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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVI ゴフェル
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4 同盟国の動向

 一九四三年も二月の末に入り、まだ凍り付くような寒さのベルリンの国家保安本部、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将のもとにアメリカ合衆国に送り込んでいた諜報部員から一報が届いた。

 敵国に潜み、その情勢を含めたありとあらゆる情報を本国とやりとりをするのは至難の業だった。どこで誰が見ているとも知れない。

 封書で送られてきた手書きの文章を凝視して、シェレンベルクは逡巡した。

 正当な順序を考えれば、直属の上官のエルンスト・カルテンブルンナーに報告を入れるのが筋なのであろうが、シェレンベルクは諜報の分野においてカルテンブルンナーをそれほど高く評価はしていなかった。ついでに言えば、ラインハルト・ハイドリヒが諜報分野に卓越していたかというとそういうわけでもない。

 ラインハルト・ハイドリヒは謀略を張り巡らせることには長けていたが、こと、諜報関係においては素人により近い。

 諜報活動には一種の「才能」が必要なのだ。

 とはいえ、シェレンベルク自身が生粋の諜報部員だったとしても、諜報部員はそれ単体で活動できるわけではない。その背後を堅め、裏方に徹する工作官が必要なのだが、残念ながら国防軍はともかくとして、ナチス親衛隊には裏方に徹することができる人間が数少ない。

 元々が目立ちたがり屋の集まりだから仕方がないとも言えるが、おかげでシェレンベルク自身が諜報活動に集中することができない。

 謀略の最前線で活動するナチス親衛隊情報部の諜報部員たちを陰から支えてやるのは、シェレンベルクの仕事だった。なにせ優秀な工作官がいないのだ。ならばシェレンベルクがやるしかなかった。

「さて、どうしたものかな」

 口の中で呟いてからシェレンベルクは首を傾げた。

 先月、誕生日が来てヴァルター・シェレンベルクも三十三歳になった。もっとも、そんな自分の誕生日を祝う気分にもなれないほどの激務に追われていて、年齢を意識するべくもない。

 朝の執務室でもう一度手紙に目を通したドイツ屈指の大スパイは、さっと椅子から立ち上がると壁際のコートかけから親衛隊の将官用の白い襟のついたコートを手に取った。

「マリーの新年の目標は”今年は入院をしないこと”だそうだ」

 好々爺のように両目を細めてから穏やかにほほえんだ国防軍情報部(アプヴェーア)の長官、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将の隣でシェレンベルクは寒空の下で馬の手綱を取った。

 こうしたカナリスの朝の乗馬の趣味にシェレンベルクは時折つきあった。そこは、時として最高の密談の場所だった。

 盗聴の心配もないし、仮に盗撮されたとしてもシェレンベルクとカナリスが個人的に親しいこともあったから特別やましいところがあるわけでもない。

「そうですか」

 カナリスが白い吐息を吐き出しながらそう告げると、シェレンベルクは控えめに相づちを打った。

 ヴィルヘルム・カナリスは自分の分を弁えている人間を好ましく思う傾向にある。それが有能であれ、無能であれ。もちろん、諜報部門の専門家でもあるから厳しくも冷徹な軍人然としたところは彼も持ち合わせている。

 カナリスは先の欧州大戦で潜水艦(ウー・ブート)に艦長として乗り込み、イギリス海軍を相手に獅子奮迅の戦いを演じた。

 超危険人物――スパイ・マスターのカナリス。

 そう囁かれる老年のスパイだ。

「先日、ベック元帥のところで彼女と会ってね。そう言っていた」

「健康的なことはなによりです」

 まぁ、無理だろうな。

 口には出さずにシェレンベルクは冷静に分析する。

 昨年の初夏に突然、彼女は彼らの前に現れた。そうして半年の間に四回も入院を経験したのだ。

 虚弱体質――というわけでもなかろうが、なにせ華奢で体力がない。

「ところで、忙しい国外諜報局長が何のようかね?」

「申し訳ありません、提督もお忙しいとは思ったのですが……」

「なに、情報分析のほうは参謀本部のリスとゲーレンが頑張ってくれている。年寄りの出る幕でもなかろう」

 淡々と言葉を綴るカナリスに、シェレンベルクは彼の隣を馬を歩かせたままで口元に微笑をにじませる。

「アメリカから手紙が届きました」

 ずばりとシェレンベルクは本題を切り出すと、国防軍情報部長官は興味深そうに片目を細めて見せた。

「また唐突だ」

「親衛隊にもアメリカに潜り込ませている諜報部員はおります」

「だろうな」

 国防軍の諜報部員も、親衛隊の諜報部員もどちらも敵国に送り込まれている。

「それで、何と?」

「アメリカの新聞社に天然痘の一件がリークされたようです」

「……なるほど、しかし仮に天然痘が発生したならアメリカ社会はパニックに陥るはずだ。それがないということは、親衛隊で計画した例の作戦はすでに失敗していると考えていいだろう。おそらく、事前に水際で阻止されたのだろうが。本格的に北アフリカで拡散している天然痘のほうが問題だろうな」

 手綱を引きながら考え込んだカナリスは「それで」と視線をすべらせた。

「それで、どういうことなのだね?」

 北アフリカでの天然痘の感染拡大の情報がリークされているということは、リークされてしまうようななにかが発生したということだ。

 瞬時に閃いたカナリスが問いかけると、シェレンベルクは頷いた。

「同盟国の軍事情報なのでおそらく極秘事項……。限りなく推測に近い話となります」

 覚悟は良いか、とシェレンベルクは顎を引いた。



  *

 ヨーロッパ大陸の大部分が深く雪に閉ざされたその頃に、後に英米連合を震撼させることになる小規模な動きがあった。

 フィリピンのマニラを中心に展開する感染症対策部隊とは別に、大日本帝国陸軍に率いられた攻撃部隊が海軍の協力を得て、ひそかに南太平洋上のガダルカナル島のアメリカ海兵隊の拠点に上陸した。

 中心となったのは大日本帝国陸軍に厳しく鍛えられ上げられたインド独立派の中でも過激派と目される血気盛んな青年たちだ。

 隠密行動に猛る恐れ知らずだ。

 中でも危険視されていたのが、ヒンズー教のすでに消滅したと考えられるとある一派に属するインド人青年だ。彼は生まれながらの殺戮の申し子だった。

 ――カーリーの息子。

 畏怖の念をこめて、青年はそう呼ばれる。

「わたしの村は、女も子供も、年寄りも全ての人々がイギリス軍に焼き殺されました。”テロリスト”をかくまったという罪で」

 無辜の人々を。

 報せを聞いて村まで慌てて戻ったときに山奥の小さな村の「全て」が終わっていた。黒い灰と白い煙。かつては生きた人間だったものは見る影もなく灼き尽くされた。

 それでも生存者を捜して、夜明けの空の下で白く煙る村の中を探し回った彼は、ありとあらゆるものを飲み込んだ炎に咆哮した。

 かつて天然痘が発生したために世界から見捨てられた小さな村は、今度は地図の上からも文字通り抹消された。

 絶望と、自分の無力さに打ちひしがれた青年を前にして、極東アジアの軍人は深刻な面持ちで言葉を切り出した。

「”カーリーの息子”、そう呼ばれる君に、我々アジア人の命運を託したい」

 アジア人……!

 都合の良い言葉だ、と内心で”カーリーの息子”は罵った。

 同じ”アジア人”だって?

 肌の色こそ黄色で、髪も瞳も黒い。外見こそ同じアジア人だが、しかし彼らは決定的に違う。

 ”カーリーの息子”は憤慨した。

 彼らは口では「同じアジア人」だと言うが、これっぽっちも「同じアジア人」だなどとは思っていないのは明白だ。

「……日本人に協力した”見返り”は?」

 冷静に、そして低く威圧でもするように青年は問いかけると、日本人は生真面目な、けれども、より深刻そうな光を瞳に閃かせてからほんの数秒黙り込んだ。

 今の今まで侵略者の横暴を目の当たりにしてきた”カーリーの息子”が不審の瞳で西洋化されたアジア人を見つめ直す。

「君に”そんなもの”が必要なのか?」

「……――」

 やはり冷静に言葉を返された青年は、相手に飛びかかって殴り飛ばしたい衝動をかろうじて抑えると、奥歯を噛みしめて喉の奥に絶叫を飲み込んだ。

 ――貴様になにがわかる、と。

「君にも、”わたし”にも世界を変える力などありはしない。個人の力など余りにも小さくて無力で、しかし、あるいは大局を打ち破るためには少数の犠牲が必要だ。我々、サムライの末裔は決して連中のような不誠実はありえない」

「俺になにをしろと?」

「戦局を打開するために、その力を貸してほしい。生まれながらのカーリーに取り憑かれた力を」

 恐れ知らずの戦士――カーリーの息子。

 その力を。

「あるいは、君の力をもってすれば、いずれ大局を動かす原動力になるかも知れない。そういった類の作戦だ」

「……命がけの?」

「そう」

 尋ねてから”カーリーの息子”はフンと鼻を鳴らした。

 肌の白い大きな人たちと、肌の黄色い小さな人たち。だけれども、と”カーリーの息子”は思った。

 支配者が変わるだけだ。

 歴史的に似たようなことは幾度も繰り返した。けれど、非力でありながら知的な青年は現在ののっぴきならない状況に強い危機感を感じていた。

 ひどい暴力と、理不尽に埋め尽くされた母なる大地。

 人々を分け隔てなく育むはずの、大地に根を下ろしたのは暴力の嵐だ。

 世界から打ちのめされた”カーリーの息子”は、そうして自身の無力さゆえに世界を呪った。

 世界など、いっそ壊れてしまえばいい。

 世界など、いっそ壊してしまえばいい。

 行き場を失った怒りが、やがて姿を変える。

「君の働きに対してわたしは君の望むとおりのものを与えてやることはできない。君も、わたしも大きな世界の流れの中ではただ流されることしかできはしない。その程度の存在なのだ」

 だから。

 ”カーリーの息子”に日本軍人は言葉をつないだ。

「我々はその礎にならなければならないのだ。誰かがやらなければ、夜明けはこない。暁の闇こそが最も暗いのだ」

 そうしたやりとりがあって、日本軍の率いるインド人部隊は少数の野蛮でありながら精鋭の原始的な部隊はガダルカナル島の青い空の下に散った。

 まさに玉砕――。

 そうともとれる無謀な作戦は日本側の損耗率は五〇パーセントを超えた。それでもやらなければ後がなかった。

 昨年のミッドウェー海戦で、四隻の航空母艦を失って以来、硬直をしたアメリカ軍を相手にさえ攻めあぐねていたのだ。

 大日本帝国海軍の艦砲射撃の支援を受けて辛くもガダルカナル島をとりもどしたのだ。もっとも太平洋上での小さな敗北よりも、英米連合軍に大きな心理的ショックを与えることには成功した。

 日本軍の本命はあくまでもガダルカナル島の奪取などではない。

 すでに陸軍も海軍も消耗率は限界に達している。戦争継続のための能力を冷静に判断できる将校も中には存在していた。

 しかし、それだけではどうすることもできないのだ。

 アメリカ合衆国が戦争を継続する意志がある以上、日本側が戦争をやめたいと申し出たところで意味はない。

 そして、日本側の本命の目的こそ、情報戦だった。

 すでに遅きに失したという感は見られたが、それでも尚、実行に移さないよりは低い可能性にも賭ける価値があった。

 その結果、天然痘に罹患したインドの山奥の村を焼き払ったイギリス空軍特殊部隊の凶行。極秘作戦の全体像が、アメリカのニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった大手新聞社に流出した。

 それが年の初めのことだ。

 それから二ヶ月、アメリカ合衆国内で厭戦ムードが広がりつつあった。

「なるほど、だが、シェレンベルク少将」

 聞き終えたカナリスは手綱を握ったままで前方の中空を睨み付ける。

「猛スピードで走っている車は急に止まれないものだ。とかくああいった図体のでかい輩は」

「もちろん、心得ております」

 しかし、仮にそのアメリカ合衆国に世論の変化があるとすれば、ドイツと日本にとって大きなチャンスにほかならなかった。

 急ブレーキをかければ、「事故」が起きる。

 走り出した巨人は急には止まることなどできはしない。

「遅まきながら、日本も諜報部門が動き出した様子です」

「大概遅いのは、島国根性とやらのせいか」

「上層部が無能で苦労しているのは我々だけではないということですよ、閣下」

「全く……――」

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