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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXV 神の怒り
342/410

10 共闘の示唆

「部下に女がいるとなにかと面倒ごとが多くて神経を使う」

 それがエルンスト・カルテンブルンナーのこれまでの仕事絡みの女性観だった。それはこれからも変わらないだろう。そもそも女というものはなにかにつけては泣いたり叫んだりして戦場や、”非日常的”な場面では扱いづらい。そうした見解はこれまでもこれから同様変わりはしないだろう。

 そんなカルテンブルンナーだったが、個人的な感情からマリーだけは「特別」だと考えていた。

 マリーはいつも朗らかに笑っている。大人の手を煩わせずに「迷惑」をかけない。分別をわきまえた彼女の行動は、その辺の女子供とは一線を画していると言ってもいいだろう。そんな彼女に対する感情は、彼女と出会ったベルリンの「花の家ハウス・デア・ブルーメン」の時以来、より強くなりつつあった。

 彼女はカルテンブルンナーが知る軽薄で尻軽な大人になりつつある娘たちとは異なる。

 彼女は「特別」だ。

 そんなカルテンブルンナーの内心の思いを知る者がいれば、それはただの判官贔屓(ほうがんびいき)だとでも言うだろう。

国防軍情報部(アプヴェーア)のカナリス大将からは連絡を受けている」

 年齢の割にはげ上がった頭が印象的な長身の男はこの年、四五歳になる。カナリスの側近とも呼べる男で少し猫背がちの国防軍陸軍の制服を身につけた男を見据えて、ことさらに余裕ありげな態度を取り繕うとカルテンブルンナーはそう言った。

「先日、官邸から疑惑を受けた件について同席した親衛隊員から直接話を聞くようにと命令を受けています」

 年齢こそはカルテンブルンナーよりも上になるが、階級は下だ。だから形式的だけでも彼は三十代の若造に礼儀を払った。

 エルウィン・フォン・ラホウゼン陸軍少将。

「だが、ラホウゼン少将」

 むっつりとした口調のままで頬杖を突いていたカルテンブルンナーは口を開いた。

「話をするのは構わん、だが、万が一”ありとらゆる意味”で、わたしの部下を冒涜するような真似をしてみろ。二度とその口がきけないように、強制収容所(KL)に放り込んでなぶり殺しにしてやる」

 不機嫌を絵に描いたような、とでも表現するのが一番早いだろう、

 カルテンブルンナーは、長い人差し指でラホウゼンを指し示して低く威圧するように告げた。

「野暮な真似は控えることをお約束します」

 ラホウゼンは背筋を正したままカルテンブルンナーに言葉を返すと、国家保安本部長官を務める男はフンと鼻を鳴らしてから首をすくめた。

 今は亡きラインハルト・ハイドリヒの国家保安本部とヴィルヘルム・カナリスの国防軍情報部は水と油だ。互いに互いを毛嫌いしあっている。

「そうしてもらおう」

 カルテンブルンナーの不機嫌そうな表情を眺めていたラホウゼンは内心で意地悪く、写真に映った痩せた少女と体の関係でも持っているのではないかと思った。親衛隊や国防軍を問わず、そうした方面で好色な男も多い。男とは、本来、魅力あるメスに惹かれるものだが、写真の少女が男を惹きつける魅力を持っているとはとても思えない。

 未発達な手足と胸、余り発達していない尻も魅力的とはとても言い難い。女性として、男を惹きつける魅力に決定的に欠いている。特にナチス親衛隊の男たちは見境なく年端もいかない少女らを誘惑するというではないか。

 好奇心と恋心の違いもわかっていない少女らを、親衛隊のならず者たちは誘惑して無責任にその手にかける。それが生粋の国防軍の将校たちの目には不届き者として映った。

「呼んでおいたからすぐに来るだろう」

「……了解しました」

 それから数分とたたずにカルテンブルンナーの執務室を訪れた少女は、品の良いスコットランド伝統の赤を基調としたタータンチェックのキルトを少女らしくデザインしたスカートを身につけ、腰上の余り布がストールのように華奢な肩を覆っている。

 そもそも本来、キルトというのは男性用の衣装のはずだが彼女の服をデザインした職人はいったい全体なにを考えてこんな格好を少女にさせているのだろう。

 感想を一言で言えば「よく目立つ」だ。

 やや呆然として執務室を訪れた少女を凝視していると、ラホウゼンに相対する彼女は自分の名前を名乗ってから青い両目を細めてにっこりと笑った。とても国家保安本部の――ナチス親衛隊の情報将校とも思えない無邪気さに、ラホウゼンはかけるべき言葉を失っていた。

「えぇと……」

 写真で見た以上に幼い。

 狡猾で計算高い国家保安本部の情報将校たちと比較してしまうから、もしかしたら、彼女のそんな態度さえもなにかしらのしたたかさを押し隠しているのではないかと邪推した。

 なにせ相手は国家保安本部なのだ……!

「マリーでいいですよ!」

 相手は親衛隊少佐で、自分は陸軍少将だ。立場としては礼儀を払われて然るべきなのだが、少女の余りにも明朗な立ち居振る舞いに言葉を見失う。

「……――君は、どういうしつけをされてきたのだ」

 ようやく探し当てた言葉にかろうじて苦虫を噛みつぶしたような空気を滲ませれば、執務机についていたカルテンブルンナーが少なからず不愉快そうに片方の眉をつり上げるのがラホウゼンの視界に入った。

 国家保安本部長官の態度を逐一観察するところ、カルテンブルンナーがラホウゼンの横に立っている少女に肩入れしていることは間違いない。余分な発言をして国家保安本部の強権を発動させることはラホウゼンの進退に影響しかねなかった。

 だからわざとらしくエルウィン・フォン・ラホウゼンは咳払いをして意識を切り替えた。

「彼女は国家保安本部に配属されるまでは、とある養護施設で保護されてきたのでな。少なからず世間の常識には疎いところもあろうが目をつむってくれると助かる」

「なるほど」

 困惑したラホウゼンがそれだけ返すと、少女は赤いタータンチェックのキルトの肩の余り布を引き寄せるようにしながら、ふたりの男たちのやりとりを聞いていた。

「とりあえず、カナリス大将の要請だからな。彼女を任せよう」

 マリーに「行ってきなさい」と告げるとカルテンブルンナーは自分の机に両手をつくと立ち上がった。ゆっくりとマリーに歩み寄ってその肩を優しくたたいた。

「君の選択を、わたしは信じている」

 生真面目なカルテンブルンナーに反して「はーい」と両手を万歳をするように上げたマリーは間の抜けた返事をして写真で見たそのままにニコニコと笑った。

 こんなにも子供らしい子供は見たことがない。

 十六歳と言えば、背伸びをして大人っぽく振る舞おうとするのが当たり前だ。けれども彼女にはそんな様子が見受けられない。どうやればこの困難な時代に、こんなまっすぐで無邪気な笑顔の少女が育つのだろう。

「行ってきまーす」

「行っておいで」

 ひらひらとラホウゼンにマリーと名乗った少女はカルテンブルンナーに気さくにそう挨拶をした。

 ラインハルト・ハイドリヒの後任として指名されたオーストリア出身の親衛隊高級指導者、エルンスト・カルテンブルンナー。当初、彼の存在は大して重要視されていなかったため、彼に注目する者は少ない。そのため国防軍情報部の情報将校たちもカルテンブルンナーに対する情報は余り多く持ち合わせていない。

 とりあえず、ヒムラーとハイドリヒの要請を受けてオーストリアにリンツに近いマウトハウゼン強制収容所を設置したということくらいだ。他にはそれほど功績らしい功績のない冴えない法律家だ。

 ――本当に”これ”がナチス親衛隊員?

 カルテンブルンナーの執務室を出て、キルトを身につけた少女と並んで歩きながらエルウィン・フォン・ラホウゼンは訝しげに小首を傾げた。

「……あっ」

 そんなことを考えていたラホウゼンの横で少女の甲高い声が上がった。

 なににつまずいたのか、金髪の少女が前のめりになって転びかけた。とっさに長い腕を伸ばしたラホウゼンは少女に後ろ襟を掴んで少女がそのまま転ぶのを防いでやった。もっともそうすればそうしたで、キャンと子犬のような悲鳴を上げてのど元に走った衝撃に驚いて両手を振り回す。

 なんとも表現しようの困る相手に思わず少女の後ろ襟を掴んだまま、大きな溜め息をつきながらもう片方の手で自分の顔を覆った。

 カナリスの命令とは言え、なんでこんなちんちくりんの金髪の少女の相手をしなければならないのだろう。

ありがとう(ダンケ)、ごめんなさい」

 やれやれと思いながら少女から手を離したラホウゼンは、少し腰を屈めて少女の青い瞳を覗き込んだ。

「本当に君は親衛隊員なのかね?」

「そうですけど?」

「こんな格好をしていて、威張り腐った連中に嫌な顔をされないのかね?」

 時には敵国の民族衣装を着ただけでも非国民、売国奴と批難されるのが戦時下だ。率直すぎるほど率直に問いかけたラホウゼンに、マリーは笑顔のままでぽかんと両目を見開いた。

「どうしてわたしがそんな顔されなければならないんです?」

「世間というのはえてしてそういうものだからだ」

「……意味がわかりません」

 心の底から意味がわからない、とでも言いたげな表情で腕をくんで考え込んでしまった彼女は数秒してから、やはりあどけない瞳をあげてラホウゼンを見上げると何度かまばたきを繰り返してから左右にかぶりを振った。

 結局、彼女にはわけがわからなかったらしい。

「昼食を一緒にどうだろう。君と話しもしたいしね」

 そもそもそれが任務だ。

「わかりました」

 何を考えているのかわからない少女は、ラホウゼンの提案にふたつ返事で頷いた。

 彼女が言うには、カイテルとレーダーはふたりでパウルスの死に対して話し合いがあったらしい。とはいえ、記憶力が怪しい子供のことだったから、ラホウゼンも頭からマリーの言葉を信用したわけではない。

片やは信用の厚い党官房長を務めるマルティン・ボルマンの裏切りと、フリードリヒ・パウルスの予期せぬ死によってヒトラーが受けた精神的な衝撃は計り知れない。いや、想像はできるが、それが良い方向へ転がるか、悪い方向へ転がるかと言えばそれは常識的な人間の想像の範疇を超えている、

「マリー、君は……」

 言いかけてからラホウゼンは押し黙った。

「……なんですか?」

「えぇと、マリー。君は、今回の官房長閣下の更迭をどう思う?」

 一応、それなりに具体的な形でマリーに問いかけたのは、ラホウゼンなりの優しさだ。親衛隊員相手に優しくする必要などないことはわかっているが、どこまでなにを考えているのかわからない彼女を相手にしていると調子が狂った。

 レストランでの食事を終えてデザートの果物をつつきながら少女は、せわしなく瞬きを繰り返した。どうやらラホウゼンの話など半分も聞いていないらしい。

「マリー」

「はい?」

 彼女の返事はそれなりに礼儀正しいが、態度が余り好ましいとは思えない。どう考えても不躾な彼女の態度にラホウゼンはテーブルを軽くたたいた。

「マリー、君はもう少し自分の態度を改めるべきではないかね?」

 唐突に怒りの矛先を向けられてマリーは困惑すると、ややしてから眉間を寄せた。

「なんですか、突然」

「目上には礼儀を払うべきだと言っているのだ」

「……別にラホウゼン少将のことを馬鹿にしているわけじゃないじゃないですか。それなのにどうしてひとりで勝手に怒ってるんです?」

 自分の態度を咎められて不愉快だったらしいマリーは頬をふくらませて唇を尖らせた。くるくると表情の変わるマリーの百面相にラホウゼンは目を丸くすると、それから口元に右の拳を押し当てるとプッと吹き出した。

 どこまでも常識が通用しない相手。

 予想外に可愛らしくてつい目尻が下がってしまうのは、ラホウゼンが大人だったからだろう。

「なんで笑うんですか」

「そういえば君の一般常識に対する教育はあのハルダー元帥がしているのだったか」

 誰かが常識的なことを教育してやらなければならないほど非常識な子供。

 そして、昨年末に国防軍が巻き込まれた反政府容疑に荷担したとされながら、そんな疑惑をものともしなかった。

 ひとつ違えば強制収容所送りか、処刑だ。もっとも強制収容所も処刑も同義でしかないことはラホウゼンもよく知っている。

「……そういえば、先日、君はヒトラー総統を起こしに行ったとか?」

 彼女の非礼を注意することもなんだか馬鹿らしくなって話題を切り替えると、少女は膨らませていた頬を元に戻してから目を細めながらオレンジに食いついて笑う。

「そうよ、だって、わたしが頑張って朝起きてるのに総統閣下がいつまでも寝てるなんて不公平よ。それに……」

 そこまで言ってから、彼女はふと口を噤んだ。

「口の中のものがなくなってから話なさい」

 もごもごと不明瞭な言葉を発する少女に、タバコに火をつけながらラホウゼンは常識的な注意をかけた。

「……それにね、わたし”あの”モレルっていう先生のこと信用なんてしてないわ。あんな生活を総統閣下に許してる時点でお医者様失格よね」

 マリーは不意に思わぬ事を口にした。

「マリー?」

 彼女の声音は不穏な音色を宿しているような気もする。

「国家保安本部の中央記録所にはなんでもあるのよ」

 にっこりと彼女が笑った。

 ――わたしは”なんでも”知っている。

「洗いざらい」

 食後のデザートを食べながら言葉を続ける彼女の切れ切れの発言が焦れったくてラホウゼンは無意識に口元にタバコをくわえたまま背筋を正した。

「モレルのことを調べてみるのも面白いかもね」

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