10 思惑
既視感……――。
そんな言葉がアルフレート・ナウヨックスの脳裏にちらついた。
性別も、年齢も。
姿形も。
何もかもが違うということはわかっているのに。それでも……。
初めにその任務を命じられたときは、閑職だと割り切ってマリア・ハイドリヒ親衛隊大尉に接していたが、次第になにかが違うと感じているようになった。
一瞬の目配せや、ちょっとした所作がかつての彼の上官によく似ている。
どこがどう、と言われても論理的に説明することなどできはしないが、感じてしまった違和感は拭うことなどできはしない。
冷たい光しか浮かべなかったラインハルト・ハイドリヒと、どんなことがあっても笑顔でしかないマリア・ハイドリヒは余りにも対極的ではあるものの、よく”似て”いる。
共通点を上げるならば、どちらも全く逆方向にではあるが人間性のなにかが欠落した人格だということだった。
「……大尉」
呼び掛けるとマリーがナウヨックスを振り返る。
「どうしたんですか?」
「あなたはなにを考えているんです?」
特別保安諜報部に配属が決まったときは閑職と諦めていた。しかし、マリーの主導のもとに総統官邸に踏み込んでから考えが変わった。
まともな神経をしていれば、総統官邸に踏み込むなどよほどの勇気があるのか、それとも考えなしの愚か者であるかだろう。結果的に連合国や共産主義者とつながりを持つ者が捜査線上に浮かび上がり、これを逮捕できることができたから良かったようなもので、総統官邸に踏み込んで「間違いでした」では話しにならない。
逆にナウヨックスを含めた特別保安諜報部のメンバーたちが死ぬことになっただろう。
このためにベルリンの国家保安本部には、官邸からの出頭命令が届いたらしいという噂を耳にしたが一介の下級士官には余り関係のないことだ。
これについてはヴェルナー・ベスト博士とハインツ・ヨスト博士。そして国家保安本部第一局局長であり長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将と、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが召喚された。
シェレンベルクはプラハに別件で飛んでいたから、この召喚を免れた。
召喚理由など想像に難くないが、官邸でなにを追及されたのかと思うと正直ぞっとしない。
ベルリンに戻ったときに面倒なことにならなければ良いが。
そう考えて、ナウヨックスは肩をすくめた。
ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件の捜査は記録の上では順調に進み、別件の資料によって裏付けられたベーメン・メーレン保護領における非ユダヤ系の住民たちに対して行われた報復攻撃によって多くの無辜の人々が生命を落とす結果になった。そんな経緯をある程度知っているシェレンベルクほ報告書には動じることはないが、それらに目を通すマリーは、表情こそほとんど変わらないもののどこか面白くなさそうだ。そうしてやはり表情を変えることをせずに「やりすぎだわ」とつぶやいた。
「彼らは統治のなんたるかを理解していないのよ」
報告書の表紙を軽く指で打ってからマリーはそう言った。
公用車のベンツの車内で後部座席に座るのはシェレンベルクとマリーで、運転席にはゲシュタポ上がりのSDと、助手席にナウヨックスがいる。
「潜在的に不安と不満、そして敵意を抱えている相手に強行に鞭ばかりを降り続ければ、彼らの敵愾心に火をつける。そして一度ついてしまった火はそう簡単に消すことはできないのよ」
歌うように言いながらマリーは言葉を続ける。
「彼らは容易にその引き金を引いて、かつその後の対応がぬるいのは、その程度で万事がうまくいくとでも思っているからなのでしょうね」
まるでヒバリが鳴くように明るい声は、話している内容とは裏腹にひどく朗らかで場違いだ。
「……ほう? では、君ならどうする?」
「やるならもっと素早く、徹底的にたたきつぶさなければならないわね」
そう言ったマリーの声は野の花でも摘んでいるような印象しか受けない。
――立ち上がれなくなるほど叩きつぶし、根絶やしにしなければ。
そう告げた彼女にシェレンベルクは眉をひそめると考えを巡らせる。
「……けれども、そうしたくともこれからそれをやろうとするのも無駄。彼らの憎悪に火をつけるだけ」
冷静に指摘するマリーの言葉は的を射ている。
「機を逃し、後手に回ってはいけないのよ」
「ならばどうすればいいと……?」
すでに機会を逃している。
ではどうすればいいのだとシェレンベルクが問いかけると、マリーは顎に右手の人差し指の指先を押し当てて首を傾げた。
「継続的な緊張を相手に強いても、人間というのは緊張状態に慣れていくものだから、すでに主犯を捕らえているならば一度捜査の手をゆるめるというのも一つの選択ね」
占領地区を統治をするときは緩急をうまく使い分けなくてはならない。
緊張状態が続くのもよくないが、ぬるま湯に浸かったような平和が続くのも良くない。時には劇薬を投じ、適度な緊張感を維持し続けるのが重要だ。
マリーの言外の言葉にシェレンベルクは眉をひそめた。
まるで、それはかつてのラインハルト・ハイドリヒのようではないか。
「ベーメン・メーレン保護領のダリューゲ上級大将とフランク中将をうまく押さえ込める人事ができればいいのだけれど」
彼女はそう言った。
「それができないならどうする?」
残念なことにナチス親衛隊という組織は、優秀な者と、そうではないゴマすりだけにしか能のない連中とに大きく分けられる。
クルト・ダリューゲはそう言った意味では、所詮、突撃隊上がりの能なしでしかなかった。
「……そうね」
シェレンベルクの言葉を受けてマリーはじっと窓の外を見つめたままで考え込む様子を見せた。
「もっと魅力的な花があるのだと、偽り騙し、そちらへ注意を向けるという手段が有効かもしれません」
魅力的な花の蜜を罠に使っておびき寄せる。
そうして当人にそうとは気がつかないうちに閑職へと追放すればよい。
マリーはよく現実を見つめている。
「中途半端な粛正は禍根を残すばかり。どうせやるなら相手が怨嗟の声を上げる前にやれば良かったのよ。戸惑い、恐怖に怯えている間に付け入る隙を与えず徹底的に蹂躙すれば、当分立ち上がる力なんて残りはしない」
静かに告げたマリーに、シェレンベルクは「ふむ」と低く相づちを打った。
かつてのポーランド戦の時に、ラインハルト・ハイドリヒが指揮したアインザッツグルッペンのような徹底した”行動”が必要なのだ。
「だが今は東部に行動部隊を展開していて、そんな余裕はどこにある」
「あら、シェレンベルクはなにを言っているの? 治安を担当するのは現地警察と、補助警察。そして本国からは治安警察と刑事警察と国家秘密警察。あとは懲罰部隊から武装親衛隊の荒くれ者を選抜すればいいだけのことで、招集はそれほど大変ではないはずよ」
汚れ仕事など懲罰部隊に任せれば良い。
そのための部隊だ。
ふたりの会話を助手席で聞いていたアルフレート・ナウヨックスは思わず「なんだか怖いことをさらっと言った気がする」と内心で思った。
確かに略式処刑を担当する実働部隊については懲罰部隊から引き抜けばいいだけのことだ。
ゲシュタポなどの警察官たちは、それほど数が多いわけではないとはいえ、捻出できない人数ではない。
「しかし指揮官はどうする?」
「党に傾倒する外国人警察なんて腐るほどいるわ。彼らに任せればいいだけよ」
なにも国家保安本部の高官が赴くことはない。
マリーの言葉にシェレンベルクは「なるほど」とつぶやいた。
東部戦線に展開する行動部隊のように戦線後方でパルチザンの掃討作戦にあたるわけではない。占領地区の不満分子、反体制分子や敵性分子を相当するという仕事はそれこそポーランド戦の際に展開された行動隊の仕事とよく似通っていると言っても良いだろう。
どちらにしたところで、とシェレンベルクは思う。
マリーの言葉通り、確かにクルト・ダリューゲにしてもカール・フランクにしてもすでに後手に回ってしまっている。彼らがこれ以上、無意味な虐殺を続ければドイツ第三帝国にとってあまり好ましくない結果をはじき出すだろう。
「継続的な緊張は意味がない、か……」
「そうよ。気がゆるんだところに一撃を加えれば効果的でしょうけど、そうではないならもう二ヶ月も作戦を続けているわけでしょう? やめておくほうが賢いわ」
「確かにな」
どんな状況であれ、人間の精神というのはタフにできている。
状況に慣れていくのは人が生きていくための力なのだ。
「ベルリンに戻ったらネーベ中将とミュラー中将に相談をしてみよう」
ふたりの刑事局長ならばあるいは、ダリューゲやフランクを説得できるかもしれない。マリーの言う通り、継続的な恫喝は相手の心を頑なにしてしまうだけのことなのだから。
かつてのラインハルト・ハイドリヒは硬軟織り交ぜた巧みな政治手腕によって、ベーメン・メーレン保護領住む住民たちの心をたやすく掴んだことを思い出す。そして、そんなハイドリヒの政治手腕に危険性を感じたチェコスロバキア亡命政府とイギリス政府の手によって彼は暗殺されたのだ。
チェコスロバキア人が、ドイツに対して好意を持ちその政治を受け入れてしまうというのは、両政府にとってのぞましくなかった。そして、ダリューゲとフランクは、ハイドリヒが巧みに織り上げたチェコスロバキア――ベーメン・メーレン保護領――の安定を打ち壊そうとしているのだ。
今なんとかしなければその地は今後パルチザンの温床となるだろう。
「そういえば、ベルリンではいろいろ問題が噴出しているそうだが、帰ったら帰ったで面倒臭そうだな」
シェレンベルクが言うと、マリーは花のように朗らかに笑う。
「大丈夫よ、シェレンベルク」
痩せ型で大柄ではないシェレンベルクと並んでいて、それでも尚華奢にしか見えないマリーの余りの頼りなさに、ナウヨックスと車を運転する青年が顔を見合わせる。
世間をよくわかっているのかと思えば、ひどく無邪気に笑う彼女はやがて疲れてしまったのか、シェレンベルクと会話を交わしながら、うとうとと船を漕ぎ始めた。小さな頭がシェレンベルクの肩に寄りかかって言葉が途切れる。
マリーの態度は正直なところ、自分よりも階級が上の人間に対するそれではないが、シェレンベルクはそんな物怖じしない少女に対して気分を害する様子はない。
良くも悪くも彼はプレイボーイで、女性に甘い。
頭を傾けたままでは首が痛くなるだろうと、気遣ったシェレンベルクがそっと少女の上半身を自分の膝に横倒しにしてやると、マリーは抵抗一つなく彼の足の上に体を横たえた。香水を使っているわけでもないのに漂う甘い少女の香りに、シェレンベルクは鼻から息を抜くと前方のフロントガラスの向こうを見つめる。
カール・フランクからラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件の最終報告は受け取った。
ベルリンの国家保安本部のオフィスに戻ったら、アルトゥール・ネーベとハインリヒ・ミュラーにダリューゲの件を相談をしなければならないだろう。
ネーベは刑事警察、ミュラーはゲシュタポ。それぞれの長官だ。
秩序警察長官であるダリューゲも、彼らの意見であれば耳を傾けるかもしれないが、それでも駄目な場合を踏まえて別の手も打っておかなければならない。
目を伏せたシェレンベルクの頭の片隅に、国家秘密警察局宗派部ユダヤ人課の課長アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐の顔が浮かんだ。彼は高等教育を受けていない割りに、優秀な官僚だ。昼も夜も仕事をしていると言った感があるが、その虚栄心の強さは彼の満たされない精神状態を表しているのだろう。「最終的解決」についての責任者とも言える彼は、常にそのための人間の数を「人数」としてではなくただの「数字」としてしか把握していない。そんな彼であれば、クルト・ダリューゲに別の選択を提示できるかも知れない。
もっとも、それはダリューゲがネーベとミュラーの忠告を受け入れなかった場合の最終手段とも言えるのだが。それにしても、ベーメン・メーレン保護領は思った以上に厄介な状況に陥っていて、シェレンベルクを悩ませることになった。
狙い通りにことが運んでくれれば、彼としても仕事が楽にすむのではあるが。
どちらにしたところで国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクにしてみれば、その情報網が馬鹿な高官の行動のために閉ざされてしまうのはありがたい話しではない。
そこまで考えてから彼はマリーの肩を軽くなでた。
さてベルリンのほうはどんな状況になっているのだろうか?
「考えても埒があかんな」
憶測と仮定を根拠に考えたところで仕方がないことだった。
加筆修正済みです。




