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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVI ゴフェル
353/410

5 諜報部員

 諜報部員とはあくまでも末端の存在だ。それゆえに、彼らは表舞台に立つことなど許されない。

 姿をさらし、華々しくも光に満ちた世界など、彼らにとっては夢のまた夢。

 ヴィルヘルム・カナリスもヴァルター・シェレンベルクもそうして影の世界の住人として生きてきた。互いにヨーロッパ屈指の大スパイでありながら、ドイツでも指折りの工作官でもある。

 戦争の長期化に伴って、両陣営の国力に多大な負担をかける。「資源」は有限なのだ。

「巨人を揺るがすためには、それだけ大きな火種が必要だ」

 シェレンベルクが得た蜘蛛の糸のようにか細い情報は、はたして世界を支配しようとする巨人――アメリカ合衆国を揺るがすことのほどの火種となり得るのか。

 シェレンベルクにはひとりではすぐに判断をつきかねた。

「さて、どこを向いてみても無能な味方ばかり。これで敵のほうが優秀ときたものだ」

 独白して首をすくめる。

 現在のシェレンベルクの地位は、自ら独自に行動するにはいささか不自由すぎた。

 朝のカナリスの乗馬の趣味につきあってから、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部に戻った青年は少しだけ思案してから、黒い手帳を持ったままで踵を返す。

 それからまっすぐに廊下を突っ切って国家保安本部長官、エルンスト・カルテンブルンナーの執務室へと足を運ぶ。

「失礼いたします」

「なにごとだね?」

 愚鈍な法律家。

 それがカルテンブルンナーに対するシェレンベルクの評価だ。

 俗物で、愚鈍で、まるで良いところがない。前任のラインハルト・ハイドリヒのような冷酷さのひとつでもあれば秘密警察を指揮する官僚として評価もできようが、どこまでいっても低俗だ。

 書類に視線を落としていたカルテンブルンナーは顔を上げてちらりと視線を上げる。

「アメリカに送り込んでいた者から報告が入りました」

「そうらしいな」

 淡々とシェレンベルクの報告を受けるカルテンブルンナーは、長い指で読んでいた書類をめくってから文鎮を置いてから、執務机の上に両手の指を組んで改めて顔を上げた。

「それで、動きというのは?」

「例の作戦とは別に、”女の件”で思った以上のパニックがアメリカ軍内部に発生しつつあるようです」

「軍部がパニックに襲われたところで、政府が作戦を中止するとは思えんがね」

「えぇ、もちろん。しかし、情報は集めておくに越したことはありません。長官オーバーグルッペンヒューラー

「それで、その情報を集めるにはアメリカ国内、及びイギリス国内に新たな諜報部員を送り込むのは不可能だ。その状況をどうするつもりだ?」

 国際情勢も混乱を(きた)し、戦況の悪化に伴ってドイツとイギリスを中心とした連合国との関係も悪化していた。それゆえに、情報官たちの行き来にも支障を来す事態に発展している。

 情報官とはなにも諜報部員たちのことだけではない。

 民間人を装ってアメリカに渡るのは至難の業だ。それらを考慮してみても、腕利きの諜報部員でもあるシェレンベルクにも、準備は困難を要する。ソビエト連邦を形の上では下したものの、イギリスと、未だに未知数の力を蓄えるアメリカ合衆国を相手にするには、ドイツには力が足りなかった。

 今だもって絶望的な状況を前にヴァルター・シェレンベルクは打開策を探る。

「時間が許せば、フランスに情報収集に行きたいと考えております」

「……局長自ら?」

「……はい」

 シェレンベルクは慎重に言葉を選んだ。

 愚鈍なカルテンブルンナーには目の前の利害しか見えていない。彼は諜報部門と秘密警察を束ねるには圧倒的に能力が足りない。だから、目先の利益にだけ視界を奪われる危険性がある。

 カルテンブルンナーが「否」とすればそれでおしまいだ。

 近づいてくるだろうものは「破滅」の足音。

 それだけは絶対に回避しなければならない。

 ドイツのためにも。なによりも「自分自身」の権力のために。そのためならば、自分の身を犠牲にしてなんでもやる覚悟を、ヴァルター・シェレンベルクという男はしていた。

 彼が目の当たりにしてきたものは、最底辺のドイツという国だ。

 先の欧州大戦での戦勝国――イギリスとフランスとになにもかもを奪われた。

 簒奪者を許してはならない。

「仮に、シェレンベルク少将がフランスに行っている間、国外諜報局の業務をどうするつもりだ」

「ヨスト少将がおります」

「……ヨストか」

 シェレンベルクの前任、ハインツ・ヨスト。多国語こそ解さないものの優秀な工作官だ。

「マリーはともかくとして、六局の指揮下にある特別保安諜報部であれば、優秀な知識人が配属されています。こうした非常時に機能させるには充分な力を持っていると判断します」

 かつてのラインハルト・ハイドリヒの副官、ヴェルナー・ベストを筆頭に、情報分析の達人とも言われた工作官のヘルベルト・メールホルン、前国外諜報局長のハインツ・ヨスト、さらに医学方面から情報分析を可能にしているのが医学博士のカール・ゲープハルトであり、さらに小規模ながら実働部隊を指揮する能力を持つヨーゼフ・マイジンガーと、対ポーランド作戦の前には特殊工作員として評価を高めたアルフレート・ナウヨックスもいる。

 ベスト、ヨスト、メールホルンという三人の法律家を擁する特別保安諜報部があれば、シェレンベルクの不在中も機能不全を起こすようなことはないだろう。

「担当工作官をどうする?」

 じっとシェレンベルクの言葉に耳を傾けていたカルテンブルンナーが問いかけると、シェレンベルクは視線を走らせてから予想できていた男の言葉によどみなく口を開いた。

「この作戦は、親衛隊、国防軍双方の利益に関わるものであると本官は考えます。ですので、工作官をヴィルヘルム・カナリス大将にお引き受けいただきたいと考えています」

 シェレンベルク不在の間、国外諜報部の諜報部員たちを支援するのは、ベストやヨストらの仕事になるだろう。しかし、当の諜報部員として活動するシェレンベルク自身の支援をする工作官も必要だ。

「国防軍に尻尾を振れというのか?」

 カルテンブルンナーの声色に不機嫌な感情がこもったのをシェレンベルクは見逃さない。

「親衛隊が独断で動き、国防軍との溝が深まることのほうが問題ではありませんか?」

 冷静にシェレンベルクは応じた。

 事態は慎重に運ばなければならない。

 シェレンベルクにとってみれば、国防軍と政府首脳部のみならず、親衛隊と国家保安本部にも敵ばかりだ。

 味方になり得る者など数少ない。

「事態は切迫しております。長官閣下。この()に及んで、英米連合に先手を打たれるわけにはいかないことを閣下は理解しておいでのはずです」

 おまえは無能だ、などとシェレンベルクは言わない。

 全てを計算して、彼は言葉を武器にする。

 ハイドリヒであれば、即座に事態の緊急性を理解してシェレンベルクの言葉に回りくどい説明など要しなかっただろう。内心、歯がゆいものを感じながら、ヴァルター・シェレンベルクは表面的には柔和な笑顔を浮かべていた。

 決して感情を露わにしない。

 それがシェレンベルクの腹案(ふくあん)だ。

「……――」

 一方でエルンスト・カルテンブルンナーがヴァルター・シェレンベルクの権力拡大に警戒もしていた。視線を彷徨わせて考えあぐねるカルテンブルンナーは、それからしばらくしてから端切れ悪さを感じさせる面持ちで頷いた。

「わかった、早急に検討しよう」

「はい」

 これ以上の追及をしたところで意味などない。

 もっとも、そのままカルテンブルンナーなどに任せて事態を静観するつもりはシェレンベルクはなかった。

 午前中の間に国防軍情報部と親衛隊全国指導者個人幕僚本部に向かい、シェレンベルク自らヴィルヘルム・カナリスとハインリヒ・ヒムラーと協議を行って計画を煮詰めた。さらに、昼に十分程度の休憩を挟んでから、特別保安諜報部の首席補佐官と次席補佐官のところを訪ねた。

 いつものようにヴェルナー・ベストはマリーの椅子の横に自分の椅子を運んでいて、彼女と肩を並べるようにしてその仕事の内容を見てやっている。

 少し離れた壁際においてある別の執務机ではハインツ・ヨストが書類に視線を通しており、これもまたいつもの光景だった。

 ノックの音と共に執務室へ入ってきたシェレンベルクに、大きな青い瞳を上げたマリーと、鋭い視線をぎろりと飛ばしてきたベストが対照的で、青年は内心でそうしたギャップに苦笑いする。

「国外諜報局長が来ると連絡は受けていないが」

「はい、カルテンブルンナー大将にお任せすると遅々として話が進まないと思いましたので」

「それで手回しというわけか」

 切って捨てるようにベストが鼻を鳴らした。

 カルテンブルンナー。

 オーストリア出身の国家社会主義者だ。反ユダヤ主義の思想が強く、オーストリアの大多数の人々がそうであるように、ドイツ第三帝国と共同体であることを望み、ナチス党の党首アドルフ・ヒトラーに強調した。それがオーストリアの国民感情ならば、オーストリアがドイツに強く傾倒していくことも当然のことだ。

 なにもエルンスト・カルテンブルンナーが特に民族主義が強いというわけではない。

「しかし、君自身、物事には順序があると言っていたのではないかね?」

「時に方便というものも存在します、ベスト中将」

 にこりとほほえんだシェレンベルクに、ベストは鼻白んだ様子で椅子から立ち上がると自分よりも若い青年に狭い室内にしつらえられた手のひらを上に向けて、指を揃えてソファをすすめる。

「それで、君が直接動くほどの事態と考えると、余程深刻な事態が発生したと考えるが、我々に何をしろと言うのだね?」

「さすがに元国家保安本部長官の首席補佐官、話が早くて助かります」

 にこりと国外諜報局長は笑う。

「諜報活動とは得てして素早い行動が求められるものだからな」

 鼻から息を抜きながらそう言ったベストに、シェレンベルクは表情を改めた。

「そのことで、ベスト中将とヨスト少将にお願いがあって参りました」

「シェレンベルク少将は、我々を快く思っていないと考えていたが」

「この国家保安本部で、周りの人間を頭から信じている者などマリーくらいしかいないのではありませんか?」

「それについては異論はないが、その言い方はまるでマリーが頭が緩いとでも言いたげだ」

「おや、違うのですか?」

 ベストとシェレンベルクが気難しげな顔でやりとりを交わしているふたりをよそに、マリーのほうは仕事の手を休めてヨストの机に歩み寄った。大人たちの会話などどこ吹く風といった様子だ。

 マリーは自分が馬鹿だと言われても怒らない。

「マリーは”天真爛漫”だ」

 馬鹿で平凡な女たちであれば、シェレンベルクの笑顔ひとつで籠絡することができる。だが、マリーは違う。恋に恋する年頃の少女たちのように、ハンサムな青年の笑顔に騙されたりすることはない。おそらく、彼女は人間の本質を見抜く才能でもあるのだろう。

 逆の言い方をすると、ベストやヨストのような無粋な男たちにとってマリーの無邪気な明るさは救いになるのかもしれない。人間らしさというものは、時に仇となるものだ。ラインハルト・ハイドリヒと、ゲシュタポの長官のハインリヒ・ミュラーのもとで根っからの諜報部員として訓練を積んだヴァルター・シェレンベルクなどは、人間の歪んだサガも熟知している。しかし、ベストは違う。

 ハイドリヒが生存していた頃から、彼はその副官としてハイドリヒの真心を最後まで信じ続けた。

 人の真心など信じるに値はしない。

 そうシェレンベルクは理解していた。

「それで今日はどんな用事かね?」

「ひとつお願いしたいことがあります」

 シェレンベルクは静かにそう切り出した。

 鋭い光を閃かせるベストが睫毛を上げると、ヨストが目を上げてから自分の机に頬杖をつく。

「マリー、キャラメルでも食べるか?」

 何気ない様子でヨストが少女にそっと問いかけた。もちろん拒絶などしない少女に紙で包まれたキャラメルを手渡しながら、ハインツ・ヨストはシェレンベルクとベストが言葉を交わしているところを冷静に耳に傾けている。

「フランスへ行こうと思っています。その間の六局の管理をお願いしたいと思っています」

「……――それは正式な命令が出ると考えていいのか?」

「親衛隊長官と、参謀本部、そして総統閣下の了承があればすぐにでも」

「なるほど」

 シェレンベルクの端的な説明を聞きながら、ベストは腕を組み直した。

 フランスという言葉に、ベストは片方の眉をつり上げると息を吐き出す。数秒考えてから、キャラメルをほおばっている少女を見やった。

 別にシェレンベルクが勝手にフランスに行くことについては否やはない。彼がフランスへ向かったからと言って、マリーに危害が向かうわけではないのだから。

「見返りを求めるわけではないが、シェレンベルク少将がフランスに行くとして、”戦果”は確実なのだろうな」

 国家に対する忠誠に、見返りを求めるべきではない。

 所属する国家が消滅してしまえば、官僚の地位など意味などありはしないのだ。だから、ドイツの存亡のための行動に見返りを求めることこそが、野暮なのだから。

「もちろん」

 ――そのための作戦ですから。

 唇の端を小さくつり上げて、シェレンベルクは頷いた。

「そのためには、優秀な諜報部員と優秀な担当工作官が必要です」

 悪びれもせずに告げたシェレンベルクに、じろりと不審げな眼差しでベストが青年を見つめ返した。

 ヴェルナー・ベストは、ヴァルター・シェレンベルクという青年をよく知っている。

「……ふん」

 ラインハルト・ハイドリヒの冷徹な片腕。

 冷酷な実行者――。

「一応、信頼されているということにしておこうか」

 長い沈黙を挟んでベストはそう言うとヨストと一緒に書類を読んでいる金髪の少女を見やって首をすくめた。

 官僚のひとりとして、やらなければならないことに否応はない。

「中将は優秀な法律家ですから本官が不在でも問題はないでしょう」

 相手を持ち上げるように告げてから、ヴァルター・シェレンベルクは静かに笑った。

 ――ヨスト少将もいらっしゃいますからね。 

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