10 敵の心臓部
「君のことは、もちろん嫌いではない」
どんな表情をすれば良いのかわからなくて、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクはマリーに困惑気味にそう告げた。
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは三十七歳で、実のところ、国家保安本部の中核を構成する人員のほとんどが、ベルトルトと年齢は変わらない。
ヴェルナー・ベストが三十九歳で、ハイツ・ヨストが三十八歳だった。
実際、国家保安本部はナチス親衛隊の中にあっても突出して「若い」組織だった。それはナチス親衛隊のみならず、国防軍、あるいは突撃隊と比較しても。
それ故に、国家保安本部内ですら、より他者よりも優位性を保とうとして激しく衝突した。もっとも、それも若さ故、体力が有り余り、なおかつ血気盛んともなればやむを得ないことなのかも知れない。
だからこそ、「居心地が悪い」。
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは、執務机についている少女の隣に座っているヴェルナー・ベストを眺めてから、その次にハインツ・ヨストを見て、それからもう一度、金髪の少女に視線を戻した。
机に両肘をついて小首を傾げると、自分の隣に座っているベストの書類を差しだす長い指を青い瞳で追いかけた。
いったい彼女はこの国家保安本部でなにをしているのだろう。
そもそも、彼女はなんのために国家保安本部に所属しているのだ?
たった十六歳の子供が。
おおよそ情報将校には向いているとは思えないマリーは指先で万年筆を弄びながら、小さなあくびをもらした。
彼女の送迎をするゲシュタポの捜査官は相変わらず彼女の寝起きの悪さには手を焼いているらしいが、本人は悪びれる様子もない。
それもそれで組織人としていかがなものかと思うのはドイツ人ゆえなのだろう。それはさておいて、高等教育も受けていない少女だということを聞かされて、今ひとつ世間の常識に欠けるのももっともだと納得もさせられた。
弟のクラウスと共にマリーに初めてであったのは昨年の秋だ。
前陸軍参謀総長を務めたという大物――退役軍人の自宅でだ。一時的にそこで暮らしているという少女は、とてもベック夫妻には似ても似つかなくて、血縁関係があるとでも言われれば、ベルトルトもクラウスも即座に否定しただろう。そこのところは、やはり職業軍人だった過去も手伝って、率直に「預かっているだけ」だと伝えられた。
金髪の少女は屈託もなく、祖父ほど年齢の離れた男にまとわりついていたのが印象的だった。
十六歳ともなれば、大人の世界に関心を持つ微妙な年頃でもあり、早熟な少女であれば男性との肉体的な関係にも関心を持ち始める。
内面は子供でありながら、子供の好奇心の強さ故におとなたちの世界に興味深い眼差しを向けるのだ。
子供というものはそういうものだ。
頭が足りないのかと思えば、ベックの書斎でエルウィン・ロンメルの書いた軍事の専門書などをソファに寝そべって読んでいたりと、なんとも不思議で正体不明な印象を受けた。
そんな無邪気な印象があったから、国家保安本部を含めたゲシュタポの連中はともかく、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは個人として、マリーのことが嫌いではない。だいたい、とベルトルトは内心で憤慨した。
社会的な意味でも判断能力の怪しい子供に警察権力を引き渡すなど、正気の沙汰ではない。
大人でさえ。強大な権力を握ると私腹を肥やしたくなるのが当然なのだ。甘い誘惑を前に自分を律し続けることができる者はそれほど多くない。そう考えれば、子供が自分を制御することができなくても当然だ。
国家保安本部国外諜報局の一員として、自分がどう立ち居振る舞えばいいのかわからずに考え込んでいたベルトルトの耳に小さなノックの音と、青年の声が聞こえてきて
「失礼します」
入ってきたのはハンサムな親衛隊少尉だった。
特別保安諜報部で医務官を務めるカール・ゲープハルトの助手を務めるヨーゼフ・メンゲレだ。野心的で東部戦線では多くの味方の武装親衛隊の隊員たちの命を救う一助となった。もちろん、そんな事情を民間人のベルトルトが知るわけもないのだが、執務室へ入ってきた青年の放つものものしい圧迫感に、ちらりと視線を上げた。
ベルトルトが初めて顔を合わせるのはヨストやベストも大差はなかったが、メンゲレに対して違和感に近い奇妙な感触を覚えて片方の眉尻をつり上げた。
「失礼します、閣下」
閣下――、おそらくそれは親衛隊中将のベストと、親衛隊少将のヨストに向けられたものだろう。民間人として公平に見るならば、入室してきた男は親衛隊少尉で、まがりなりにも部署長であるマリーは親衛隊少佐だったから、ベストとヨストと比べて階級が低いからといって、ないがしろにしてもいいというわけでもない。いかに気に入らなかろうと、それはそれである。
そんな扱いを受ける少女が、ベルトルトはほんの少しだけかわいそうになった。
「ゲープハルト中将閣下から御伝言です」
言いながら薄いファイルを差しだしたメンゲレに、ちらと視線を上げてからベストはファイルを無言で受け取って顎をしゃくる。
「伯爵閣下、紹介が遅れましたが、彼は軍医をしていますヨーゼフ・メンゲレ博士です」
「……――ハイル・ヒトラー」
カッと靴音を鳴らして敬礼をしてみせるヨーゼフ・メンゲレの姿に、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクはかすかに鬱陶しげな光を瞳にちらつかせたが、結局、態度に出したのはそれだけで、ことさらにナチス親衛隊のあり方を言及することはなかった。
「どうも、シェンク・フォン・シュタウフェンベルクです」
素っ気なくベルトルトがメンゲレに名乗った。
それ以上の熱心な関係を築こうと思っていないのはお互いの態度から明らかだった。
「それで、ゲープハルト中将がどうした?」
ベストがとりあえず、その場の空気を取り繕うようにメンゲレに問いかける。もちろん、ベストのほうもメンゲレとベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの間柄を取り持つつもりなどなかったし、根本的なところでメンゲレの武装親衛隊での業務をそれほど熱心に評価していなかった。
所詮「選別」をしていただけのことだ。
そんな程度の仕事なら幼児にだって可能だろう。
「健康診断だそうです」
「健康診断?」
メンゲレの言葉を聞き返しながら、ベストはファイルに挟まれた手書きの書類に視線を落とすと小首を傾げる。
確かに「健康診断」と書いてある。
「はい、年末に肺炎を起こした後の”定期検診”だそうです」
そういえばもう年も明けて、三月だ。
北国のドイツではまだまだ寒い季節だが、それでも日一日と寒さはゆるんでいくようだ。
「なるほど。後ほど内線をいれると伝えてくれ」
「承知致しました」
メンゲレは、とベルトルトは思った。
あのハンサムな青年は、高級指導者のベストとヨストには敬意を払っている様子だが、まるでマリーの存在など眼中にないとでも言いたげだ。ベルトルトの知己だという色眼鏡でもないが、まるで「自分が気に入らない」という理由だけで、あからさまに少女の存在を一顧だにしないという態度も子供じみている。
そんなやりとりの後にマリーの執務室を出て行った青年医師を見送って、ベルトルトは改めて口を開いた。
「わたしはなにをすればいいのだね?」
ナチス親衛隊のベストとヨストが高級指導者であるからと言って、そんなことに臆するようなベルトルトではなかった。
「国外諜報局の工作官として働いていただく」
「わたしは民間人ですが? 中将」
「そんなことは”初めから”わかっております」
互いの腹を探るようなやりとりが鋭い刃物のようにヴェルナー・ベストとベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの間で交わされた。
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵がそれまでの人生を、理知的な慧眼をもって法律の世界で国際法の専門家として生きてきたように、またヴェルナー・ベストも警察官僚のひとりとしてドイツの政治警察の世界を法律家のひとりとして目の当たりにしてきた。
ラインハルト・ハイドリヒの副官――。
そう呼ばれた切れ者の警察官僚だ。
時にはハイドリヒとも激しく対立し、自分の地位と名誉すら危うくすることもあった。結果的に国家保安本部を辞し、パリで民政本部長官として任命されたわけだから、ハイドリヒとの権力闘争にベストは敗北に喫する形となった。それをベストは悔やんではいない。
ラインハルト・ハイドリヒのあの頑強とも思える強硬な政策に対する姿勢が、今の結果を生み出したのだ。
ドイツ第三帝国にとって最悪の事態――。
権力者たちをも監視し、恐怖に陥れる悪魔の瞳。
国家保安本部長官、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺。
ベストが観察するところでは、ハイドリヒほど国家の中枢を徹底的に監視することのできる人間はいなかった。
敵を見極め、犯罪の臭いをかぎ取り、それらを絶妙に利用して恣意的に方向付けることにかけては天才的だ。
「ですが、秘密を知られた以上、我々は閣下を野放しにするわけにはいかないのです」
じろりとベストが視線を走らせた。
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクに拒否権がないのは、彼自身がわかっているはずだ。
「我々としても第三者の部外者を秘密の中枢に配置することは賛成していないのですから」
ふたりの間で慎重に交わされるやりとりは、それによってどちらがより優位に立てるかを決定づける。
「……それで、わたしはどこで仕事をすればよろしいのです?」
しばらく黙り込んでからシュタウフェンベルク伯爵が問いかけた。
そのベルトルトの言葉に、眉間にしわを寄せながら書類を読んでいたマリーがぱっと青い瞳を上げた。
「わたしが案内しよう」
マリーはここで仕事をしていなさい。
ベストが付け加えてから、そっと少女の肩を軽くたたいて仕事の続きを促した。そしてヨストに目配せをしてから、マリーの隣から立ち上がった。
「こちらへ」
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクを案内して、執務室から出て行ったベストを視線で追いかけてから、おもむろにハインツ・ヨストは立ち上がると、マリーがにらめっこしている書類を片手で取りあげてざっと目を通した。
なにを難しい顔をしているのかと思えば、ランツベルク刑務所から上がってきた元官房長マルティン・ボルマンに関する報告書だった。
「君を追い詰めた男が気に入らないかね?」
「わたしが”追い詰められていた”んですか?」
「……――”そう思っていなかったら”、なんでこれを見て百面相を?」
問いかけられてマリーはクスクスと口元に手を当てると笑ってみせた。
「アドルフのおじさんも人がいいなぁって思ってただけです」
そう思っていただけにしては、考え込むようなマリーの表情が説明つかない。彼女はいつもなにも考えていないかと思えば、どうやら多くのことに考えを巡らせているようだ。「……そうだろうか?」
国防軍とマリーを陥れ、国家保安本部と陸軍参謀本部から短期間でその発言力を奪おうと画策した男だ。そんな男に国家保安本部の警察官僚として好感を抱けるわけもないが、現実から目をそらすことは愚行以外の何物でもないということを、彼は昨年に東部に派遣された行動部隊の指揮官としての経験から実感していた。
現実から目をそらしてはならない。
真実から目を背けてはならない。
それを彼は心の底に刻みつけた。
「君は、自分の存在が全て否定されるようなことになったらどうする?」
事実、彼女はすでに幾度となく、そんなめにあっているというのに、大人たちの心配などどこ吹く風といったところだ。
警察官僚としてのキャリアも、人間性も、東部の過酷な戦場で、ハインツ・ヨストは存在の全てを否定された。
それが今も彼の心の奥底に深く棘のように刺さって抜けないままでいた。
「ヨスト博士」
「……うん?」
「……――大丈夫よ」
自分の横に立って書類を眺めているヨストの姿に、マリーはにこりとほほえんでからその腰にぎゅっと抱きついた。
「わたしは”あなたを絶対に否定したりはしない”わ」
「あ、ありがとう……」
マリーに腰に抱きつかれて一瞬、その背中に触れてもいいものかとも悩んだが、結局その背中に触れて緊張気味に怒らせていた肩から力を抜いた。
存在を否定されるというトラウマが、彼の心をいつも恐怖の谷に突き落としかける。
誰を信じて良いのかわからなくなって、彼の横にいるマリーの存在さえも信頼できなくなる。そんな自分にさえも嫌悪感を感じてならなくて、ヨストは溜め息をついた。




