7 迫り来る影
情報の一切を秘匿とすべし。
国防軍情報部――ティルピッツ・ウーファーのヴィルヘルム・カナリスの薄暗い執務室に深刻そうな顔で視線を返すのは、彼の首席補佐官を務めるハンス・オスターだった。
長身の伊達男。
長身の陸軍大佐は腕を組み直してから姿勢を正す。
「危険ではありませんか? 提督」
言われてカナリスは眉間にしわを刻む。
ハンス・オスターとヴィルヘルム・カナリスとはまるで人柄が違った。けれども、人というものは違うからこそ意味があるとも言えるだろう。同じ考え方をするイエスマンの集団では意味がない。
カナリスはそう考える。
諜報とは結果が良ければそれで良いのだ。
そしてその結果とは、ドイツ帝国の存亡に他ならない。
かつては大戦争に大敗し、戦勝国のイギリス、フランスの連合国の餌食となって滅びの一途を辿っていると感じていた祖国を見捨てることなどできはしなかった。
「危険は承知の上だ。わたしは軍人なのだからな」
言い捨てられてオスターは首をすくめた。
かつての大戦争の折り、潜水艦乗りとして英仏軍に指名手配されていた。軍人としても、そして諜報部員としても肝の据わった歴戦のスパイ・マスターに持ちかけられた陰謀に、国防軍の職業軍人は不信感を隠せずにいた。
「親衛隊の連中は信用なりません」
「わかっている」
ヴィルヘルム・カナリスに持ちかけられたのは、ヴァルター・シェレンベルクの諜報活動に伴う担当工作官の受け入れを打診したというものだ。とはいえ、打診といったところで最高機密に近いだろう「秘密」を暴露した以上、ナチス親衛隊のヴァルター・シェレンベルクも黙って国防軍が知らぬ振りを決め込む事など許しはしないだろう。
若手ながら、シェレンベルクは諜報部員としても工作官としても、その腕は一級品だ。彼の才能を見抜いたのが、ナチス親衛隊の秘密警察を牛耳るナンバーツーのラインハルト・ハイドリヒであったことがカナリスには悔やまれた。
「だが、彼が行動を開始した以上、我々が秘密を知る事を良しとはすまい」
「どこまで信頼をおけるのか測りかねます」
ハンス・オスターが憮然として告げれば、カナリスは唇の端をつり上げてからかすかに笑った。
「諜報部員は誰の事も信用などしないものだ。それは君もわかっているだろう。大佐」
「……――しかし危険であることには変わりありません」
国家の存亡の危機だ。「負けては意味がない」ということを、情報将校たちはよくわかっている。
「我々、諜報部員は誰しも綱渡りをしているようなものだ。”支配者”のためではなく、祖国のために」
諜報部員は祖国のために行動している。もっとも、祖国のためという言い訳を隠れ蓑にして自分の利益を追求する者も多いことも諜報の世界の現実だ。
互いに互いの利益のために、各国の諜報部員達は人脈を広げ世界を広げる。
全ては国家のためであり、自分のためだ。
人から恨みを抱かれることが当たり前の諜報部員たちは、安穏とした世界に暮らすことなど許されない。いつどこで、誰が自分の命を狙ってくるとも限らないのだから。
そんな闇の深い世界をカナリスは十分に理解していた。
特に、カナリスほどの年齢になると、若気の至りであったとは言え、それらの薄暗い過去は重々しく彼の年老いた肩や背中といった前身の全てにのしかかってくる。シェレンベルクのように若く活力があるうちは良いのだ。
だが、年を重ねれば重ねるほどに、そうはいかなくなってくる。
少しの判断ミスが死を招く。
「それは承知しております」
片方の眉毛をつり上げた長身の副官に、カナリスは再び思い詰めた様子で黙り込むと顔の前で組んだ指に唇を押しつけると溜め息をついた。
「やれやれ、人生とはなかなかうまくいかないものだ」
「それで、提督はどうなさるおつもりです?」
冷静にオスターが問いかける。
カナリスとオスターは、静と動だ。
カナリスが影であるならば、オスターは光。
正反対の性質を持つふたりは、正反対の性質であるが故に、他者が感心するほど見事に協調した。
「ヴァルター・シェレンベルクは確かに頭が切れますが、どこまで信頼していいのかは図りかねます。ですが、現在のドイツにおいて彼を制御することができる工作官はそれほど多くはないでしょう。機密情報の保全問題から考えても、この”秘密”を知る人数はそれほど多くない方が賢明かと思われます」
合理的にオスターは状況を分析して並べて見せた。
現在、オスターとカナリス同様に、シェレンベルクの行動の意図を知る者は親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラー。そして、シェレンベルクの直属の上官に当たるエルンスト・カルテンブルンナーだけと見て良いだろう。
総統官邸が動き出していないところを見ると、未だに情報はヒムラーのところで停まっていると考えれば良いだろう。なにせ、そういった危機管理については素人同然のカルテンブルンナーとヒムラーだ。彼らを口止めさせているのはおそらくシェレンベルクの口車のみだろう。そう考えればこの問題が未来永劫、ヒムラーのところで止まっているとは考えがたい。それほど遠くない未来に、総統官邸に届くだろう。
つまるところ、現在、情報を知り得ているのは国防軍情報部のカナリスとオスター。そして親衛隊のヒムラーとカルテンブルンナー。そして当人のシェレンベルクの五人ということになるだろう。
秘密はいずれ漏れる。
それは仮定の話ではなく、必然だ。
特にこれが情報管理に特化した口の堅い情報将校ならばともかくとして、自己顕示欲が服を着て歩いているようなヒムラーとカルテンブルンナーのふたりが状況を把握しているということこそが問題なのだ。
「そう、それだ」
シェレンベルクは諜報員としての腕も超一流だ。しかし、彼を支援することのできる工作官がいない。なにより国外諜報局という部署を任され、指揮下の諜報員たちを管理する工作官がほかでもないシェレンベルク自身となれば、親衛隊情報部の内情など見るべくもない。
それほど親衛隊情報部の状況は切迫しているということだろう。
どこもかしこも人手が足りていない。
「わたしは、打診を受けようと思っている」
ナチス親衛隊は信用ならないが、彼らもドイツ人なのだ。
そして他でもない。彼らこそ、カナリスがかつて守ろうとしたドイツの子らなのだ。ならば守ろうとしたドイツの子らを見捨ててどうしようというのだろう。
「彼の才能は潰すには惜しい」
いずれどんな形であれ、状況は変化するだろう。
それが国防軍にとって良い方向に傾くのか、それとも、ナチス党にとって良い方向に傾くのか。それはカナリスにもまだわからない。けれども今まで、状況がカナリスの思うとおりに動いた試しなどなかった。
諜報部員たちには、諜報部員としての愛国心がある。シェレンベルクもそうだろう。
「たとえ、その気持ちが我々とは異なって多少歪んでいたとしても、彼は彼なりに祖国を愛しているエリートだ。だから、そんな彼を離反させてはならん」
彼らを「ならず者」だと切り捨てるのは簡単だ。しかし、若者たちを切り捨てるということがどういう未来を生むことになるのか、カナリスにはわかっているつもりだった。
先の大戦で、ドイツは敗戦に喘ぎ、そして度重なる国際的な不幸に直面した。
なにもかもが失われ、進むべき道の先の光さえも見失った北のはての国――ドイツ。
「世界に冠たるドイツ」
その栄華は失われた。
「未来を見失ってしまったのは、我々よりも若者たちなのだから……」
「エーミールはうまくつけ込みました」
「全くだ」
それからしばらくカナリスもオスターも沈黙した。
正反対の性質を持ちながら、ふたりは互いに諜報部門の専門家としての誇りを持っていた。それは人知れない薄闇の世界に生きて、人知れず祖国と、祖国に住む人々の生命を守らなければならないのだという強い使命感。
どんなに自分の身が危険にさらされるのだとしても、彼らに拒否権は存在しない。
――祖国、大ドイツのために。
彼らの世界ではいつも答えはシンプルだ。
「充分にご注意ください、提督」
「”君も”な」
「はい。いつ親衛隊の手が我々に伸びてくるかもわかりません。”情報の分散”に抜かりはありません。”彼女”は考えなしで、おおよそ諜報の世界を生き抜くには向いていないように思いますが、子供の素直さというものは、大きな弱点でもありますが、大きな武器にもなると言うものです」
遠回しに揶揄するように告げたオスターにカナリスは眉尻をかすかに動かして見せた。
人々の多くは、諜報部員を含めた工作員たちが人間の感情など持っていないと思う事が多々あるだろう。それについては、カナリスもオスターも否定するつもりはない。
国家の存亡の危機を救うことと、個人の感傷と。
そのどちらかを選択しろと言われれば、諜報界に生きる者たちは、非情に自分たち――もしくは関係者の全て――の感情を切り捨てるだろう。まるで機械のように、目の前に差しだされた情報から最善の手段だけを選択する。そこに感情という感情は、一切存在しない。
そもそも感情など存在してもならない。
自分の命をかけて、秘密は墓まで持って行かなければならないのだ。
他者も。自分も、全ての命を切り捨てなければ、諜報の世界では生きていけないものだ。
「あとひとつ。陸軍参謀本部から連絡が入った」
ややしてからカナリスがぽつりと言った。
「……――国家保安本部にベルトルト・アルフレート・マリア・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵が特別顧問として招かれることになったらしい」
「情報源は?」
短い言葉でハンス・オスターが問い返した。
「ハルダー元帥だ」
「ふむ」
鋭い瞳を返して口元に長い指先を押し当てる。
頭の回転の速いハンス・オスターのことだったから「しかし、どうして」などという言葉を口にしたりはしない。
物事は決して偶然などでは起こらない。
全てが必然だ。
だから、ナチス親衛隊の国家保安本部にベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵が召喚されたという事態に、なんとも言い知れない違和感を感じた。
「そうなると、なにかしらの思惑があると考えれば自然ですな」
「わたしもそう考えている。おそらくシェレンベルク少将の動きによるところが大きいのだろう」
国家保安本部国外諜報局と言えば、国家保安本部でも屈指の知識人集団だ。中でも得体の知れない少女が率いる特別保安諜報部は、かつてラインハルト・ハイドリヒの指揮下で国家保安本部の屋台骨を支えた知識人たちを中心に構成される。
その国家保安本部にベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクが出向くという事態は、おそらく本人の以降による所ではないことは明白だ。なにより兄である彼は、弟のクラウスが反ナチス的な態度を明確にしていることも知っているはずなのだ。そのベルトルトが自分の意志でその中枢に乗り込むとは思えない。
「”作為的”だな」
「はい」
作為的ななにかを感じるが、おそらく仕掛けたのはシェレンベルクだ。
秘密を知る者がカナリスと、オスター。そしてナチス親衛隊側がヒムラーとカルテンブルンナー、そしてシェレンベルクとなれば、自ずと仕掛けた者は限られてくる。
カナリスとオスターはそう判断した。
*
「お言葉ですが、我々の特別保安諜報部は見たとおり狭苦しいですからな」
ベストとヨストはマリーの執務室で共に仕事をしており、ゲープハルトはメンゲレを部下として別室で仕事をしている。メールホルンのオフィスもとても広いとは言えないし、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクを迎えるとなるとオフィスを確保しなければならないという問題もあった。
メールホルンのほうは特に強烈なナチス党のシンパではないから、メールホルンのほうが個人としてベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクを嫌悪するということはないだろうし、おそらくヘルベルト・メールホルンの控えめな性格を考えれば、国際法の専門家としてベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクに一目置くだろう。
問題はヘルベルト・メールホルンではなく、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクだ。
「わたしと同室で仕事をしろというのならば構わないが。……もっとも、これ以上の増員があるとなればオフィスを拡張してもらわなければならんでしょうが。なにせ元々ごくごく小規模な組織として発足されたようされたようですし。仕事部屋が余りにも狭すぎるのが問題です。あんな狭苦しいところでシュタウフェンベルク伯爵が気分を害さなければよいのですが」
苦笑いをして彼なりに冗談めかしてみせたメールホルンを無表情で流し見やって、ベストは命令を下すカルテンブルンナーに視線を戻した。
元々、ベスト、ヨスト、ナウヨックスと数名の小さな組織として発足された特別保安諜報部は急速に拡大したため、彼らが仕事をするオフィスも組織の急速な拡大に伴って手狭になりつつあった。
「マリーはどう思うかね?」
込み入った話に頭を悩ませる男たちに、突然話を投げかけられて、金髪の少女はクッキーにかじりつきながら顔を上げた。
「わたしは恐くない人なら別に誰でもいいですけど」
そもそも君にとって恐い人なんているのかね? ともベストは思ったが言葉にはしなかった。
「ならば部署長のマリーには異論はないということでいいな」
カルテンブルンナーが頷きながらそう告げた。
「ベスト中将とヨスト少将はどうだね? 特別顧問として召喚するということになれば、特別な権限が発生すると言うことになる」
「……――シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵閣下ともなれば、”一部の親衛隊指導者”らと比較すればまともでしょうからな。決定に異存はありません」
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクがどう思っているにしろ、国家権力に対して拒否権などありはしないのだから。




