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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXV 神の怒り
341/410

9 不穏の歯車

「総統閣下っていうだけで朝寝坊が許されるなんて、不公平だわ!」

 本人に悪気のないマリーの発言はドイツ政府首脳部を震撼させた。

 ヒムラーに至っては文字通り彼女の行動に卒倒し、国防軍総司令部の総長を務めるヴィルヘルム・カイテルも顔を真っ青にして執務室で呆然とした。

 国防軍の反ヒトラー派として名前を連ねるエルウィン・フォン・ヴィッツレーベンは青くなって挙動不審に陥っているカイテルを前にして顎を撫でると興味深そうに両目を細めた。

「朝から総統をたたき起こしに行ったとはなんともはや、元気の良いお嬢さんのようだな」

 感心した様子で言葉を紡いだのは、陸軍の重鎮とも呼ばれるゲルト・フォン・ルントシュテット元帥だ。

「元気が良いとかそういう問題ではなかろう……」

 カイテルの言葉に「ふぅむ」とうなり声を上げてから、ルントシュテットは小首を傾げた。

「たまたま無傷で戻って来れたから良いようなものだ。もしも、総統閣下の怒りを買うような事態になれば、どんなことになっていたことか……。いかにナチス親衛隊と言えど、度が過ぎれば問題は大きくなりかねない」

 ともすれば、ヒムラーの首が飛んだかも知れない。

 国防軍の重鎮ともなれば、親衛隊長官の首などいくつ飛んでもかまいはしないのだが、問題を放置しておけば、それはそれでマリーの命に関わる。カイテルとしては、マリーの身に危険が迫るような事態だけはどうしても避けたいところだったが、ヒトラーの身辺に関する限り、国防軍司令部総長などに発言権があるわけでもない。

 むしろヒムラーの首など飛んでくれたほうが国防軍としてはありがたい。もっとも無能なヒムラーが実権を失って、狡猾で優秀な人間が後釜についてもそれはそれで迷惑な話である。

「しかし、どうしてなかなか……」

 前線指揮からすっかり外されて暇をもてあましていたグデーリアンが、カイテルの執務室のソファに腰掛けてクスクスと笑い声を上げた。

「ヒトラー総統の朝寝坊が気に入らなかったからたたき起こしに行ったというのは元気なものだ」

「笑い事ではないぞ、グデーリアン上級大将」

「いやいや、それはわかっていますが」

 心底面白がってでもいるのか、グデーリアンは口元に拳を押し当ててから目を細めた。

「それで、総統の朝寝坊については、マリーなりに解決したのですか?」

「わたしが知るとでも思っているのか?」

 憮然としたカイテルにグデーリアンは顔の前に人差し指を立てる。

「マリーの行動に問題があったかはとりあえず、脇に置くとしてあの子は総統官邸から生きて戻ったのでしょう。それを考えれば、”付け入る隙”ができたと捉えてもいいのでは?」

 慎重に言葉を選んだグデーリアンに、ヴィッツレーベンが深くひとりがけのソファに背中を埋めたままでじっと目を伏せてから睫毛をおろす。

「……”付け入る隙”か」

 ヒトラーも今の状況では国防軍の首脳部に対して強硬手段を選択することができない。だから反ヒトラー陣営の筆頭とも言える、多くの将校たちが国防軍に未だに籍を起き続けていられる。

「わたしだって自分がかわいい」

 ずばりと言い切ったグデーリアンは、それからわずかばかり逡巡して視線をさまよわせた。

 率直すぎるグデーリアンに、ヴィッツレーベンが批難の眼差しを向けるがそれをものともせずに真剣な面持ちで足元のテーブルを睨み付けるように凝視してから顔を上げた。

「ですが、人には人の役割があるということもわかっています。わたしにはわたしの役割がある。いくら自分の身がかわいいからと行って責任を放棄するつもりはありません」

「それは構わんが、貴官の責任問題とその娘さんの行動がなにか関係があるとでも言うのか?」

 ヴィッツレーベンの追及に、グデーリアンは微かに笑った。

「まぁ、関係はありませんが」

「ないのか……」

 あきれた様子のヴィッツレーベンが肩をすくめれば、グデーリアンは足を組み直してから「しかし」と言葉を続けた。

「彼女がせっかく作ってくれた付け入る隙を有効に役立てるのも”大人として”の責任でしょうからな」

 遠回しなグデーリアンの物言いにヴィッツレーベンとルントシュテットは顔を見合わせた。彼らも言葉にこそ出しはしないが、政府とナチス親衛隊によって推し進められる異民族排斥計画――あるいは再定住計画が度を超した様相を呈しつつあることは理解していた。だからこそ、国防軍の権力をもってして命の危機に瀕している人々を救おうと泥沼であがき続けた。

 グデーリアンも自分の身が可愛いから、罪もなく命の危機に迫っている人々を見捨てようと言っているわけではないということを、同席するふたりの元帥たちもよく知っていた。彼は猪突猛進で知られるが、決してなにも考えていないわけではないのだ。

「なにを考えて、その娘さんはヒトラー総統をたたき起こしに行ったのだろう?」

「さぁ? 最近、寝坊がひどくて怒られることが多かったそうだから、せいぜい腹を立てたのかもしれませんな」

 彼女は別に思慮深く考えて行動しているわけではないようだ。

 少なくともグデーリアンはそう思う。

 そうでなければ、あんなにも――国防軍や突撃隊、親衛隊首脳部の権力のごく近いところにありながら――朗らかに伸び伸びと振る舞うことなどできはしない。

「それだけかね?」

「子供が難しいことを考えているとでも?」

「早熟な子供であれば、そのくらいの年齢で政治に関心を示すのではないかね?」

 ヴィッツレーベンの追及に、グデーリアンは鼻から息を吐き出した。

「ヴィッツレーベン元帥の言う”娘さん(フロイライン)”は、浅慮な子供ですよ」

 早熟な政治に関心を持つ子供ではない。

「とりあえず、親衛隊長官が彼女の行動に対して寝込んだのは本当のことらしいので、あちら側がぎくしゃくしてくれれば、我々としては動きやすくはありませんか?」

「……要するに、連中が彼女に気を取られているうちに、と?」

「彼女にその意図はなさそうですがね」

 鋭く推察するグデーリアンに、カイテルは腕を組み直すと首を傾げたままでうつむいた。

「……わたしには、決定権なぞないのだ」

「わかっています」

 ヒトラーがほしがっているのは、国防軍司令部総長の「肯定」だけだ。

 だからブロンベルクやフリッチュはヒトラーの不興を買った。ベックも同じだ。

 後任として指名されたカイテルと、参謀本部総長のハルダーはヒトラーにとって前任者たちよりは都合が良かったというだけに他ならない。

「貴官らやベックが気に入っているらしいという”お嬢さん”に興味もあるが、とりあえず”本人”についての論評は置くとして、たたき起こされた総統がどんな反応をしたのか、そちらのほうが興味深い」

 重々しい口調でそう告げたルントシュテットは鋭い眼差しを一同に投げかけたのだった。



  *

「わたしよりずっと偉い大人が、いつまでも朝遅くに起きるなんて不公平よ」

 ない胸をはって得意げに言い放った少女に、上官のヴァルター・シェレンベルクはぽかりと容赦なく拳骨を振り下ろした。

「いったーい……!」

「下っ端と国家元首を同等に考えるな、馬鹿者」

「馬鹿って言ったー!」

 片手で頭頂部を押さえて、自分の隣のソファに腰を下ろした青年の大腿部にもう片方の手で乗り上がるようにして、喧々囂々と口論をしているふたりの様子はまるで年齢の離れた兄と妹のようだ。

「だって、偉くて大人ならなおさらヒトラーさん……じゃなくって、総統閣下の生活はおかしいじゃない」

「たとえそうだとしてもそれは我々が追及すべきことではない」

 食ってかかるマリーにシェレンベルクはにべもなく華奢な肩を押し返すと、自分の目の前に座っている国家保安本部長官に目線を返す。

「……こういうことらしいですが」

「……む、そうだな」

 まぁ、大ごとにならなければそれで良いが。

 怒られたことが気に入らなかったらしい子供が、大人に意趣返しをするというのはいかにも考えそうな馬鹿な話で、マリーが話した内容をシェレンベルクはかいつまんでカルテンブルンナーに説明した。

 マリーは子供らしく唐突に、大人であれば行動に移しはしないだろうことをする。

「ヒムラー長官が寝込んでいるのはどうにもなりませんが、官邸からなにかしらのアクションがあった場合に備えるべきかと考えます」

「官邸がマリーの行動を問題視すると考えるべきか?」

「そうは言っていません。ヒトラー総統がマリーに対して個人として好意的であるかどうかはともかく、周りもそうだと考えるのは賢明ではないと申し上げます」

「でも、総統閣下は起きてきてわたしに朝ご飯をご馳走してくれたわ」

 相手の都合など考えないマリーの行動に振り回される。振り回されたほうはたまったものではないのだが、当人は屈託のない笑顔をたたえて悪びれる様子もない。

 確かに社会的に責任ある立場にある者が規律を守っていないというのは示しがつかないにも程があるが、ドイツ国内を覆う事態はマリーが観察するよりもずっと重大だ。少なくともヴァルター・シェレンベルクは諜報の専門家としてそう分析している。

 決して、ナチス党の思想に共感して目の前が見えなくなるような愚か者ではない。もっとも、シェレンベルク自身がそう感じていなかったとしても、周りの人間が全てそうであるとも限らない。

 かつてヨーロッパで巻き起こった歴史上にあった「魔女狩り」のように、愚かな俗説に踊らされるのは無知蒙昧(むちもうまい)な一般庶民だけではない。時には知識人や聖職者たちも多くがその熱に正気を奪われた。

 だから、シェレンベルクは自ら意図的に冷静であろうと努めた。

 特に諜報部員たちは冷静でなければ自分自身の命をより危険にさらすことになる。そうした社会の深部で、彼らは暗躍する。

 マリーの短絡的な行動や、カルテンブルンナーの近眼的な行動から道連れになるのはご免だった。

 そうでなければ、どうして自ら危険を冒しているのか説明にもならない。少なくとも、ドイツの大物スパイとも呼ばれるエリートの青年は、ドイツという国と共倒れになるつもりはない。

 いずれにしろ、マリーの行動に対するヒトラーの沈黙が不気味だとシェレンベルクは思った。

 冷徹な思考を巡らせながら、シェレンベルクは無能なカルテンブルンナーにはそれと悟られない穏やかながら事態を深刻視する呈を装って、白々しい態度を装い続けた。

 ラインハルト・ハイドリヒの指揮下でありとあらゆる情報を思いのままに操るための手段を磨いたシェレンベルクにしてみれば、エルンスト・カルテンブルンナーなど取るに足りない。とはいえ、一応は名ばかりの上官だ。その辺りの世渡りを良く心得ているヴァルター・シェレンベルクは上辺こそ、カルテンブルンナーに敬意を払う素振りを忘れない。たとえ相手が懐疑心を抱いていたとしても、完璧な行動を肝に銘じなければ破滅という魔物は目の前に大口を開けているだろう。

 ――……だからこそ、間違いは決して許されない。

「そういう問題じゃない」

 対外的には「子供好きのアドルフおじさん」という側面を貫き通しているヒトラーだが、それもどこまで信用できるのか、と問われればそれはそれで疑わしい、とシェレンベルクは邪推した。

 子供ほど懐柔しやすいものはいない。

 スパイ活動も得てしてそうしたものだ。

 数年前のポーランド戦や、つい昨年まで行われた東部での戦争でも同じように子供が戦争の道具として扱われたことをシェレンベルクは知っている。

「とにかく、官邸からの動きが見え次第即座に動けるようにしておいてほしい」

「承知しました」

 カルテンブルンナーとの実りのない会話を終えようとしたシェレンベルクは、ふと自分の足に手を乗せたままでふたりの大人を交互に見つめている少女の眼差しに気がついた。

「……なんだ?」

「なんか、難しそうな顔をしてるって思っただけよ」

 青い瞳が、キラキラと光をたたえて興味深そうに青年を見つめていた。

「君が考えなしなだけだ」

「そんなことないわ、ちゃんと考えてるわよ」

「……ヒトラー総統をどうやって早起きさせるかとか?」

「そうよ……、あっ」

 簡単な誘導尋問に乗せられて、少女は自分の口を手のひらで覆って不満げに頬を膨らませる。

「なによ、意地悪だわ」

 ――でもね、わたしは”夜更かし”してるわけじゃないわ。

 寒くて起きれないだけよ。

 言い訳をするように付け足した彼女はいたずらでもする直前の子供のような笑顔になって、自分の唇の前に人差し指を立てた。

「寒くて起きれないのも問題だ。大して変わらん」

「大丈夫よ、わたしが”アドルフのおじさん”を起こしに行ったからって別になにがどうなるわけじゃないわ」

 クスクスと少女が笑う。

 ぽかりとそんな彼女の頭をもう一度叩いたシェレンベルクは、マリーの肩を引き寄せたままでソファから立ち上がった。

「本官は”要請があり次第”動けるように準備します。では、失礼いたします」

 カッと鋭く踵を鳴らしたシェレンベルクは、カルテンブルンナーの執務室を退室した。

 面倒なことになった。

 シェレンベルクは厳しい双眸でそう思った。未来予測はすでに彼がコントロールできる範疇を大きく超え始めている。それがひどく不愉快で、シェレンベルクは舌打ちを鳴らした。

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