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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVI ゴフェル
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2 蠢き出した謀略

 ハインリヒ・ヒムラーはソファに深く座り込んだまま、窓の外に降り積もる雪をじっと見つめていた。

 北国の夜は長く、昼は短い。

 そしてその雪解けは遅く春の訪れは遙か先だった。

 だからドイツ国は古い時代から貧しかったのだ。

 豊かな者は南へ。そして貧しい者は新たな富を求めて北へ北へと新天地を切り開くしかなかった。そしてさらに貧しい者は北へと追いやられ、南の豊かな大地を裕福な者たちから順繰りに支配する。

 そうやってヨーロッパ大陸の権力構造は形成されていたのだ。

 雪は白くベルリンの街を染め上げる。

 肘掛けに両手を投げ出したヒムラーは陰鬱に眉の間にしわを寄せたきりで何度目かの溜め息をついた。

 所詮、たかがナチス親衛隊の全国指導者でしかないヒムラーには大した権力があるわけでもない。しかし、それでも良いと思っていたのだ。

 自分は他のナチス党首脳部たちとは違う。

 他の連中のように私利私欲に取り憑かれているわけではない。そう自分に言い聞かせてきた。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下であるという認識をしていた。だからヒムラーは常に清貧であることを自ら課してきたのだ。

 かつてナチス親衛隊の前身でもあり、その上位組織でもあったナチス突撃隊(SA)が国防軍と矛を交えていた頃から、”ヒムラーの親衛隊”は国家にとって正式な組織ではあり得なかった。そしてヒトラーは国防軍と突撃隊とを秤に掛けて、国防軍を選択した。

 どれほどヒムラーの頭の中がお花畑であったとしても、彼の目の前に突きつけられた現実は変えようがないし、変わらない。そこまでヒムラーにも現実が見えていないわけではない。

「……いつまでも、この状況に甘んじているわけにはいかんのだ」

「承知しております」

「どう思うかね? ヴォルフ大将」

 ナチス親衛隊は現在、一般親衛隊アルゲマイネ・エスエス武装親衛隊ヴァッフェン・エスエスのふたつの組織とに別れている。しかし、資金面などを含めた側面からかんがみてそう簡単に切り離せるものではない。

 国内を牛耳るためだけならば、資金力のない武装親衛隊を目的のために切り離せば良いのだが、一般親衛隊にとっても武装親衛隊は必要不可欠な存在であったし、逆もまた同じだ。

 現在のエルンスト・カルテンブルンナーの警察権力と、オズヴァルト・ポールの経済管理本部。そして武装親衛隊を指揮統率するゴットロープ・ベルガーとハンス・ユットナーを中心に構成されている。

 ヒムラーの副官とも言われるカール・ヴォルフには実質的な権限はない。しかし、それはそれでヴォルフという連絡役はヒムラーの権威を誇示するためには必要な存在なのだ。

「難題です、長官閣下ライヒスヒューラー・エスエス

 切り離すことのできない利権の問題がナチス親衛隊の私営としての行動能力を奪っている。それはカール・ヴォルフにもわかり切っている。

 状況は極めて紙一重のところにある。

「ユットナー大将の武装親衛隊にも不満は溜まりつつあります」

「不満、か」

 ヴォルフの手短な言葉にハインリヒ・ヒムラーは相づちを打ちながら眉をひそめた。

 確かに不満も溜まるだろう。ヒムラーもそう思った。しかし、現状では親衛隊首脳部とは言え、要するにその程度の権限しか持っていないということだ。





 祖国ドイツのためだからと言って、所詮、ナチス親衛隊は国内の一組織に過ぎない。さらにその中で国家保安本部となれば、さらにナチス親衛隊の組織のひとつでしかなかった。それ故に政府首脳部の方針を確かめることもなく行動し、さらにその意見を(たが)えるようなことは許されない。良くも悪くも、単独での軽率な行動はヒトラー首脳部が許さないだろう。

 勝手な行動は、ナチス親衛隊を含めた自らを自滅に導くことになるだろう。

 ヒトラーの側近たちは、自分たちを特別視して楽観的だが、その体質を知り尽くしている国家保安本部の面々にしてみれば心の底から楽観視することなどできはしないし、する気もない。

 とはいえ、個人的な考えと組織との管理職としての考えとではまた隔たりがあることも現実だ。

 腕を組んだまま執務机についていたハインリヒ・ミュラーは、年も明けて徐々に明らかになりつつあるソビエト連邦の西部の占領地の警察組織の展開について頭を悩ませていた。

 国家秘密警察局の長官として、彼は暢気に傍観していられるという立場でもない。

 そう。

 すでに東欧への連携が始まった時点でゲシュタポは限界に達していた。限界に達していると言えば、諜報部門を預かるシェレンベルクやオーレンドルフもそうだろう。なにせ、国家保安本部の捜査官は五万人余り。そのうちのたった五千人だけが諜報部員であることを考えれば、その負担の大きさは想像に難くない。

 まさしく少数精鋭の中に存在するエリート中のエリート。

 今後、春から始まるだろう新たな作戦を踏まえれば、国家保安本部の管轄する占領地域の拡大を考えれば、さらに活動範囲が広がることは明白だ。

 渋面になって顎に手のひらをあてて考え込んでいると、ノックの音が聞こえて顔を上げた。

「失礼する」

 特に親しげな挨拶もなくミュラーの執務室へと入ってきたのは、刑事警察(クリポ)局長のアルトゥール・ネーベだった。

「あぁ、ネーベ中将か」

 鼻から息を抜いて、とりあえず今まで思案に暮れていた一件を頭の隅に追いやると、愛想笑いも浮かべることなく紙のファイルを机の隅へと追いやった。

「貴官も気がかりなようだな」

「無論」

 貴官も、と言われてミュラーはぴくりと厳つい眉をつり上げる。

 軍隊と政府首脳部は後先考えずに戦闘行為を行い、占領地域を拡大する。戦争をするほうはそれで終わりだからそれで良いのかも知れないが、その後の治安維持を丸投げしてくれるのは困ったものだ。

 これは国防軍側と協議を行わなければならない事態になりつつあるのかもしれない。それにしたところで、これまでの突撃隊時代から続く国防軍との確執は深刻な関係不良を生み出し、個人の力などではもはや手のつけられないところまで深刻化している。

「警察組織の大幅な増強が必須だが、それには秩序警察の力が必要だ。亡きクルト・ダリューゲ上級大将の後を継いだアルフレート・ヴェンネンベルク大将ならば、あるいは懐柔の余地はあるかもしれん」

 それはミュラーが長いこと考えていたことでもある。

 ダリューゲとハイドリヒが生存していれば、そうした関係改善の道は考えることもなかったかもしれない。なにせ、クルト・ダリューゲもラインハルト・ハイドリヒも自尊心の塊だ。

 独裁者たちは、その強さ故に衝突するのだ。

「問題はそれだけではないぞ」

 言いながらアルトゥール・ネーベは、ミュラーの執務室のストーブの前にしつらえられた来客用のソファに腰を下ろした。

「武装親衛隊が実質的に秩序警察(オルポ)の”戦力”を削いでいるからな。あの第四師団をなんとかしないことには、ヴェンネンベルク大将の秩序警察も手足をもがれたも同然だ」

 溜め息しか出てこない深刻な状況を前にして、ミュラーとネーベは頭を悩ませた。もっとも、こんなところで警察官僚の中間管理職が悩んだところで事態は改善しないのであるが。

「どうせ第四師団は一桁の師団であるとは言え、二流部隊程度にしか扱われていないのだからな」

 本人たちの意志はどうあれ、その前に編成されたゼップ・ディートリッヒのエリート部隊「第一師団アドルフ・ヒトラー親衛隊」と、パウル・ハウサーの部隊として当初は編成された「第二師団ダス・ライヒ」、そしてテオドール・アイケの部隊として編成され、残虐非道と非難されることも多い「第三師団トーテンコップフ」と比較すれば、武器を扱うこともできる元から訓練を受けた警察組織の部隊として第四師団の隊員たちは予備人員として編成された。

「ヒムラー長官の直接の命令もあれば現状は動くかもしれんが、”我々としては”難しいところだな。ミュラー中将」

「うむ」

 考え込んだミュラーにネーベが冷静に現状を分析すれば、国家秘密警察の長官は眉間にしわをよせたままで考え込んだ。

「そのことなら心配ない」

 不意に聞こえてきたのは昨年の半ばにオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者――HSSPFから国家保安本部長官に任命されたエルンスト・カルテンブルンナー大将だ。オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者だった当時と比べれば、酒もタバコも抜けてすっかりその状況判断能力は正常化している。

 もともとカルテンブルンナーは、弁護士に父のフーゴ・カルテンブルンナーを持つとは言え炭鉱で働きながらの苦学生だった。努力家の彼の表情は最近ではすっかり明るくなって、その目つきはさらに鋭くなった。

「現在、わたしがヒムラー長官に働きかけを行っている、今日明日中にというわけにはいかないだろうが、次に戦局が動く頃にはなにかしら動向があるだろう」

 理知的な物言いをするカルテンブルンナーを肩越しに振り返ったネーベの頭の片隅に「マリー効果」という言葉が頭をよぎった。

 カルテンブルンナーだけではない。

 指一本で囚人の生死を決定することもできる寡黙で知られるハインリヒ・ミュラーにも、人間らしい明るさが戻った。

 無邪気な子供というのは時として人間の本質に働きかける力があるのだろうか。

「……承知しました」

 カルテンブルンナーの唐突すぎる登場にあっけにとられていたミュラーはややしてからそれだけ言った。

「働きかけ、というのは実際どんな提案を? 長官?」

 自分の権威を誇示することにかけては貪欲な青年官僚に、ソファに座っていたアルトゥール・ネーベは立ち上がってあいているソファを、カルテンブルンナーにすすめながら表情を改めた。

「現在、国家保安本部と秩序警察の統合を提案している」

「……なるほど」

 非現実的とも言えるカルテンブルンナーの短い言葉にネーベはわずかに眉をしかめる。

「そんなことをヴェンネンベルク大将が了承するとは思えませんが」

「わたしだって簡単に事態が進展するなどとは思っていない。だが、現状としてミュラー中将のゲシュタポも、ネーベ中将のクリポも限界が訪れていることは間違いない」

 虚栄心の強さばかりが目立つエルンスト・カルテンブルンナーのことだったから、事態を正確に看破していることが意外なことだった。

「だが、今後の事態の展開を考えると、一時の痛みを伴う行動は必要なことだ。”どちらが主導権を握るにしても”」

 そんな台詞を吐くカルテンブルンナーだが、主導権をたかが治安警察の長官でしかないアルフレート・ヴェンネンベルクに渡すつもりなどさらさらないようだ。

 なによりも国家保安本部には謀略の専門家が虎視眈々と爪を研いでいる。

「とりあえず、わたしとしては国家保安本部(RSHA)の全力を持って、秩序警察を手中にするつもりだ」

 どちらにしろ、決定を下すのは親衛隊全国指導者、ハインリヒ・ヒムラーである。一組織の長官であるカルテンブルンナーとしては、その決定が下るのを待つしかない。

 神経の細いヒムラーのことだから、きっと今頃、神経性の胃炎でも患っているだろうが、ヒムラーの精神状態など官僚たちはかまっていられない。せいぜい彼の側近である整体師のフェリックス・ケルステンにでも頭を悩ませてもらえば良い。

「マリーに冤罪を着せた例の一件は、彼らを陥れるには格好の材料になると思われます」

 執務室の扉が開いて、カルテンブルンナーに続いて入ってきたのは国外諜報局長を務めるヴァルター・シェレンベルクだ。

「本官の”部下”を罠に嵌めると言うことは、本官を侮辱するも同然。せっかく先方が無様な失態を演じてくださったのですから、これに乗じる機会を逃すべきではありません」

 ラインハルト・ハイドリヒの側近。

 悪辣で冷徹な諜報部員――現代の大スパイ。

 不敵な笑みを口元にたたえたシェレンベルクの後から続いて入ってきたのが、国内諜報局長のオットー・オーレンドルフで彼も彼で、国家保安本部を大々的に巻き込んだ昨年末の陰謀事件が面白くなかったらしく、人の悪い微笑を浮かべていた。

 シェレンベルクなどとは違い、博士号は持っていないがドイツ屈指の経済学者であるオットー・オーレンドルフは国外諜報局長同様にひどく頭の回転が速い。

「微力ながら三局もご協力いたします」

 国家保安本部を敵に回すことがどういうことなのか、思い知れば良い。

 オーレンドルフとシェレンベルクの瞳がそう語っていた。

「そうだ、マリーの命を危険にさらした罪は重い」

 ふたりの青年官僚の言葉に、マリーの年末の入院騒ぎを思い出したのかエルンスト・カルテンブルンナーはしかめ面になって広い肩を怒らせて、足を踏みならした。

 彼の言葉は短く、その声色は冷静さを装ってもいるが、強い怒気を孕んだ様子を見て取って、オーレンドルフとシェレンベルクは互いに顔を見合わせた。

 どうにもエルンスト・カルテンブルンナーという男はマリーのこととなると周りが見えなくなる嫌いがある。そんな国家保安本部長官を務める青年官僚に、あきれた様子でオーレンドルフは鼻から息を抜いた。

 問題は陰謀の端がどこから発したのかということだ。

 もちろんそれはナチス党官房長のマルティン・ボルマンではあろうことは間違いないが。

 ドイツという国家そのものを巻き込んだ、巨大な陰謀はドイツそのものを崩壊に導きかねない。事実、一九四一年の六月に開始された秘匿作戦名――バルバロッサ作戦ウンターネーメン・バーバロサの発令当時に、すでに国外諜報局の次長を務めていたシェレンベルクや、国防軍情報部(アプヴェーア)長官のヴィルヘルム・カナリスがその崩壊を察知していたように。

 ドイツ第三帝国を取り巻く状況は、未だに楽観的なものではないし、瀬戸際の綱渡りを続けているのだ。

 今を持ってして、危険な状況であることには変わりがない。

 まるで道化だ。

「では、一旦我々はヒムラー長官の決定を待つことにさせていただきましょう。それから国家保安本部として作戦を練り直しても遅くはないでしょう」

 すでに新年も一ヶ月を過ぎた。

 未だにベルリンの冬は去る気配はないが、それでも確実に春の女神は足音を忍ばせて歩み寄る。

 戦時中の混乱で国内も国外も騒がしいが、やらなければならないことは山ほどあった。

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