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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVI ゴフェル
351/410

3 鼠狩り

 こつこつとフランツ・ハルダー陸軍元帥は自分の執務机を人差し指でたたきながら、眉間を寄せると考え込んだ。

 国防軍司令部、及び情報部、さらにナチス親衛隊首脳部の提案はそれほど馬鹿げた話ではない。英国陸軍を下すのはそう簡単な話ではなかった。そもそも現在のドイツ軍の力だけでソビエト連邦赤軍相手に勝利することもたやすい話ではなかったはずだ。それが、たまたま、赤軍首脳部で反体制派がドイツ軍の攻撃によって生じた混乱を前にして行動を起こしたに過ぎず、そのためにスターリン体制は崩壊した。

 おそらくフルシチョフもそれに乗じた形になったのだろう。

 自らの権力を確固たるものとするために。

 要するに、性格的な違いはあれど、ヨシフ・スターリンもニキータ・フルシチョフも、戦争をした相手と考えればどちらも同じ穴の(むじな)だった。

 問題はドイツが一丸になって対応しなければならない事態だ。

 あるいはヒトラー率いる政府首脳部は、ソビエト連邦との講和に持ち込んだことによって調子に乗っているかもしれない。だが、それでも事態が切迫しているということには大して変化はないのだ。

 気難しい顔をしたフランツ・ハルダーの執務室を訪れたのは情報部の面々だ。

 長官のヴィルヘルム・カナリス海軍大将。そして、陸軍参謀本部の西方外国軍課の課長ウルリッヒ・リス陸軍中佐、東方外国軍課の課長ラインハルト・ゲーレン少将である。必要以上に萎縮もしないリスはほとんど無表情に近い眼差しで、室内にいる高級将校を眺めやった。

 思ったよりも西方外国軍課は攻めあぐねている。

 それはフランスを中心に展開する西方総軍司令官のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の部隊も同じだった。守るにも、攻めるにも掌中にしたヨーロッパ大陸という大地は広すぎる。

 その広すぎるヨーロッパ南部と、ソビエト連邦の西部を相手にして、ドイツ軍は泥濘(でいねい)に「両足」を捕らわれていたのだから。

 それが政府首脳部には見えていなかった。

 ドイツ軍の戦力はすでにそれほどまでに切迫していたというのに。

 ――それを理解できず、フランスの偉大な戦略家、ナポレオンにすら学ばぬ愚図の素人。そんな指導者に自分たちは率いられてきたということが不甲斐なくてたまらない。

 ハルダーはそこまで考えてから、視線を上げた。

 なにか言いたそうな顔をしているが、結局立場をわきまえて口を閉ざしたきりのリスとゲーレンはいざ知らず、カナリスもハルダーのしかめ面を見て言葉を探している様子だ。 状況は極めて高い領域で推移している。職業軍人としては危険な綱渡りに近い。

 戦後を踏まえれば大きなリスクを伴うことは避けるべきだと考えた。もっとも、誰かにいつどこで殺されるかも知れず、状況によっては誰を殺すかもわからない軍人に危険はつきものだ。

 ドイツ国防軍は英国陸軍を狙い撃ちするために必要な戦力はラテン・ヨーロッパ地区に集中しつつある。

 大西洋のイギリス海軍を押さえつけ、地中海の要所を制圧してイギリス空軍を一掃する少数精鋭のドイツ軍は孤立するバーナード・モントゴメリーのイギリス陸軍を攻めあぐねていた。

 たった二個師団のドイツ・アフリカ軍団(DAK)とは言え、米ソ両国の支援を実質的に失いつつある「砂漠の鼠(デザート・ラッツ)」を捕獲できないとは何事だろう!

「思うに、イタリア軍は戦争などする気がないのではないか?」

 長い沈黙の後に、フランツ・ハルダーはようやく口を開いた。

 気難しい彼の厳しい眼差しにヴィルヘルム・カナリスは目を伏せるとソファに座ったまま背もたれに腕をつくと横目にハルダーを振り返る。

「おそらくイタリア人は共は英米連合を相手に、ヨーロッパ大陸の覇権を争うつもりはないのかもしれませんな」

 ――彼らは戦争などする気がないのだ。

 たとえれば、フランス人があっという間にドイツ軍を相手に陥落したように。

 ラテン・ヨーロッパの人間と、冬の寒さの厳しい北国の人間のメンタリズムは全く異なる。

「まったくだ」

 憮然とした。

 ハルダーは、カナリスの言葉に鼻から息を抜くと苦笑する。いくら地位が高くても、個人の力というものは思う以上に小さなものだ。

 権力者が強大な力を持っていると思うのは、一般市民の思い違いだ。

「鼠一匹捕まえられんとはな」

「だからこそ、ソビエト連邦との戦争に区切りをついた今が、反撃をするチャンスなのです。ハルダー元帥」

 どんな手段に訴えてでも。

 絶対に勝ち取らなければならない。

「狐一匹では力不足か……」

 薄い唇に指先を押し当ててフランツ・ハルダーは考え込むと、じっと視線を中空に彷徨わせる。

 陸軍の情報部の一課長であるとは言え、リスやゲーレン程度の将校には発言権はあるわけもない。もちろんハルダーから専門的な意見を求められれば話は別だが、今のところ、フランツ・ハルダーが意見を求めているのはヴィルヘルム・カナリスだけだ。だからリスもゲーレンも沈黙を守った。

「しかし、その問題のキツネを御すのはなかなかどうして厄介な問題だぞ。へたをすればフランス戦の二の舞だ」

 ハルダーの前任者、ルートヴィヒ・ベックと折り合いの悪い暴走戦車男――ハインツ・グデーリアンとエヴァルト・フォン・クライストとの(いさか)いは今に始まったことではないが、ゲルト・フォン・ルントシュテットの苦労を考えると、さすがのハルダーも頭が痛い。

 多少は聞き分けも良いグデーリアンだけでも手に余るというのに、若く活力にあふれたロンメル相手となれば悩みもつきないというものだ。

「要は、ロンメル元帥の舵取りをできる人間が上につけば良いだけです」

「誰が適任だと思うかね?」

 うんざりと溜め息をついたハルダーに、カナリスは首をすくめて見せた。

「さて。本官は潜水艦乗りですので」

「……都合が悪くなると、海軍の将軍だと逃げるのはいただけないと思うがな」

「いやいや、逃げてはおりませんよ。ただ、海軍の戦術と、陸軍の戦術とでは話が違うと言うだけのことです。情報戦については手助けできるとは思いますが」

 フランツ・ハルダーは執務机の上に乗ったコーヒーカップをちんと爪の先で鳴らす。かすかな陶器の音に、カナリスは薄く笑った。

「とにかく、東部での作戦は一段落ついた。向こうに展開していた指揮官を送るつもりではあるが」

「しかし、元帥。伝染病が蔓延する中に軍事行動を展開することは危険すぎます。そう考えれば、危険な一帯に攻め込むよりも抵抗力を持った特殊部隊を送り込むことが妥当だと」

 そう……――。

 昨年の夏に北アフリカ方面で発生した天然痘の流行によって、敵のイギリス軍も、味方のはずのイタリア軍も弱体化している。

 勇猛果敢で命知らずの日本軍ならば、多少の盾くらいになるかもしれないが、全体として考えれば弱体化したイタリア軍など味方として当てにできるわけがない。要するに、砂漠のキツネ――ロンメルを支援できるのは、ドイツ国防軍だけしかいないのだ。

「とはいえ、ロンメルだけじゃなく、空軍(ルフトヴァッフェ)のケッセルリンク元帥もいるからな。見捨てるわけにもいかんだろう」

 人聞きの悪い物言いをするハルダーだが、心の底からそんなことを思っているはずがない。職業軍人であればこそ、フランツ・ハルダーには荒っぽい面も持ち合わせていた。

「前線から何十キロも離れたところから指揮をするような指揮官の判断力などたかが知れている。そんな相手に攻めあぐねているというのは、全く情けないにも程がある」

 眉間にしわを寄せたハルダーに、カナリスは「ところで」と手のひらで執務机を軽くたたいた。

「問題の特殊部隊の編成については、すでに人選もすんでいるということだが、あの危険地帯に踏み込むとなれば相当の覚悟がいるだろう」

「その点については問題ないでしょう。”協力者”はイギリス政府に強い不満と反発を抱いております。ドイツ政府が協力者たちに関心がないとわかれば、こちらの脅威にはならないかと思います」

「ふむ……、まぁ、余分なことを”我らがヒトラー閣下”が考えなければ良いのだが」

「余分なこと、か」

 カナリスはなにかを危惧するように眉をひそめる。

「戦争はどこかで終わらせなければなりません、そうしなければひたすら国力をいたずらに消耗させるだけになるでしょう」

 国力が消耗するということは、そのまま国家の衰退に繋がる。

 職業軍人だから戦争を望んでいるわけではない。

「とにかく、今は事態の変化を見守るべきかと思います。元帥」

「それもそうだな、冬が終わるまで我々は動けんし、伝染病が蔓延する中に、抵抗力があるかもわからない大部隊を動かすのは危険な話だ。作戦の成功の報告を待ってからでも遅くはあるまい」

「情報はリスとゲーレンに命じる。収集したデータは随時そちらにも報告させることにしようか」

「承知しました」

 ハルダーの命令を受けて、ふたりの諜報部員がさっと敬礼をした。

「お待ちしております」

 にやりとカナリスは唇の端に笑みをたたえた。

「ハルダー元帥ー!」

 深刻な話をしたハルダーの執務室に、唐突に明るい少女の声が響いて四人の軍人たちはあっけにとられて瞠目した。

「……あれ?」

 真新しい白いミトンをした少女が、口元に手袋をしたままの手を当ててフランツ・ハルダーを見つめてから小首を傾げた。

 そんな表情すら可愛らしい。

「カナリス?」

 ハルダーの勉強会の時間にハルダーを含めた好奇心旺盛な高級将校がいることは多々あるが、どうやら現在の面々を見る限り、そうした人種ではなさそうだ、とそれなりに足りない頭で考えたらしい。

「……えーと、誰ですか?」

「陸軍のリス中佐と、ゲーレン少将だ。マリー」

 ハルダーから説明を受けて、マリーは元気に頭を下げた。

 どうやら敬礼という概念は彼女にはないらしい。

「こんばんは、マリーと言います」

 満開の花のように笑っている。

 かわいらしくてカナリスの口元には自然と笑みが浮かんだ。

「この間、ラホウゼン少将とは有意義な時間を過ごせたかね?」

「難しい話は余り好きじゃないわ」

 カナリスのあやすような言葉に、マリーが不満げに唇を尖らせる。一目で見て上質だとわかる茶色のコートを、執務机から立ち上がったハルダーの長い手を借りて脱いだ少女はベレー帽と手袋を手にしたまま少しだけ考え込むと、ハルダーの後ろに続いてコート掛けに近づいた。

「それをこちらに寄越しなさい」

「はい」

 年寄りに当たり前のように命じられて、金髪碧眼の少女は素直に老将に自分の手袋と帽子を差しだしている。

 年齢差で言えば、軽く五十歳くらいはありそうだ、とラインハルト・ゲーレンは思った。ひどく場違いなマリーと名乗った少女は、けれども訝しく思うふたりの男たちの思う所などどこ吹く風と言った様子で長身のハルダーの周りを飛び跳ねるようにまとわりついている。

「少しは落ち着けんのかね、マリー」

「そんなこと言われても……」

 普通にしているつもりだし。

 マリーはぼそぼそと言い訳するように付け加えていると、ハルダーが容赦なく彼女の頭をバシリと叩いた。良い音がしたな、とゲーレンが思ったくらいだから、マリーにしてみればそれなりに痛かっただろう。

「座りなさい、マリー」

「はいー……」

 叩かれた頭を片手で押さえたマリーは、咎める口ぶりのハルダーに肩を落としてふたりがけのソファに腰を下ろした。

 膝丈のプリーツスカートに、腰を絞ったベストを身につけて、その上からやはり腰を絞ったスーツを身につけている。すらりと伸びた足は黒いタイツに包まれていて寒さから守られており、その襟元には少女の愛らしい雰囲気にはそぐわない髑髏のマークがつけられていた。

「彼女は、ナチス親衛隊だ」

「……はぁ」

 国防軍情報部(アプヴェーア)の長官、ヴィルヘルム・カナリスの言葉に対して、曖昧な相づちを打ったのは、西方外国軍課のウルリッヒ・リスだ。ゲーレンのほうはほとんど表情を変えないままで、少女の一挙一動を逐一見逃すまいと観察している。

 リッツェンのないSD章。

「ところで、マリー。その格好は?」

「シェレンベルクがね、パリのデザイナーさんにデザインしてもらってそれをもとに作ってくれたの」

 ハルダーが眉間にしわを寄せて問いかければ、マリーは自分のスカートを指先でちょっとつまんで持ち上げてからにこにこと笑った。

 確かに仕立てが真新しいから、ごく最近仕立てられたものには間違いない。

 世の中、服一着を買うのもなかなか大変な事だ。

「シェレンベルク、というとナチス親衛隊の”情報部”の?」

 そこでやっとゲーレンが口を挟んだ。

「あぁ、彼女も一応、情報部の人間だ」

 確かに髑髏のマークにSD章があるということは、彼女が親衛隊情報部に属していることには間違いない。

「勉強会の時間を間違ったかと思ったわ」

 そう言いながらカバンから小難しげな教科書とノートを膝の上に取り出した。

 勝手知ったる、と言った様子の彼女にゲーレンが片方の眉をつり上げるが、そんな青年将校の反応など知った事ではないとも彼女は言いたげだ。

「ハルダー元帥に教えてもらおうと思って持ってきたの」

「……ギナジウムの教科書か」

 そういえば、最近彼女の周りにドイツでも一線級の科学者が家庭教師としてついたらしいという話を聞いた。

 確か、名前はアルノルト・ゾンマーフェルト。

 理論物理学者で、その教え子にはかの有名なヴォルフガング・パウリやヴェルナー・ハイゼンベルク、ハンス・ベーテなどが名前を連ねた。

「学術的に専門的なこととなると、わたしなど門外漢だが……」

 マリーから突きつけられた難題に、泣く子も黙る陸軍参謀総長は顔をしかめた。

 まるで孫の宿題を見ている祖父のようで、ウルリッヒ・リスとラインハルト・ゲーレンはそんなふたりの様子にうっかり笑い声を漏らしてしまった。

「何のお話しをしていたの?」

 こんな遅くまで。

 マリーがハルダーに気軽に問いかけた。

「なに、鼠狩りの話だ」

「ふぅん」

ゾンマーフェルト博士の科学界への貢献を考えればノーベル賞を受賞しても良かったと思います(´ω`)

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