8 波浪注意報
――”誰”かが、どこの誰とも知らぬ者から端を発しているだろう「狂気」をあおり立てている。
それはすでに狂気などと呼べる代物ではない。
まさしく国家そのものを巻き込んだ「発狂」だ。
政府首脳部のゲーリングやゲッベルス、あるいはリッベントロップが? いや、違う。
軍需省に詰めるアルベルト・シュペーアはじっと考え込んだ。誰かが糸を引いているのかとも考えるがそうではないだろう。
そもそも誰も糸など最初から引いていないのかも知れない。
ヒトラー派とも言える元人民法廷長官のローラント・フライスラーは精神に異常を来して、事実上失脚した。そして、かつてはルドルフ・ヘスの秘書を務めた野心に満ちた男、マルティン・ボルマンも連合軍との謀議の件で更迭された。
人間不信に半狂乱に陥ったアドルフ・ヒトラーはそれでもかろうじて理性を保つと、ボルマンをランツベルク刑務所に収容して一切の捜査をナチス親衛隊に委ねる形になった。もっともナチス親衛隊に全権を託するという判断に不信感を抱いたのは、クーデター疑惑をかけられた国防軍首脳部である。
元々、ドイツ国内が一枚岩とは言い難い状況であることはシュペーアにもわかっている。しかし、どうにもならないのだ。
とりとめもないことを考えるシュペーアは、電話のベルが鳴って現実に意識を引き戻された。ちらりと壁に掛けられた時計を流し見る。
時間はぴったりだ。
時間に正確なドイツの知識人らしい規律ある行動である。
「大臣自らご用事があると伺ったときは何の冗談かと思いましたが……」
「皮肉かな?」
「いえ」
片やはエリート建築家であり、片やはドイツきっての経済学者だ。どちらも共に年齢は余り変わらない。
ハイル・ヒトラーと敬礼をしてシュペーアの執務室に入ってきた男はフィールドグレーの制服を身につけている。
「オーレンドルフ中将はドイツ国内の事情に通じている。だから君に来てもらったのだ」
「……と、言いますと?」
相手の真意が読み切れずに呼び出される形になったオットー・オーレンドルフは、無表情なままぴくりと片方の眉毛をつり上げる。
「君はこの戦争のことをどう思っている」
「質問の意図を理解しかねます」
互いの年齢差はたった二年だ。
「中将の書く帝国だよりは実に興味深い。だが、自分自身に降りかかるかもしれない危険をわかっているのか?」
それほど年上とも言えない男からそう言われて、オーレンドルフは背中の後ろで腕を組んだまま睫を伏せる。
シュペーアの手元にはオーレンドルフが発行する帝国だよりがあった。
古参のナチス党員でありながら、オーレンドルフは現在のナチス党の多数派からは一線を引いていることをシュペーアは知っていた。もちろん多数派であると言うことが必ずしも世間的な意味で適当であるわけではない。そんなことはシュペーアにもわかっていたが、そうした発言を口にすることはやはり大きな危険を伴っていた。
ヒトラーは気まぐれだ。
国家元首の気まぐれで政策が左右されるようでは話にならないのだが、残念ながら現在のドイツはヒトラーの機嫌を損ねればお気に入りと言われるシュペーア自身とて命がないことはよくわかっている。
彼はヒトラーが政権の中枢を掌握するまでの期間を間近で見続けてきた。
「危険は承知です」
素っ気なくオーレンドルフは応じてから、シュペーアの薦めに従って広い執務室に据えられたソファに腰を下ろして足を組む。
相手は年齢もそれほど変わらない。だから遠慮は無用だ。
「わたしはすでにやりすぎて逮捕も経験していますからお気遣いは無用です」
「……なるほど」
ゆっくりと執務机から立ち上がると鼻から息を抜くと長い足を踏み出した。
目の前で片手を振って見せたオーレンドルフにシュペーアは低く笑うと、相手の向かいのソファに腰を下ろす。
「しかしわたし個人としては、中将のような優れた人材が無為に喪失されるようなことになるなら憂慮せざるをえん」
「ご心配なく、学生運動に精を出す連中とは違います。わたしもその辺りは心得ています」
夢見がちな子供たちとは異なり、彼も彼なりに人生の荒波に揉まれてきた。だから世間の厳しさはわかっているつもりだった。
「とはいえ、年寄り共から見れば我々のやっていることも児戯にも等しいのだろうが」
そう付け足して苦笑したシュペーアに、やはりオーレンドルフは眉ひとつ動かさない。シュペーアに言われるまでもなく、オーレンドルフにも政治とは古強者が跋扈する世界であることを知っていた。
「時代遅れの石頭共とはいえ、連中の”影響力”は見過ごすことができないのは言わずもがなだろう?」
「それで、大臣閣下はなにが知りたいので?」
素っ気なくオーレンドルフが切り込んだ。
「度重なる首脳部の失態に、ヒトラーさん……――。あぁ、いや、総統閣下が苛立っている。これ以上、首脳陣の信頼関係を損ねることは余り好ましいことではない」
同年代ということもあって砕けた物腰になるシュペーアに、オーレンドルフが首をすくめて見せた。古参の党員であるとは言え、オーレンドルフは諸手を挙げてナチス党のやり方に賛成しているわけではない。
「苛立っても事態が改善するわけでもないでしょう」
「それはそうなのだが」
鋭いオーレンドルフの指摘に、ソファの肘掛けに肘をついたシュペーアは大きな溜め息をついた。結局、シュペーアとオーレンドルフがどれほど国内情勢に憂いを抱いても、なにかが変わるわけでもない。
「帝国だよりに書いてあることが事実かどうかについては、わたしなどよりも総統閣下により近いあなた方がご存じなのではあるまいか?」
オーレンドルフの帝国だよりは、鋭く国内情勢を指摘したものだ。たとえば国内における世論であったり、経済状況だったりする。それらは、一部の閣僚にとっては本来余り目の当たりにしたくはないものだろう。
都合が悪い――、目を背けたくなる現実。
「ポーランドとの戦争がはじまってから何年たったと思っているのです」
「……それを言われると、わたしも返す言葉がないのだが
「戦争が長引けば、国内の産業と経済が消耗する。国内の経済が打撃を受ければ、国民の不満もたまっていく。後は負の連鎖が続いていくだけです」
政治家は個人として都合の悪い話から目を背けていれば良いが、下につく者たちはそうもいかないのだ。
「ふむ」
ナチス親衛隊の諜報部門を指揮する男の言葉に、シュペーアは一見しただけでは温厚そうにも見える瞳の奥に鋭い光を閃かせて、オーレンドルフの言葉に聞き入った。
国民に知られると都合の悪い真実を隠蔽する。
政治家が個人的に目の当たりにしたくない現実から視線を背ける。
結果的に生じるものは、政治的な硬直だけだ。
「……――」
シュペーアは黙り込むと口元を片手で覆って考え込んだ。
頭ではわかっているのだ。
このままではいけない。
「閣下は、軍需大臣として物事の本質をご理解されているはずです」
「……中将ほどではない」
来るべき、破滅の予感にシュペーアは思わず身震いして背筋を正す。
「わたしは予知能力者ではない」
表情をこわばらせたアルベルト・シュペーアはややしてから「わたしはしがない建築屋だ」と付け足した。
見たくもないものを見ようともしない。
見えているはずのものを否定しようとする。
誰も彼も、自分にとって心地よい響きだけを追い求めるのは国政を司る者にとってどれほど恥知らずなことだろう。
「わたしは予知能力者ではないから、軍需大臣とは言ってみてもただ偏った一側面からしか物事を垣間見ることはできはしない。中将のような”専門家”が未だにどうして国家保安本部に固執するのか、わたしには理解できないことだ」
経済の専門家。
「君は、国家保安本部の仕事を辞したいと願い出ていたのではないか?」
「状況とは変わるものです、閣下」
ソビエト連邦との戦争も終わり、現在は冬期のため状況は膠着している。しかし、東南アジア戦線で孤軍奮闘する同盟国の日本と、北アフリカ――エジプトの砂の大地で戦うロンメルのドイツ・アフリカ軍団にとって未だに状況は良好とは言えない。
「わたしは、”あの”ハイドリヒ大将に貴重な体験をさせてもらえました」
含みを持たせたオーレンドルフの言葉に、シュペーアは睫毛をしばたたかせる。
「”本当にあれが貴重な経験だと思っているのか”?」
やはり言葉を選ぶように告げたシュペーアは、軽くソファの肘掛けを人差し指で叩いてからオーレンドルフに視線をやる。
「わたしは、与えられた命令を遂行するだけです」
遠回しに応じたオーレンドルフが言明を避けるとシュペーアは目を伏せて、左手の人差し指で自分の下唇に触れた。
「閣下には、”理解できない”ことでしょう」
そんな言葉を返すオーレンドルフだが、シュペーアに対して怒りを感じているわけでもないし、無神経であると咎めるつもりもない。
閣僚であるシュペーアが理解する必要のないことで、人にはそれぞれの役割が存在している。だから、オーレンドルフは自分の心をすり減らすことも承知の上で東部戦線で与えられた任務に冷徹な心で真正面から望み続けた。
「わたしが逃げ出したところでどうなるというのです」
「それは責任感からかね?」
「もちろんです」
問いかけられて即答したオーレンドルフは、足を組み直してから若い軍需大臣を見つめ返す。
「案外敵は近くにいるものですから、お気をつけください」
「ボルマンとか?」
「……その質問にはお答えいたしかねます」
軽口は慎むべきだ。
ハイドリヒの指揮下でオーレンドルフは肝に銘じた。
「確かに、”敵”は多い。わたしも寝首を掻かれないように気をつけなければ」
小さくそうつぶやいたシュペーアと、腹の探り合いにも似た不毛な会話を終えて、昼過ぎにオーレンドルフがプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ってみれば、青年が言葉を失ってもおかしくはない事態が発生していて、余りにも大胆すぎる行動に文字通り呆然としたのだった。
国家保安本部のエントランスでヒステリックな声を上げて怒鳴り散らしているヒムラーは真っ青な顔のまま、過呼吸を起こしてその場にへたりこむとそのまま腰を抜かしたようだ。
「どうして止めなかった!」
そう聞こえた。
すぐにエルンスト・カルテンブルンナーの指示でヒムラーは別室へと運ばれていったので、その台詞だけがオーレンドルフに聞こえたのだが、親衛隊長官の尋常ならざる様子に、すぐにただならぬ事が起こったのだろうと言うことは察しが付いた。
もっとも、さすがにその辺にいる捜査官から噂話を聞けるような立場でもないから、オーレンドルフは一度、自分の執務室へと引き返すとそのまま机について内線電話の受話器を取りあげた。
もちろん電話の相手はカルテンブルンナーだったのだが、ヒムラーの世話でもしているのかつながらない。おそらく執務室は無人なのだろう。
「さて誰が事態の成り行きを知っているのやら」
どうせヒムラーが叫び出すような突飛な行動をしでかすのは何人もいないのだが、それでも今の今までヒムラーが国家保安本部の入り口で叫び散らしていたところを考えれば、事態を正確に把握している者は限られているだろう。
「なにがあった?」
とりあえず秘書が代用コーヒーを煎れてきたところに問いかけると、国家保安本部の情報部員が単身ヒトラーの総統官邸に行ってしまったらしいということだった。
「……――マリーか?」
「そのようです」
「なるほど、それで」
秘書の話によるとマリーが登庁して、国家保安本部を出たのは午後十時頃だったらしい。
護衛のナウヨックスだけをつれて、茶色の品の良いコートをひらめかせて公用のベンツに乗るところは見たという。
行き先が首相官邸で、それがヒムラーに伝わり慌てふためいて国家保安本部を訪れたのが今さっきと言ったところらしかった。
「別にマリーが総統のところにたまに顔を出しているのは今にはじまったことではないから、気にすることもなかろう」
なにもヒムラーが赤くなったり青くなったりしてヒステリーを起こすほどの事件ではない。というのがオーレンドルフの見解だった。




