6 恫喝
彼は近年ではまれに見る大物スパイだ。
知性もさることながら、その度胸も群を抜く。ラインハルト・ハイドリヒの求めた新時代の知識人。的確な状況判断と分析能力。さらに確実な行動力を持ち合わせるところは、まさに理想的だ。もっとも、当面の問題はそのヴァルター・シェレンベルク自身が優れた諜報部員でありながら、代用の利かないすぐれた工作官でもあったことだ。彼が分身でもしない限り、シェレンベルクがひとりで二役をこなすことができないことは明白だ。
今は亡きラインハルト・ハイドリヒの後任のポストに収まったオーストリアの法律家は、事態の重要性を理解していたからこそ、ドイツ屈指の大物スパイを他国へ送り出すという決断を躊躇していた。
親衛隊少将、ヴァルター・シェレンベルクを現状で、長期間、国外へ送り出すようなことになれば、十中八九、国家保安本部はたちまち機能不全を起こすだろう。それが目に見えている。
「ベルトルト・アルフレート・マリア・グラーフ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク」
黙り込み、ほとんど上の空で昼食を取るカルテンブルンナーの真向かいの席についた神をも恐れぬ無礼さを持つ少女はそう言った。
――”なんだって”?
カルテンブルンナーは突然聞こえてきた人命に両目をしばたたかせると金髪碧眼の少女を見つめ返した。
弟は反ナチス派でも名高い陸軍参謀本部の将校だ。
「……マリー?」
カルテンブルンナーは眉をひそめた。彼女の言葉は唐突すぎて、国家保安本部長官にはにわかに理解しがたかった。
マリーの「思惑」がわからない。
「伯爵は国際法の専門家よ」
マリーはゼリーを食べるスプーンを握っているのとは逆の手の人差し指を立てた。
彼女はいつものように朗らかな笑顔で爆弾を落とす。
「確かに、”彼”は国際法の専門家だが」
シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵家。
その存在は危険だ。かすかに警鐘のようなものが聞こえたような気がして、カルテンブルンナーは再び沈黙した。
「シェレンベルクがいないなら、その不在を補わなければならないじゃない? シュタウフェンベルク伯爵もシェレンベルクほどじゃないけど頭がいいわ」
「だが、しかし……。彼は部外者だ」
なによりもベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは国防軍の参謀将校の血縁関係にある。
諜報活動は直接的に国家の安全保障に関わる問題だ。いくら頭が切れようと、何の訓練も受けていない民間人に秘密を握られることなど、決してあってはならない。
「……ダメですか?」
「ダメだ」
即答してからカルテンブルンナーは考えた。
物事は決して一面的なだけではないのだ。マリーの思いつきのような言葉も一理ある。子供の前でアルコールを飲むのもはばかられたのか、まずい代用コーヒーのカップに唇を押しつけながら彼はじっと中空を見つめると自分の目の前に視線をさまよわせる。
「いや……、そうだな。ダメではないかもしれん。だが、国家保安本部の機密情報を知られるのはいただけんな」
「でも、特別保安諜報部には、ゾフィーとハンスもいるわよ」
マリーが身を乗り出して言いつのる様子に、カルテンブルンナーは長い腕を伸ばすとそっと彼女の頭を撫でた。
「大学生とプロの法律家とでは話が違うだろう」
低くうなりながら思案に暮れているカルテンブルンナーは、少女の青い瞳がぱっと明るく閃いてから細く小さな指でそっと無骨な男の手を握り返す。
「それに、ベスト博士もヨスト博士も、カルテンブルンナー博士もいるわ」
にっこりと彼女が笑う。
そんな笑顔にほだされてしまいそうになって、カルテンブルンナーは顔を引き締めた。
「”それとも若造ひとりに出し抜かれるほど、国家保安本部の法律家は取るに足りない存在なのかしら”?」
マリーが男を見上げるように笑っている。
かわいらしい彼女の笑顔だ。
「……ま、まさかそんなことがあるわけないだろう!」
射貫くようなまっすぐな瞳に動揺した。
カルテンブルンナーが咄嗟に腰を浮かして、自分の手を引き戻そうとして凍りついた。
マリーの華奢で儚げな指先に、大男が硬直する。
「そうよね」
ぱっと花が咲いたような笑顔になる。
小悪魔のように意味深な彼女の笑顔。それは、どこまでも深く、そしてどこまでも純粋だ。彼女の笑顔に取り憑かれてしまえば逃れることなどできはしない。
「わたしの大好きなカルテンブルンナー博士が、シュタウフェンベルク伯爵に遅れをとるはずなんてあるわけがないわ」
ニコニコと笑みを浮かべている彼女が、そっと自分の体の傍に指を引き戻そうとした瞬間に、エルンスト・カルテンブルンナーはテーブルを挟んだ少女の手をがっちりと大きな手のひらで握りかえした。
「当たり前だ」
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクがどれほどドイツでも生え抜きの法律家でも、国家保安本部の名だたる法学博士たちが相手であれば太刀打ちできるわけがないのだ。
だから大丈夫だ。
「たったひとりの法律家を我が国家保安本部に招き入れたところで、その存在は揺らぎもしない」
握る男の手の強さに少女は笑う。
「”わたしが大好きなカルテンブルンナー博士だもの、当然よ”」
「君の特別保安諜報部に、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵を召喚しよう」
時にその存在は切り札にもなるだろう。
「頼りになる人が増えるのは、わたしも嬉しいわ」
*
こうしてカルテンブルンナーが余分な思惑を巡らせている頃、シェレンベルクによる根回しはほぼ終わっていた。これが前任のラインハルト・ハイドリヒ相手だったらこううまく事態は運ばなかっただろう、とシェレンベルクは思った。
彼は良くも悪くも用心深い男だ。
諜報部員、あるいは工作官としての手腕は二流だが、謀略と政争に賭けてはハイドリヒの勘は一流だった。
「シェレンベルク少将」
三日連続で親衛隊全国指導者個人幕僚本部のヒムラーの執務室を訪れていたシェレンベルクが、午前中のヒムラーとの協議を終えてプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ろうとしていると背後から痩せた男から声をかけられて踵を鳴らしながら振り返る。
「ヴォルフ大将?」
ナチス親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官、カール・ヴォルフの姿をヴァルター・シェレンベルクは視界に認めて小首を傾げた。
「なにか?」
「本気かね?」
「本官の意志ではありません。決定したのはヒムラー長官です」
「しかし、シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵家となるとな」
口元に右の手のひらを当てて目を伏せたカール・ヴォルフに、シェレンベルクが視線を走らせた。
「危険性は承知しております」
だが、命令だ。
内心でヴァルター・シェレンベルクは冷ややかにカール・ヴォルフの深刻そうな顔を一瞥する。
「また」厄介なことでも思いついたのだろうか。シェレンベルクはヒムラーが言い出した発言を前にそんなことを考えたが、ラインハルト・ハイドリヒの下で磨いた処世術を駆使して彼は自分の感情を露わにすることはない。
「ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵閣下を、マリーの特別顧問に招くということについては否やはありませんが、弟が陸軍参謀本部の将校ですので、充分に神経を払うべきだとは考えております」
秘密を彼らに暴かれてはならない。
「ヒムラー長官の言うことはもっともらしいが、親衛隊員以外の者が諜報活動に関わるのは賛成できん」
「本官も賛成などしておりません」
シェレンベルクは冷静に言葉を返すと小脇に抱えていたファイルを持ち直した。
「もっともマリーがあの調子ですから、彼女の補佐をしてくれる者がいるのはありがたいことですが……」
言葉尻を濁してから、一旦言葉を切ると彼は小さく睫毛を揺らした。
「ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は優秀な法律家であると本官も思っています。ですから、お手並みを拝見させていただきましょう」
いずれにしろベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクが、あの陸軍参謀本部のクラウスと・フォン・シュタウフェンベルクの兄であるならば、間接的ながら確実に国防軍とつながりがあると考えて良いだろう。そんな彼が自ら乗り込んでくると言うのだから、彼の実力を見極めるための良い材料となる。
それに、とシェレンベルクは内心で薄く笑った。
法律に通じているからと言って、諜報の世界で生きていけるわけではない。むしろ、寿命が縮むかも知れない。
「諜報員の世界は、良識など当てにしては生きていけません」
「シュタウフェンベルク伯爵が信用できるとは思えんが」
「心配には及びません。国家保安本部の百戦錬磨の情報将校がおりますので」
カール・ヴォルフも諜報の世界については素人だ。
それについてはヴェルナー・ベストも、エルンスト・カルテンブルンナーも同じだが、それなりに国家保安本部の一員としてしのぎを削ってきた。ひらりとシェレンベルクは片手を振ると、ヴォルフに礼儀正しく敬礼を返すとカッと靴の踵を鳴らした。
手回しは充分だ。
いったい誰がヒムラーを焚きつけたかは知らないが、国家保安本部に陸軍参謀本部の犬とも言えるベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクが乗り込んでくる形になった。
――どうせ、どんな形であれ事態は動き出すのだ。
状況を最大限に利用するのが諜報部員の仕事ならば、良くも悪くも、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクを利用することができれば活路は生まれるだろう。
「マリーが希望したのだ、シェレンベルク」
ヒムラーは確かにそう言っていた。
そう言えば、彼女は反ナチス派の大学生をふたりほど秘書にしている。恫喝したのはもっぱらあのヴェルナー・ベストだが、謀略と諜報の薄汚い世界を知らない者たちにとっては、ベストの品の良い恫喝も「それなりに体裁の整ったもの」に見えただろう。
政治警察の薄汚さとはまた異なる、諜報部の恐ろしさだ。
そう、彼のキャリアの始まりも政治警察だった。けれども所詮、シェレンベルクにとって国家秘密警察の防諜部門など児戯にも等しい。
若い彼が目指したのはその先にある権力だ。
「さて、マリーに、正義感が強く上品な貴族の坊ちゃまを御せるかどうか」
シェレンベルクはカール・ヴォルフに背中を向けたままで冷ややかにほほえんだ。
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクを介して、シェンク・フォン・シュタウフェンベルク家の息の根を止めることが、あるいは可能かもしれない。
陸軍参謀本部の不穏な動きを確実に掴んでいるわけではないが、彼らはひどく慎重だ。それ故に、簡単に尻尾を出しはしない。
もちろん、彼らののど笛を切り裂くためだが、シェレンベルクにしてみればそれは決してナチス党のためなどではなかった。
権力を掌握するために、不要なものは排除するだけ。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ったら、彼女に尋ねてみればいい。「どうして、君がベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクをほしがったのか」と。




