのように、直感で理解するほうが正しいのではないかとすらシェレンベルクは思う。

 つい頭で考えてしまうような自分にはなかなか難儀なことで、シェレンベルクはかすかに自嘲するような笑みを浮かべた。

 人間にはあくまでも得手不得手があり、ヴァルター・シェレンベルクは本能に近しい部分での判断に従って生の選択をしている戦士たちの生き方なぞ、ついぞ理解できはしない。

 なぜなら、シェレンベルクは戦士でもなければ、騎士でもない。

 そんなものではないと自ら自覚している。

 戦いの中に生きているわけではない。また軍師でもない。言ってみれば戦争という行為に対して、ヴァルター・シェレンベルクはもっぱら門外漢だった。

 そんな自分に、戦士の生き方も、騎士の名誉も理解などできるわけもないのだ。

 おそらく情報戦というところに生きている諜報員(かれら)の生き方は、戦士たちのそれとはまた真逆の生き方であるに違いない。

 謀略の世界で生きる諜報員たちに、戦士の生き方などできはしないし、逆もまた然りだ。

 革張りの椅子に深く腰掛けたまま、シェレンベルクは長い息を吐き出した。

 ナウヨックスもまた、そうした意味では戦士としての生き方をする男だ。

 戦場とは常に孤独で、自分だけが生き残る子だけで精一杯という状況。諜報員たちの戦いとは異なるそれ。

 長い脚を組み直してシェレンベルクは目を閉じる。


 シェレンベルクがマリーを連れてプラハに飛んでいた際、総統官邸から呼び出しがあったらしい。

 そういった報告は聞いている。

 国家保安本部長官兼親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラー親衛隊名誉中将。国家保安本部長官代理兼第一局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将、第六局特別保安諜報部長首席補佐官ヴェルナー・ベスト親衛隊中将、同部次席補佐官ハインツ・ヨスト親衛隊少将の四名だ。

 呼び出しをかけたのは、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーで、その場に同席したのは一部の側近たちである。

「今回の捜査の指示を出したのは特別保安諜報部長、マリア・ハイドリヒ親衛隊大尉で相違ないか?」

 マルティン・ボルマンがそう問いかけたという。

 報告書をぺらりとめくってシェレンベルクは考える。

 記載者のサインはヴェルナー・ベストとあった。

 そんな上背の低い男の問いかけに興味深そうな顔をしたのはヘルマン・ゲーリングで、アドルフ・ヒトラーに至っては神経質そうな両眼に怒りの光をちらつかせていたらしい。

 常々戦争と政治について女性が口出しすることを嫌うヒトラーのことだ。

 想像に難くはない。

「間違いありません」

 表情を変えずにベストはそう言った。

「ドイツ第三帝国に弓を引く者が総統の周囲にいることを突き止め、一網打尽とするように指示を受けたのです」

 ヴェルナー・ベストの答えには迷いはない。

「……それで、テロリストはいたのか?」

「はい、アメリカの戦略情報局(OSS)の諜報員と思われる者を突き止めました」

 容疑はドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーへ対するテロリズム行為。

「共産主義者とのつながりを持つ者もおります。ほぼ間違いなく、この両者は協力関係にあると考えます」

 間違いなく。

 なぜそう言い切れるか。

 ヴェルナー・ベストは考えを巡らせた。彼とてつい二年程前まで国家保安本部の一員であった。

 復職しその考え方に戻ることなど容易なことだ。

「確かに総統を狙っていたのか?」

 うなるように言ったのは国防軍空軍の総司令官を務める巨漢――ヘルマン・ゲーリングだ。

「戦略情報局の諜報員に手を回し入手した情報です。間違いありません」

「……――」

 この場にはいないマリア・ハイドリヒなら、なんと答えるだろう。

 首席補佐官のヴェルナー・ベストはそう考えた。

 おそらく、マリーがベストやヨストらに告げていないことは山ほどある。今回、この戦略情報局の情報をかぎつけ、官邸に踏み込む決定をしたのはマリーなのだ。

「捜査経過については、ミュラー、ネーベ両刑事局長から報告を受けた」

 ボルマンの耳障りな声に、ゲーリングがわずかに眉をひそめている。なにかを思っているようだが、口にはしない。

「アメリカ戦略情報局の総統に対するテロ行為が発覚した今、それは重大な問題であると認識しなければならん。万が一、総統の生命(いのち)が危険に晒されるようなことになれば、ドイツ第三帝国の存亡にも関わる問題となるだろう」

 まるで書類を読み上げるようなマルティン・ボルマンの声を、ハインツ・ヨストは黙って聞いている。

 アメリカ合衆国戦略情報局の主導するヒトラーに対するテロは秋に実行に移すつもりであったらしい。これに対して、ドイツ当局は戦略情報局(OSS)につながりを持つ地下組織の摘発に成功した。

 物資の援助。情報の統制、時にはドイツ情報官を籠絡し、ドイツから切り離す。そういった行為も行っている。

 これらによって被った被害は計り知れないだろう。

 計画の概要としては、ヒトラーに女性ホルモンを投与、あるいは毒を盛り、権力を失墜させること。もしくは殺害。

 もっとも、とベストは思った。

 アドルフ・ヒトラーの体調を悪化させてその権威の失墜を目論むより、殺害したほうが手っ取り早いのではないかとも思うが、おそらくそれはアメリカが関与していたという事実を表に出したくなかったせいなのかもしれない。

「それで、当のマリア・ハイドリヒ大尉は今はどこにいるのだね?」

 彼女の立案した捜査計画であるというのに、責任者がいない。

 さらにその直属の上司である第六局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐も不在だ。

「現在、ベーメン・メーレン保護領へ対外諜報局長と共にプラハに飛んでおります」

 国家元帥ヘルマン・ゲーリングの重々しい言葉に応じたのは、国家保安本部長官代理であるブルーノ・シュトレッケンバッハだ。

「ハイドリヒ親衛隊大尉は、まだ年若い少女であると報告を受けているが本当かね? 親衛隊長官」

 親衛隊長官、という言葉に皮肉げな色を滲ませるヒトラーの声に、小心者のヒムラーの目が落ちつきなく泳ぐ。

 冷や汗をかいているのは彼の動揺を物語っていた。

「はい、総統閣下」

「……わたしへのテロを看破したそうだな」

 低く静かなヒトラーの声はいっそ静かすぎて不気味にすら思えてくる。

「しかしながら、閣下、お言葉ですが、彼女はドイツのありとあらゆる情報に通じており、国家保安本部(RSHA)の優秀な職員でありまして、その才能を女性だからという理由だけで切り捨てるには忍びなく……」

 言い訳するように揺れるヒムラーの言葉を黙って聞きながら、動揺しているのはハインツ・ヨストも同じらしい。ベストと比べると遙かに顔色が悪い。

 シュトレッケンバッハは無表情のままで、一方のベストはというと裁判官らしく堂々として自分達の目の前にいる政府高官たちを見つめていた。

「政治家を気取る女は好かんが、時に、女が優秀な諜報部員であることも否定はせぬ。かつてのマタ・ハリのようにな」

 マタ・ハリ。

 一九一七年に処刑された女スパイだ。

 本名をマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ。オランダ人のダンサーで、ヴィルヘルム・カナリス提督の恋人であったとされるが、その真相は定かではない。

 マタ・ハリは多数のフランス、ドイツ人将校とベッドを共にしたとされるが、問題となっている少女が、有名な女スパイのようなハニートラップができるかと問われると、そんな気は全くしない。

 マリーを見た者が、彼女の外見を簡単に表現するなら「ヤセギス」という表現が最も適切だろう。

 そんなヤセギスの少女が、豊満な肉体を持ったマタ・ハリのような性的関係を利用して相手を籠絡することができるだろうか? もしくは彼女のような痩せて発達不良でもあるかのような少女に、情愛的な感情を抱く者がいるならばそれはそれで問題な性的嗜好であるようにも思えてくる。

 どちらにしたところでヴェルナー・ベストが見るところ、マリーはそう言った外見でしかない。

「すでに国民啓蒙・宣伝大臣や、外務大臣が彼女に会っているそうだが、官房長から見てどのように感じられたのかね?」

 すでに貴様も問題の少女に会っているだろう、というゲーリングの言葉にヒトラーが片方の眉をつり上げた。

「知っていたのか?」

「……は」

 なぜ報告しなかった!

 叫び出しそうな勢いのヒトラーにボルマンが小さく肩を縮めると、ヒムラーを恨めしそうに見やる。

「本官の一存で、マリア・ハイドリヒには親衛隊員の資格を授与いたしました。そのときはこのような事態になるとは思わず……」

 途切れがちになるヒムラーの言葉に、ヒトラーが口を開きかけたそのときだ。

「失礼いたします」

 ノックの音と共に、国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスが入ってきた。

「総統閣下。”彼女”に関わることですが、別段、政治に口を出しているわけでもなければ、戦争に対してしゃしゃりでているわけでもございません。ドイツ国内の警察機構の一員と考えれば、彼女の情報網は大いに役立つものと思われます。時に、あのようなか弱い女性職員というものは、国家の武器として有用なこともございますれば」

 まるで演説でもするように、ゲッベルスが告げると眉尻をつり上げたのはゲーリングだ。

「ドイツの美しい女性を政治の武器にしろと言うのか!」

「そうではありません、時に武器になると申し上げているだけです。国家元帥閣下。外交の手段のひとつとして、非力な女性がその場に立つことによって導きだせる結果もありましょう」

 そう。

 馬鹿な政治家も多い。

「彼女が優秀であろうとなかろうと、彼女の名前は役に立ちます」

 マリア・ハイドリヒ。

 その名前。

 かつての恐怖の代名詞とも言える男と同じ姓を持つ少女。

「優秀でなければ、国家保安本部(RSHA)の高官共に操らせれば良いのですから」



 ヒトラーやゲーリングの批難が集中しかけたところに、ゲッベルスが口を出してきたのがなんとも気持ちが悪い。

 シェレンベルクはそんなことを感じながら、報告書に一通り目を通すと溜め息をついた。

 どちらにしたところで、近日中にマリア・ハイドリヒと共に官邸に出頭せよと言う命令が届いている。

 言いくるめることは簡単だが、あの集団――ヒトラーの側近たち――の中には必ずひとりやふたり、事態を引っかき回そうとしてくる者がいるのだ。

 それを警戒しなければならないだろう。

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