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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVI ゴフェル
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11 神の鞭

 はじめて彼のもとにその一報が届いたのは二月の終わりの頃だった。甚だ苦々しい、という以外のなにものでもない。まさか一騎当千の戦士をふたり程度加えた小規模な部隊の襲撃が、結果的に「あんな」事態になるとは、さすがのアレン・ダレスも思っていなかった。

 見通しが甘すぎると詰られればそれまでだが、現実的に、欧州の動向を含めてアジアの戦線まで手広く見通していたわけではない。

 あくまで彼の管轄は「欧州支部」なのである。

 振り返れば、イギリス秘密情報部(SIS)イギリス空軍特殊部隊(SAS)の「へま」だ。

 太平洋戦線及び、東南アジア戦線、そして北アフリカ戦線での天然痘の感染拡大はアメリカ合衆国の主要新聞社にとって一気に拡散され、それが遠く離れたアメリカ本土に強烈なインパクトを与え、パニックに陥れた。

 情報をリークしたのはアメリカに潜伏するドイツの諜報部員であることをジョン・エドガー・フーヴァーの率いるアメリカ連邦捜査局(FBI)が突き止めた。しかし、アメリカ情報部に先手を打つ形で拡散されたそれはすでに制御する手立てを失っており、「おもしろおかしい」尾ひれをつけて暴走の一途を辿った。

 低俗にあおり立てられた恐怖はすでに誰に求められはしない。

 全てを飲み込む業火(ごうか)の如く。

 人の言葉は口から口へ、恐怖の情報を付け加えられ、脚色されて暴走する。

 もはや一介の情報将校程度では留められないほど、アメリカ全土をパニックの渦中に覆い尽くした。

 スイスのベルンから急遽帰国した、戦略情報局(OSS)の長官を務めるアレン・ダレスは、連邦捜査局を訪ねると、まっすぐにフーヴァーの執務室へと怒鳴り込んだ。

 これはいったいどういうことだ、と。

「貴様の下らん主義主張はどうだっていい。たかがアジアの発展途上国に出し抜かれるなど愚鈍にも程がある!」

 強い口調で罵ったダレスにフーヴァーはぴくりと眉毛をつり上げると、ぎょろりと目玉を動かして口ひげの印象的なアメリカ屈指の特殊工作官を睨み付けた。しかし、そんなことで数多くの修羅場をくぐり抜けたダレスは怯まなかった。

 アメリカ連邦捜査局に白人捜査官しか配置されないのは、主にフーヴァーの以降であるところを、アレン・ダレスは正確に看破していた。

 北方系白人の指導社会層から、ヒスパニック、中東アジア、スラブ、東部アジア、そしてアフリカ系。ありとあらゆる人種がアメリカ国内に生活している。その状況を踏まえて国内諜報部門の指揮を執るフーヴァーの対応が、アレン・ダレスにはひどく稚拙で偏狭なものに見えた。

 フーヴァーの好みがどうあれ、彼の好む白人だけでは目立つのだ。

 日印共同部隊の襲撃を受け、敗北に喫し、あまつさえガダルカナル島という大平洋における拠点のひとつを奪還された。その敗北そのものは、海兵隊の失態だが、その後の国内におけるフーヴァーの対応がまずかった。

 フーヴァーの中にある白人至上主義のおかげで、有色人種たちへの蔑視と、白人優位的な価値観から、フーヴァーは責任ある立場に立つ者として状況を見誤り、ドイツ系のスパイが跋扈するのに任せる結果になった。

 好むと好まざるとに関わらず。

 くだらない白人至上主義などに踊らされた結果だ。

 優秀な者は、どんな人種であれ有効活用すべきだ、とダレスは考えた。

「なんだと」

 アレン・ダレスの言葉に、フーヴァーは全身に怒りをみなぎらせると体をゆすって、執務机に身を乗り出した。

「俺が愚鈍だとでも言いたいのか」

 噛みつくようにドスの利かせた声で言った連邦捜査局長官に、ダレスは侮蔑するように低く笑った。

「違うのかね?」

 ひととおり罵詈雑言をたたきつけてから、ある程度は気も晴れたのかアレン・ダレスは改めて落ち着きを取り戻した。

 フーヴァーの机の前に置かれた椅子に腰を下ろしたダレスは、不機嫌な表情はそのままで足を組み合わせる。

 いずれにしろ、いつまでもフーヴァーの失態を詰ってみたところでなんの解決にもなりはしない。

 彼がどう思っているかはともかく、諜報部の失敗とは、つまるところアレン・ダレスの失敗でもある。

 情勢を見通すことができなかったのだ!

「とにかく、ドイツとの戦争に参戦するために無理矢理、日本の開戦を煽りようやく戦争にまで持ち込んで、連中を泥沼に引きずり込んだところだというのに、全く台無しだ」

 苦々しくダレスは何度目かの舌打ちを鳴らした。

 アメリカ合衆国内の世論はそもそもヨーロッパ大陸での戦争に参加することに大して強抵抗を示していた。苦心してローズヴェルト率いるアメリカ議会が一丸となって国内世論を誘導し、ドイツの同盟酷でもある大日本帝国を追い込んで宣戦布告させたというのに、その主戦場となっている熱帯地方で発生した天然痘という恐るべき病魔はアメリカを文字通り震撼させた。

 先の欧州大戦でのスペイン風邪どころではない……――。

 ぞっとするほど恐ろしい死の病。

 フーヴァーの考えなど、アレン・ダレスが考慮するべくもない。

 ダレス自身が「そう」であるように、フーヴァーもまた「国家の駒」でしかないのだ。

 そして共に諜報部員である以上、やるべきことは決まっていた。

「フーヴァー長官」

 アレン・ダレスが表情を改めた。

「……なにか?」

「国内に潜り込んだスパイ共を、徹底的にあぶり出したまえ」

 あるいは「もっと重大な」情報が漏洩している危険性もあった。

 悪寒にも似た「予感」を感じて、ダレスは我知らずに身震いをした。



  *

「……む」

 ニュージャージー州にある自宅で、のんびりとタバコをくわえていたヴォルフガング・パウリは気のなさそうな表情で物理学の学術雑誌を眺めていたが、その隙間から出てきた封筒に目を丸くしてから、次いで片目をすがめると、立ち上がりながら雑誌を閉じた。

 封筒の宛名書きには見慣れた文字だ。

 彼がまだ尻の青い学生の時から交友関係を持っていた天才。

 字を見てすぐにわかった。

 「彼」だ、と。

 まだパウリと「彼」が出会ったばかりの頃、「彼」は一歳年下の、多感な少年だったことをよく覚えている。

 誰よりもパウリが尊敬した師――アルノルト・ゾンマーフェルトに「彼」をよろしく頼むと言われなければ、面倒臭いからわざわざ面倒など見なかった。

「……――ヴェルナー・ハイゼンベルク」

 まるで遠い追憶の彼方にある記憶の欠片へ呼び掛けるように、パウリはその名前を呟いた。

 いろいろなことがあった。

 ヨーロッパ全土を巻き込んだ、科学界の論争や、天才――アルベルト・アインシュタインのこと。

 祖国、ドイツを平凡なドイツの市民たちと同じように愛し続けたドイツ人科学者たちのこと。

 たくさんのことがありすぎて、パウリにはそれすらも懐かしくてならない。

 なによりも印象的だったのは、とても物理学を志す者とは思えない多感な青年のことだった。

 ハイゼンベルクはいつも情緒不安定と思えるような、それでも暑苦しいほどの情熱をもって物理学――量子力学にのめりこんだ。

「ハイゼンベルク、君は”世界の事をよく知らないということ”が武器になるよ。もちろん、それで失敗する可能性のほうが多いけれどもね」

 皮肉げに言ったパウリに、彼はどんな顔をしていただろうか。

 よく笑い、よく泣き、よく怒り、そしてよく歌を歌っていた。

 懐かしくて彼の手紙を開いた彼はじっと記憶に浸るように、何度も何度もその文面を読み返しては思い出に苦く笑った。

 彼はまた泣いていたのだろうか。

 手紙ににじんだ涙がハイゼンベルクの多感さを思い出させた。ヴェルナー・ハイゼンベルクが手紙を綴っているところなど想像しなくてもわかる。

 きっと彼は泣いていたのだ。

 偏狭な「ドイツ物理学」とやらに振り回されて、それをどうすることもできない自分が悔しくてならなくて。

 薄暗い書斎で手紙を読んでいたパウリは、ふと窓辺にこつりとガラスを叩く音にぎょっとして振り返った。けれども、そこにいたのは人ではなかった。

 小鳥がくちばしでコツコツとガラスをたたいているだけだ。そんな様子にヴォルフガング・パウリはほっと胸をなで下ろした。

 戦時下という非常事態で、パウリがハイゼンベルクからの手紙を受け取ったと言うことがアメリカ合衆国の当局に知られるような事態になれば、パウリ自身の身の上も危険にさらされる。ただでさえ、現在のアメリカは国内の状況を厳重に監視している。

 イタリアから逃れてきたフェルミもそうだ。

 亡命ユダヤ人は、多くが厳重な監視のもとに生活を余儀なくされているのである。

 それにしても、とパウリは考えた。いったいいつから、学術雑誌の間に手紙など挟み込まれていたのだろう。

 彼がその手紙を書いた日付を見た限りは、昨年らしいが、まさか昨日今日、手紙がパウリのもとに届けられたわけでもなさそうだ。

 そんなことを考えて封筒を改めると、その中には薄い紙で綴られたもう一枚の手紙と、写真が添えられていた。

 ――パウリ先生へ。

 字面を見た限りでは気取った男性の書体にも見えるが、手紙の内容を見る限り女性が書いたもののようだ。

 しかも、とても学識が高い女性ではないだろう。

 年老いたアルノルト・ゾンマーフェルトと、若いハイゼンベルクに両わきを挟まれて、両目を線のように細めて大口を開けて笑っている少女がいる。

 白黒写真だったから、色はわからないが髪の色素が薄いことだけはわかった。

 名前はどうやら「マリー」と言うらしい。

「ゾンマーフェルト先生に、今は家庭教師をしてもらっています。ドイツは”いろいろと”大変ですが、ハイゼンベルク博士はとても後悔しているみたいなので、いつかふたりが仲直りできればいいなって思います」

 どこの小学生の手紙だ。

 パウリは内心頭が痛くなった。

 ハイゼンベルクの手紙と、少女の手紙を照らし合わせた結果、パウリは恩師と親友と一緒に映っている少女が、どうやら十代半ばであることを推測した。しかもこの見るからに間抜けそうな少女の家庭教師をアルノルト・ゾンマーフェルトが務めていることを考えれば、もしかしたら見かけによらず、優秀な子供なのだろうか?

 二通の手紙を前にして、パウリが体を前後に揺らしながら考え込んだが、結局、ドイツから遠く離れたアメリカ合衆国ではそれ以上の解答をうまく見つけられずに、思考することをパウリは放棄した。

 政治も、謀略も。

 パウリにとっては専門外だ。

 離れて久しい友人たちの人間関係を推察することも同様だ。

 だが、それでもパウリにはひとつだけ言えることがあった。

 ゾンマーフェルト、ハイゼンベルクの両者は共に誠実で真摯な人柄だ。そうした点では、ドイツ物理学会のフィリップ・レーナルトやヨハネス・シュタルクといった俗物とは異なるところだった。

 パウリが覚えている限り、彼らはマックス・プランク同様に、科学というものに対して限りなく誠実であり続けた。

「歳を取ると感傷的になっていかんな」

 自嘲するようにぼそりと呟いたパウリは、それから手紙と写真をもとの封筒に戻すと、雑誌の間に挟み込んでそのまま普段と変わりなく本棚の隙間に詰め込んだ。

 ――神の鞭。

 ――あるいは物理学の良心。

 そう呼ばれていた自分の役割は、戦前も、戦中の現在も。

 そしてこれからも変わることはない。

「ハイゼンベルク。”君”が泣きながらドイツを守るために戦う事を選んだのなら、わたしはそれを受け入れよう。君が、祖国のために選択した道は決して間違ってはいないのだから」

 誰にも、祖国を愛し、守りたいと願う権利は存在している。

 どんなに残虐の限りを尽くす祖国であったとしても。

 長く彼のことを見守ってきたパウリだからこそ、ハイゼンベルクのことはよくわかった。

 ヴェルナー・ハイゼンベルクという天才科学者は、それこそ自分の中に存在する矛盾や、体制に対する非難、友人たちと引き裂かれた苦しさの中で自分が粉々になるほどの苦痛を味わいながら、泣きながら前へ進む道を選び取った。

「君が苦しんでいることはわかっている」

 けれども手を差し伸べてやることは、パウリの役目ではなかった。

「いつか戦争が終わったとき、君と再会できることを願う」

 そのときにこそ、ハイゼンベルクに対する役目を果たせればいい。

 パウリはそう願って深く椅子に座り込むと、そのまま目を閉ざした。

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