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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXV 神の怒り
343/410

11 中野学校

 強いて言うならばなんだろう。

 ぷかりとタバコをふかしながらエルウィン・フォン・ラホウゼンは考えた。情報を持っていないものに対してつまらない予測を繰り返したところでおおよそ意味など持ちはしないことを、ラホウゼンも情報将校のひとりとして理解しているつもりだったが、それでもつい思考を巡らせてしまうのは人の愚かなサガなのかもしれない。

 執務室で自分の机に寄りかかった長身の男は、小さくノックする音に顔を上げた。

「オスター大佐」

「どうも、少将」

 人当たりが良くも見えるハンス・オスターの謎めいた微笑に、ラホウゼンは小さく頭を下げた。

 国防軍情報部長官、ヴィルヘルム・カナリスの腹心とも噂される優男だ。もっとも、優男に見えるのは外面だけで、カナリスとは正反対の熱い信念に支配された男であることもラホウゼンは知っている。たとえば国家保安本部が一枚岩ではないように、国防軍情報部も決して一枚岩と言うわけではない。もちろん反ヒトラー派であるという点について妥協はないのだが、それぞれが強い意志を持つだけに彼らの見解はそれぞれに異なっている。

「どうでしたかな? 彼女は」

「不思議な子です」

 年長者であるオスターに礼儀を払う口ぶりでラホウゼンは言いながら肩をすくめるとタバコを灰皿に美味しつけた。

「あんなに感情が顔に出るようでは、情報将校として不適格ではないかとも思いますが、逆に情報将校だと考えると彼女の表情の豊かさは理解と説明ができません」

 奇妙な感触――。

 ともすれば、うっかり手のひらで握りつぶしてしまいそうな心許ない感覚にラホウゼンは困惑する。

 ナチス親衛隊の情報将校。それが彼女の肩書きだ。それは書類上からはわかっている。しかし直接相対してみれば彼女の異質さだけがひどく際だって、そのか弱さに表現すべき言葉を見失った。

「だから……、ナチス親衛隊があんな子供をどうして重用しているのか、さっぱり理解ができません」

 女は銃後を支えるべき。

 そう考える男たちの世界で小さく儚げな少女がひらひらと舞う蝶のように自由自在に活動している。そんな彼女に違和感を覚えた。

「ラホウゼン少将、わたしは時に理解ができなくなる」

「……は?」

 しばらく黙り込んでラホウゼンが綴る言葉に耳を傾けていたオスターがおもむろに口を開いた。ひどく頭が切れるヴァイマル共和政時代からの生粋の情報将校でもある男はぽつりと告げる。

「彼女はまるで魔女のようだ」

 長い沈黙の後にオスターが告げる。

「魔女、ですか?」

「――……わたしは彼女に荷担した。それが正しかったのか、わたしにはわからん。ただ、時間というものは残酷だ。決してとまることもなく、既成事実の連続で成り立っていく。我々が”エーミール”を結果的に野放しにしてきたためにこういうことになったのかもしれない」

 人生において、人は度々重要な選択に迫られる。そして時は巻き戻すことができず、次の選択の前に晒されるのだ。

「荷担、ですか」

 ラホウゼンはオスターが何を言いたいのかがわからなくてそっと眉間を寄せた。

「そうだ」

 核心的な言葉を口にしないオスターがもどかしくて、ラホウゼンはこつりと靴音を鳴らして年上の情報将校に向き直る。

「歯に物が挟まったような言い方をしますね、大佐」

「……ふん」

 やんわりと追及を受けてハンス・オスターは自嘲気味に鼻を鳴らすと軽く片手を上げてから肩の上でひらりと振った。

「少将までわたしの犯罪に荷担する必要はない。常に最悪の状況を考慮して秘密は守るべきだろう?」

「オスター大佐がなにを考えているのかはわかりませんが、仮にその判断に大きな被害がつきまとうものと大佐がかんがえていらっしゃるのであれば、その秘密は胸にしまっておくことが的確かと思います」

「そうだろう」

 オスターが苦笑する。

「わたしはわたしの選択を後悔しない。そもそも今さら後悔しても、時間の無駄だ。だからこれからのことを考えることにしよう」

「……大佐、あの子が」

「うん?」

「……あのミアという少女が、言っていました」

 告げられたエルウィン・フォン・ラホウゼンの言葉にオスターは踵を返しかけていた足を止めると首を回す。

 ミア――。

 それはマリアのドイツ語読みの愛称だ。

「ミアは、国家保安本部の中央記録所にはありとあらゆる情報がある、と」

「その情報に接触することは可能か?」

「親衛隊以外の人間にはまず無理でしょう」

 淡々とした様子のラホウゼンはほとんど表情を変えずに言うと、オスターは数秒、視線を頭上に上げて考え込んだ。

「なら、バムラーに接触できるようにカナリス提督に提案してみよう」

「あの男、役に立つのでしょうか?」

「それなりに役に立つだろう。エーミールのシンパだからといって無能であるというわけでもない」

「それは否定しませんが」

 かつて東部戦線で死んだヴァルター・フォン・ライヒェナウ陸軍元帥のように。優秀な将軍でありながら、ナチス党に共感した者も多い。

「……――了解しました、バムラーの監視を強めましょう」

 多く語ることはせずにオスターの提案に対して首を縦に振ったラホウゼンは、今度こそ退室するオスターを引き留めるようなこともせずに見送った。



  *

「目立ちますね」

 飄々とした空気を身につけた青年は背広姿に片腕にコートを掛け、ハンチング棒を手にしたまま肩をすくめてから笑う。

 そんな笑いはどこか危機感に欠けていて、大島浩は不快を感じる。

 「彼ら」はいわゆる職業軍人でありながら、軍人としての素養に欠ける。本来、そうした「目的」のために教育を受けた者たちだったから、大島が不快感を持つこと自体が理屈に合っていないのだが、当たり前の縦社会の中で生きてきた大島には不愉快でたまらない。

「どうしたって目立つんですから、今さらそんなことを気にしても仕方がありません」

「それで、どうなのだ。日本の様子は」

「……中将閣下もお聞きになっていることとは思いますが、リヒャルト・ゾルゲは死刑が求刑されました。他にも、いろいろですね」

 含み笑いを覗かせた青年は大島の向かいのソファに腰を下ろすとその肘掛けにコートと帽子を置いた。

「……いろいろ?」

「わたしの任務はドイツの情勢を日本に正確に伝えることです。閣下も思うところは多くあると思いますが、本官にはこれ以上軽々しい発言はできません」

 注意深い青年の言葉に、大島は腹の前で両手の指を組み合わせるとぎろりと鋭い視線を走らせた。

 スーツ姿の青年は、ドイツの事情に誰よりも通じているはずの大島を前にして人を食ったような黒い目を細めてから小首を傾げた。

 中野学校――。

 大島は不愉快そうなままで口の中でつぶやいた。

 その卒業生は、日本にあってそれほど多くはない。そして、その現実こそがドイツと日本の実力の違いでもある。

「わたしを信じられないと言うのか?」

「いえ……。いえいえいえ、そうではありません。閣下」

 クスクスと笑った青年はドイツ国内で活動するための諜報部員として数カ国語を習得したヨーロッパにおける情報将校のエキスパートのひとりである。

「閣下の実力は本国でも認めるところです。それはわたしも疑ってはいません」

 軽い物言いに大島は軽く腰を上げてから座り直すと、目の前の青年を見つめて言葉を探す。

「ドイツの情報部門は手強いぞ」

「知っています」

 即答した青年は穏やかな笑顔を浮かべて口角をかすかにつり上げた。

「我が国はドイツを含め英米と比べて、情報機関の熟練に劣ります。これはわたしの私的な見解ですが……」

 そう続けてから一度言葉を切ると、青年はやはり静かな笑顔をたたえたままで自分も大島同様に深くソファに座り直すと、自分よりも地位の高い相手が目の前にいるというのに尊大な様子で両脚をくみ上げる。

 そんな態度が大島にはさらに気に入らない。

「大島中将。閣下はひとつ見落としをされていらっしゃる」

 若く不遜な男はことさらに大島を見下したような眼差しで断言した。

「”あなた”は、一昨年前、失態を犯された。まだ、その失態は大本営も政府首脳部にも発覚していないが、少なくとも、一部の情報部員はあなたの失敗を確信している。このまま戦後を迎えたとして、あなたの責任を問われることはお忘れにならないほうがよろしいかと思います」

「失態だと……?」

「えぇ、間抜けのゲシュタポも、くだらない失敗を演じたゾルゲも同じですが。あなたも同様に失態を犯した。これは、祖国に対する明確な裏切りに他ならない。あなたは親独というカーテンに阻まれて事実を見失っておられる」

 青年の言葉はまるで切れ味の鋭い日本刀のように大島に襲いかかった。

「中野学校の人間は独自の思想を”展開する自由”を保障されています。”上”の命令はともかく、わたしはわたしの個人として情勢の判断をさせていただきます、中将の命令は不用です」

 あなたの命令は受けない。

 遠回しに告げた青年は不敵に笑うと大島の前から姿を消した。

 中野学校の卒業生の派遣は大島浩にも伝わっている。その任務はドイツ国内の情報機関との接触だ。だが、大島はそれしか知らない。いったい中野学校をドイツ国内の情報機関と接触させてどうしようというのだろう。

 確かに、先の東部戦線にあって、大島ら日本国外に展開する情報員は失態を演じた。しかし、それは情報員らだけの失態ではないと大島は感じている。たとえどんなに正確な情報を祖国に提供したとしても、それを生かす政府首脳部が存在しなければ情報に意味など存在しない。

 結果的に、日本においてゾルゲの諜報活動として実を結んだ。

 度重なる判断ミスが、ドイツと日本を危機に晒したのだ。

 ぎりりと奥歯を噛みしめた大島は不愉快な気分に突き動かされながら腕を組み直すと憮然として目の前の中空を睨み付けた。

 今、大島浩の祖国、大日本帝国は明かな危機に瀕している。

 敵はあの英米連合だ。

 親独も極まれりと言った大島だが、それでも祖国を愛していないわけではない。たとえ親独に傾いていようとも、大島はどこまでも日本人以外の何物でもないのだ。

「最近の若造が、全く口の利き方がなっとらんな」

 ぼそりと呟いた彼は不機嫌そうに踵を踏みならしてから、溜め息をついた。心配事は山ほどある。しかし、遠くドイツのベルリンに滞在している以上、大島の力には限界がある。

 噂では満州の関東軍防疫給水部本部が東南アジア戦線に発生した伝染病対策に乗り出したという。指揮官を務めるのは、初代関東軍防疫給水本部の長官を務めた石井四郎だ。さらに、アメリカとの全面対決にも晒され日本陸軍と海軍は共に窮地に陥っていた。

「……わたしは国を愛していないわけではない」

 失態は自覚している。

 たまたまドイツとソビエト連邦との戦いは、ソビエト連邦の内部分裂のおかげでドイツの勝利に傾いて終わった。

 しかしスターリンの後釜に座ったフルシチョフも決して一筋縄でいく相手ではないことはわかっている。

 多くの困難な状況を前にして、大島浩は解決の糸口を必死で探った。

 長く鼻から息を抜いて大島は所在なげに足を踏みならしてから立ち上がると肩を落とす。祖国が中野学校を派遣してきたと言うことを考えると、ヨーロッパ戦線における情報不足を自覚してのことに違いない。

「……あの若造の任務はさておき、年寄りには年寄りの役目がまだ残っているからな」

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