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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVI ゴフェル
356/410

8 小悪魔マリー

 拒否権の存在しない、国家権力による否応のない命令を前にして、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは憤慨した。尊敬する兄のベルトルトを親衛隊の中枢とも呼ぶべき国家保安本部(RSHA)に送り込むことなど、これでは(てい)の良い人質だ。

 せめてもの救いは、国家保安本部長官が愚図で間抜けなカルテンブルンナーであったことと、兄のベルトルトが召喚を受けた先の部署長がマリーであったことだろうか。とはいえ、彼女の上官にはあの前国家保安本部長官であったラインハルト・ハイドリヒの片腕と呼ばれたヴァルター・シェレンベルクがいるから安易に気を抜くことなどできはしないし、マリーの指揮下にいる警察官僚らが、かつて国家保安本部の創設期を支えた百戦錬磨の法律家であることを考えるは、クラウスの懸念材料のひとつだった。

 マリーの自宅を訪ねてみたい衝動にも駆られたが、彼女のアパートメントの両隣の部屋は、ゲシュタポの捜査官で固められていて、とてもではないがクラウス・フォン・シュタウフェンベルクが気を許せる環境ではない。加えてクラウスの憶測でしかなかったが、十中八九、盗聴器が仕掛けられているだろう。

 彼女は政治警察のアキレス腱だ。それ故に、常に厳重な警備体制のもとで生活を余儀なくされた。

 彼女はいつもそうだ。

 常人であれば、神経他すり切れてしまうのではないかとも思える恐るべき秘密警察の中でも、明るく朗らかに笑っている。

 「どんな状況におかれても」。

 馬鹿のように天真爛漫で、素直でまっすぐだ。きっとマリーはクラウスが「会いたい」と持ちかければ快諾するだろう。

 毛並みの良い、赤毛のシェパードを連れて。

 自分自身、意気地なしとはほど遠いところにいると理解していても尚、「敵」の懐に丸腰で飛び込まなければならないという状況には尻込みせずにはいられない。職業軍人のクラウスがそうなのだから、ましてや民間人のベルトルトはなおさらだろう。

 ぶるりとクラウスは背筋を震わせた。

 大きな決断に迫られている。

 とてつもない陰謀の影に恐怖を感じた。

「――恐ろしいのではない」

 死ぬことが恐ろしいのではない。

 志を遂げられないかも知れないことが、恐ろしくてたまらないのだ。

 煩悶するクラウスは、その日の夜、前陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックの来訪を受けて、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは文字通り凍り付いた。

「電話はいかんよ、少佐」

 長身のベックの背後からひょこりと白い子ウサギのようなマントとロシアンハットを身につけた金髪の少女が顔を見せた。長い腕でそっと彼女の背中と腰を守るように抱き寄せてから、ルートヴィヒ・ベックはそう言った。

「そうよ、誰かが聞いているかもしれないわ」

 手のひらを外に向けて、頭の上にうさぎの耳を真似してみせた少女は、青い瞳で鮮やかに笑う。

 爆弾発言は、正直笑えない。

「伯爵に来てほしいって言ったのは、わたしなの。シュタウフェンベルク少佐」

「……え?」

 クラウスは耳を疑う。

「シェレンベルク、今度、外国に行くから、その間うちで六局の業務を担当することになったのよ」

 長い金色の睫毛が揺れる。

 まるでさざなみをたてるように。

「君にはまったく諜報の世界には向いていないようだな」

 あきれた様子で鼻を鳴らすベックは、指先で毛皮のロシアンハットを弄んでいる少女の頭頂部を鋭く見下ろしてから、その次にクラウスをじろりと見やった。

 秘密を胸の内にしまっておくことができない。良くも悪くも、誰かに尋ねられればマリーは素直に応じてしまうようなところがあった。少なくとも、情報管理について素人のベックから見ても防諜活動に適した性格ではないということだけは明白だ。

 ――とりあえず、彼女に重大な秘密を打ち明けることはやめておこう。

 マリーの真意は別にして、ベックは内心でそう嘆息した。

「だって、別にベックさんやシュタウフェンベルク少佐は”わたし”の敵はないわ」

 目を丸くして瞠目してから、眉をひそめて言いつのる少女に対して、ベックはあからさまに肩を落とした。そうしてから寄った眉に人差し指を押しつけて、彼女の眉間をほぐしてやると口を開いた。

「”君ら”防諜部門には”敵”が多いと言うことだよ、マリー」

 国外のみならず。

 国内にも国家保安本部には敵がひしめいている。

 敵――冷酷な諜報員たちは、必ず弱点でもある彼女を狙ってくるに違いない。

 諜報活動というものはそういうものだ。

 危機感があるのかないのかすらも知れない。マリーは自分の隣に座るルートヴィヒ・ベック相手に百面相をしている少女は、細い指の印象的な手でぽんぽんとベックの太腿を軽く叩いて笑っている。

 彼女はどこまでも恐れ知らずだ。

 泣く子も黙る前陸軍参謀総長相手に、手慰みに興じることができる子供などマリー以外にいるものか。

 大柄な職業軍人と、小柄な少女。

 まるで本当の祖父と孫娘のようだ。

 政治警察の中枢――ナチス親衛隊、国家保安本部。

 悪名高い。

「……マリー」

 差し迫った危機に、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは少女の名前を呼んだ。

「はい?」

「……マリー、兄を頼む」

 かすれがちになる声で、クラウスはようやくそれだけ言った。

 兄のベルトルトは、クラウスとは違って民間人だ。

「大丈夫よ」

 心配しないで。

 そう言って口元に手を当ててクスクスと笑った少女は、口角をつり上げるとぱっと笑って見せる。

「大丈夫よ、心配しないで。だってわたしが伯爵に来てもらいたいって言ったんだもの。カルテンブルンナー博士にだって”邪魔はさせない”わ」

 誰にも邪魔はさせない。

 朗らかな笑顔で告げた彼女に、クラウスは視線をうろうろと落ちつきなくさまよわせた。

「それにシェレンベルクはすごく頭が良いから、そんなシェレンベルクがいない間、六局を任せられる人なんてそんなにいないもの」

 ヴァルター・シェレンベルク。

 その名前に、クラウスはギョッとした様子で瞠目すると肩を揺らした。

 ほとんど表の世界に出てくることのない、親衛隊情報部の大物中の大物だ。たとえば、対外的にはカルテンブルンナーや、人事局長のシュトレッケンバッハが出てくるように、また警察部門の大物としてはミュラーとネーベの存在が公式に知られている。しかし、国家保安本部の諜報部門を扱うふたりの青年官僚は実際のところ、得体の知れない存在だった。

 特に国外諜報局――通称、第六局の局長を務める青年将校。

 一説には大物スパイとも揶揄される。

 謎めいた諜報部員で、彼が表舞台に立つことはほとんどないと言ってもいいだろう。

「……――シェレンベルク」

「そうよ、すごいんだから」

 マリーは自分のことのように得意げに言って薄い胸をはって顎を上げた。

 正体不明の諜報部員が取り仕切る、マリーの所属する第六局のことを考えるとクラウス・フォン・シュタウフェンベルクも頭痛の種だ。

 得体の知れない恐怖感に狩られて、クラウスはごくりとのど仏を上下させた。

 しかし前任の陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックにしてみれば、三十代のクラウス・フォン・シュタウフェンベルクも、十代のマリーもからを尻にくっつけたヒヨコも同然だ。血の気を失って青い顔をしたクラウスと、華やかに笑う病的に白い肌のマリーは、余りにも対照的でベックは顎に手を当てて考え込んだ。

 おそらくマリーの迂闊(うかつ)な発言も、国外諜報局長は織り込み済みと考えていいだろう。

 決して自分の素顔を見せることのない、慎重このうえない諜報員。

「だから、そんなすごいシェレンベルクがいない間、シュタウフェンベルク伯爵の力を貸して」

「……わかった」

 長い逡巡の後にそう告げたクラウスに、ベックの隣のソファに腰掛けた少女は、反対側のソファに座る青年将校に向かって身を乗り出すと、華奢な腕を彼に向かって伸ばして差し伸べた。

「君に、兄の命を預けよう」

「ありがとう」

 なにに対してありがとうと言っているのか、いまひとつクラウスにもわからないが曖昧な表情で頷いた。そして、甲高い悲鳴のような笑い声を上げたマリーは青年の首元に抱きついて両目を細める。

「ぺたんこの胸を押しつけられてもあまり興奮しないのだが……」

「余り、というと少しは興奮するということかね?」

「……――えーっと」

 唐突な、しかし鋭いベックの追及に、参謀将校の青年はマリーの細い体にテーブル越しに抱きつかれたままで目尻を下げると苦笑いを浮かべた。困った様子で髪をかきまわして両腕を組んでソファにふんぞり返っている退役軍人に小首を傾げて見せた。

「女の子に抱きつかれれば誰でも少しは嬉しいかと」

「そりゃそうだが」

 クラウスの言い訳に、ベックはむっつりと唇をへの字に曲げてから青年の言葉に同意した。かわいらしい女の子から好意を持たれれば、誰でも少しは嬉しく思うだろう。その相手がいかに体格が発達していなかったとしても。

 やれやれと肩を落としたベックが、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの首にくっついたマリーの体をそっと引きはがすと、自分の横に座り直させると嬉しげに落ち着きのない彼女の肩をそっと叩いて溜め息をついた。

「さぁ、マリー。余りシュタウフェンベルク少佐の家に長居すると、君のことを警護しているゲシュタポの連中がミュラー中将に余分な報告を入れかねない。そろそろ帰るとしよう」

はーい(ヤー)

 でもベックさんとはよく会ってるけどいいの?

 マリーが真顔で問いかければ、ベックのほうは少しだけ面食らったように困った表情をたたえてから、ゆるく左右にかぶりを振った。

「老い先短い年寄りの命なぞ、安いものだ」

 まっすぐな少女の青い瞳から逃れようとするかのように、ルートヴィヒ・ベックは目をそらすと溜め息をついた。

 すでに第一線を退いた退役軍人の命など、安価(やす)いものだ。

 若者たちの命と比べるべくもない。

「君らのために散る覚悟はできている」

「……え?」

 ソファから立ち上がり、帰り支度をはじめたマリーがコートかけから白いマントを身につけた少女には、ベックの言葉が聞こえていなかったのか目を見開くと金色の髪を揺らして上半身をよじると老将を振り返る。

「……――いや、なんでもない」

 とりつくろうように苦笑したベックは、そっとマリーの手からロシアンハットを取りあげると、その首にマフの紐をかけてやって、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクに片手を振った。

 ウールのコートと、スカーフを身につけて帽子を被る。

 帰宅のための準備を整えてから、ベックはこつりと靴音を鳴らした。

 玄関口でおとなしくしていた赤毛のシェパードは、マリーの姿を認めるとぴんと耳をまっすぐにたててから高い声で機嫌良さそうに鳴き声を上げる。

 いつもの如く、犬の吠える声に驚いて、飛び上がってベックに縋り付いたマリーだが、最近では赤号(ロート)の鳴き声にもようやく慣れてきたようだった。少女の護衛は自分がやると頑強に言う特別保安諜報部のヨーゼフ・マイジンガーを、年の功でねじ伏せて自分の車に雪の中に乗り込んだ。

「そういえば」

 助手席に腰を下ろしたマリーの声が響く。

「そういえば、ベックさん知ってます?」

「なにがだね?」

秩序警察(オルポ)の長官のアルフレート・ヴェンネンベルク大将が、第四師団を武装親衛隊から引き上げたそうです。もちろん、ヒムラー長官の命令で」

「……む?」

 ちろりと少女の青い瞳が、暗い車内でベックの横顔をとらえ、そうしてふたりの視線が交錯した。

 それは、つまり親衛隊がなにかしらの準備のために行動を開始したということなのだろうか? だが、そもそも警察部隊とも言える第四師団は国家元首であるアドルフ・ヒトラーの命令によって構成されたはずだ。

 その部隊を引き上げるということになれば、それについてもヒトラーの承認が必要ということになる。

「大人の話なんて知りませんけど、結構、ヒムラー長官も苦労したみたいですよ」

 少女が小悪魔のようにクスクスと笑い声を上げた。

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