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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IV 神の炎
34/410

9 革命前夜

 この頃、コーカサス方面に進撃するドイツ軍に対して「協戦」を求めたのが、ソ連の反乱軍だ。

 マルキアン・ポポフの指揮下、コーカサスの油田地帯に派遣された機械化部隊は後方からソ連正規軍の後背に回り込んだ。

 軍事クーデターを引き起こしたクズネツォフらの申し出を分析した陸軍参謀本部はこの申し出を受け入れ”卑劣な”赤軍を相手に水面下で共闘を宣言した。この取引の材料として使われたのがコーカサスの油田地帯で、進軍の遅れていたドイツA軍集団の遅れを取り戻すために、赤軍の背後から一撃を加えてコーカサスの油田地帯を迅速に確保、ドイツ軍に引き渡しを行うという秘密協定が結ばれた。

 彼らは味方を装いソ連赤軍を攪乱し、混乱に陥れる。さらに油断したところを内側から突き崩し、ドイツ軍の目的である油田地帯を確保する。それがマルキアン・ポポフに与えられた任務である。

 一方、政治的指導者として擁立されたニキータ・フルシチョフは、いずれ訪れるだろうドイツ第三帝国との講和を見据えて、反乱軍指揮官たちの戦後の身の安全を強く求めてきた。

 ドイツ軍、そして反スターリン軍にしたところで、互いを信用して共闘するということは諸刃の剣だ。

 いつ相手に寝首をかかれるかわからない。

 そう言った種の危険性を孕んでいる。

 ドイツとソ連の和平を求めたニキータ・フルシチョフに対して激怒したのは言うまでもなくヨシフ・スターリンだが、すでに戦線において将兵たちを監視する内務人民委員部は反乱軍の手に落ちており、一部の秘密工作員、諜報員たちも政治的な取引などによって、ニキータ・フルシチョフ率いる新政権に鞍替えをしているという状況になっていた。

「承知しました」

 ひとりの男がフュードル・クズネツォフとニキータ・フルシチョフを前にして厳しい眼差しのままでそう言った。

「危険な任務になる」

「了解しております。わたしの母は、スターリンによって国家反逆罪を負わされ強制収容所の過酷な労働のせいで死にました。閣下が新たな世界を作り出してくださるということでしたら、我々はソ連赤軍の兵士としてお力になれればと思います」

 クズネツォフやフルシチョフがソビエト連邦を裏切ったのではない。

 ヨシフ・スターリンがソビエト連邦という栄えある崇高な国家を汚したのだ。

「頼む」

 スターリングラード。

 その街に暮らす住人たちに被害が少ないうちに。

 そうフルシチョフは決断した。

「ですが、ドイツが約束を守るとは思えませんが……」

 そう言った彼に、フルシチョフは考え込むような表情のまま沈痛な面もちになった。

「わたしもそれを心配している」

 ヨシフ・スターリンにしろ、アドルフ・ヒトラーにしろ同じ穴の狢なのではないか。

 しかしそれでも今スターリンにこのまま従っていれば、傷は大きくなるばかりだ。重大な決断に迫られていることに、フルシチョフは戦慄する。

「だが、どうかわたしを信じてほしい。わたしはスターリンとは違う。ソ連の人民のために命を懸けるつもりでこの陣営に加わったのだ」

 スターリンの行う粛正を見逃してはならない。ただ、脅威になるかもしれないという理由だけでは、ドイツのアドルフ・ヒトラーでさえ殺害はしないと言うではないか……っ!

「ご安心ください。わたしも、閣下を信じてこの仕事を引き受けさせていただくのです。ですから、どうぞ朗報をお待ちください」

 そう告げると敬礼をして、男はフルシチョフとクズネツォフの前を辞した。

「……強制収容所(ラーゲリ)、か」

 反乱軍に加わっている将校たちの一部はやはり、スターリンによって強制収容所に送られかけた者が多くいた。

 多くの者がさらなる粛正を恐れて声を上げることもできなかった。しかし、三人の将軍たちが自分の部下たちを率いてスターリンに対する造反を決意したとき大きく状況は変わることになった。

 彼らの思いは多くの同じ境遇の将兵たちや、民間人たちを飲み込んでやがてさざ波でしかなかったそれは、巨大な津波となるのだ。

「君は、わたしがスターリンと通じている、とは考えないのか?」

 自分とあまり年齢の変わらない軍人に対して問いかけたニキータ・フルシチョフにフュードル・クズネツォフは苦笑する。

「あなたは確かに一九三九年の時にスターリンをたたえる演説をされています。しかし、わたしはそれが決してあなたの本心だと思ってはいません」

 フルシチョフ同志。

 その言葉に、今度はフルシチョフが悲しげに笑った。

「同志、か……」

 どこかもの悲しげな彼の瞳は、じっと窓の外を見つめている。

「わたしたちはどこでなにを間違ったのだろうな」

 ただ、国の繁栄を願っただけなのだ。

 この、北の大地の健やかな強さと、しなやかな美しさを守りたかった。たったそれだけの願いだったというのに、自分たちはどこかで道を間違えてしまった。

 もしもその道を戻ることができるのならば、いっそ戻ってやり直したいとすら思う。

「まだ間に合います。我々はそれに気がついたからこそ立ち上がる事ができたのですから、フルシチョフ同志」

「その呼び方はやめてくれたまえ、虫酸(むしず)が走る……」

 そう言った彼に、クズネツォフはかすかに笑った。

 世間には世紀の犯罪者であるヨシフ・スターリンを恐れて立ち上がる事すらできない者もいる。彼らに勇気を与え、そうして立ち上がる力を奮い立たせるには、力を持つ者が立ち上がらなければならない。

 もしも自分たちがスターリン一派に負けることになれば、それこそ想像を絶す粛正が待っているのだろう。

 しかし、それでもソビエト連邦に暮らす一億七千万人の国民のことを思えば、立ち上がらずにはいられない。

 自分たちが縮こまっていたら、いったい誰が国内で最も権力を握る最悪の犯罪者を正すのだ。最高権力者が道を間違ったときに、それを正すことこそ自分達の職務と義務なのだ。

「しかし、正統な政府など陳腐な言葉だ」

「えぇ、そんなくだらない言葉遊びは必要ありません、閣下」

「……そうだ。ヨシフ・スターリンは犯罪者だ」

 現在、内務人民委員部(NKVD)の政治将校や諜報部員たちも多く、革命派に賛同している。

 彼らこそ国の内情を知っている者たちだった。

 そして知っているからこそ、フルシチョフを擁立する反スターリン派に荷担したのである。彼らは、次は我が身だという恐怖を常に抱えている。

「しかし、国際社会が認めるでしょうか……」

「くだらん問題だ。我々は現在の政権を批難しているだけで、ソビエト連邦という国を批判しているわけではない。要するに、現在の状況は国内の政治的な問題だ。新しい国を打ち立てようとしているわけでもあるまい」

 言い放つフルシチョフに、クズネツォフは目を伏せた。

「今後のことはともかく、今はスターリンとその子飼いを一掃することに集中するべきだ」

 ニキータ・フルシチョフの言葉に、クズネツォフは頷いて息を吐き出した。

 現在機械化部隊を伴って、マルキアン・ポポフがコーカサス地方へと進軍している。一方でドミトリー・パブロフ率いる部隊はウクライナの工業地帯を目指して進撃していた。軍需工場を押さえ、赤軍の増強を防ぎ自らの軍を強化するためだ。

 現在、モスクワの内務人民委員部を制圧したことにより、赤軍に対する監視、情報統制の体制は大きく揺らぎはじめている。

 そこに大きな隙が生まれていた。

「スターリングラード方面はロコソフスキー中将の部隊に任せよう」

 コンスタンチン・ロコソフスキーの率いる部隊は、強力な主力部隊のひとつだった。ロコソフスキーがスターリンに反旗を翻したことによって、一部混乱も発生したものの、ほとんど離脱することなく六個軍と、二個戦車軍、さらに二個の航空軍を保有している。

「ロコソフスキーの司令部では一部流血沙汰もあったそうですが……」

 クズネツォフの言葉にフルシチョフが肩をすくめる。

「やむを得ないだろう、誰だってスターリンは恐ろしい。次に殺されるのは自分かもしれないと恐れているんだからな。だが、それでも尚、痛みを伴うとわかっていて、ロコソフスキーが我々に合流してくれたのはありがたい話しだ」

「全くです」

「しかし、相手はあのジューコフだ。油断はならんぞ」

「わかっています」

 ゲオルギー・ジューコフ。

 彼は典型的な赤軍将校だ。そして、彼こそヨシフ・スターリンの手足として相応しい男だとも言える。

 冷酷で、非情。

 自軍の死傷者がどれほど膨大であっても顔色一つ変えない男。

 そんなところがクズネツォフにとっては余り好ましいとは言い難い。

 ジューコフの顔を思い出したクズネツォフはむっつりと考え込んだまま、溜め息をつくと立ち上がった。

「我々にはまだ仲間が少ない。気が抜くことはできないが、スターリンを失脚させることができればな、また未来は変わってくるかもしれん」

 そんなクズネツォフの背中に語りかけたフルシチョフだった。



  *

 プラハを訪れたヴァルター・シェレンベルクとマリア・ハイドリヒ。そして護衛の任務に就く数人のゲシュタポは、クルト・ダリューゲのオフィスを訪れる。

「久しぶりだな、シェレンベルク大佐」

「お久しぶりです、ダリューゲ上級大将閣下」

 型どおりの敬礼に、型どおりの挨拶を交わしてシェレンベルクは目の前のどこか丸みを帯びた男の顔を見つめた。

 剣もない笑顔でも浮かべていれば、人好きもするのだろうがどこか権力に取り憑かれた粗暴さを感じさせるダリューゲは、まるでしつけをされていない野犬を思わせる。

「どれくらい振りになる?」

「そうですね、プラハには所用で何度か来ておりましたが、総督府にくるのは前国家保安本部長官の暗殺事件の捜査のとき以来になります」

 柔らかいシェレンベルクの物言いは、注意深く聞いていなければ錯覚してしまいそうになるだろう。

「今日はどうしたんだね?」

 大きな手のひらで肩をたたかれて、シェレンベルクはちらと視線を自分の背後に放った。

 きょろきょろと辺りを見回しているギンガムチェックのジャンパースカートにブラウスという清楚な出で立ちの娘は、いつものように腕章と鷲章のスカーフピンを留めている。

「フランク中将に依頼していたハイドリヒ大将の捜査記録の最終報告を受け取りに参りました」

「そうか……、あの男はどうも信用がおけないからな」

 ぽつりとつぶやいたクルト・ダリューゲに、シェレンベルクは表情をあまり変えない眼差しを投げかけてから相手の言葉の続きを待った。

「ところで、後ろの変わったご令嬢は?」

 もしかして新しい愛人か? そう尋ねられて、シェレンベルクは笑い声を上げた。女にはだらしない自覚があるもののさすがに乳臭い子供に欲情するほど見境がないわけではない。

「いえ、彼女は国家保安本部(RSHA)六局の諜報部員です。まだ若く経験が不足しているので社会勉強がてら、今回はわたしの仕事に補佐官として連れてきております」

「なるほど。貴官がそこまで特別扱いするということは、それなりに将来有望だということか?」

「そうなります」

 目の前にクルト・ダリューゲ親衛隊上級大将がいるというのに、物怖じもせずに辺りを見渡している金色の髪の少女に、隣で顔色を変えているのはアルフレート・ナウヨックスだった。

 こつり、とダリューゲのブーツの踵が鳴った。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)!」

 ナウヨックスの声に、やっとマリア・ハイドリヒ――マリーはダリューゲが自分に歩み寄ってくることに気がついたらしい。

 声こそ上げないが、ナチス式の敬礼をした少女と、その傍らにいるナウヨックスに対して敬礼を返したダリューゲはまじまじと少女を見つめた。

 ベルベットの腕章には、SD章と親衛隊司令部所属のカフタイトル。そして最近やっと縫い付けられた階級章があった。

「……その歳で親衛隊全国指導者個人幕僚部所属か」

 言いながらダリューゲが少女の上腕を強く掴んで引き上げた。

 腕章をつけた右腕が上げられた。

「……いたっ」

 悲鳴らしい声を上げた彼女に、シェレンベルクが片目を細める。

「閣下、彼女はあまり体が丈夫ではありませんので、乱暴はご勘弁ください」

 言いながらふたりの間に割って入って、シェレンベルクはダリューゲの手首を軽く掴む。無礼だとはわかっていたが、その程度でシェレンベルクを咎めるほどダリューゲは馬鹿ではない。

「あぁ、これはすまないな」

 言ってからダリューゲが手を離すと、マリーはほっと息をついた。

「もっとボリュームがあるかと思ったら、思ったより華奢でこちらが驚いた」

 よくもこんな少女が親衛隊情報部の将校として抜擢されたものだ。そう続けるダリューゲにマリーは、いつもと変わらない笑顔で乱れた前髪を指先で直す。

「女性に対してそういった言い方はデリカシーが足りないと思われますよ、閣下」

 軽口をたたくようなシェレンベルクに、ダリューゲは肩をすくめてみせた。

「俺は元々デリカシーに欠けるからな、そんなもん期待されても困る」

「捜査記録の件ですが、フランク中将のところへ伺って受け取ってからベルリンへ帰らせていただきます」

 話題を切り替えた青年に、ダリューゲが「フランクに連絡をいれておいてやろう」と言いながら頷いた。

 三二歳のシェレンベルクと、三一歳のナウヨックス。そして十六歳のマリーというどこか異質な国家保安本部のSDたちはひどく人目を引くが、六局の局長であるシェレンベルクはあまりそれに対して気を遣っている様子もない。

 ナウヨックスは高官ではないから、自分をおまけ程度にしか感じていないが、はたしてマリーはどうなのだろう。

 シェレンベルクの後ろ、ナウヨックスの前を駆け足気味に歩きながら不意に少女はシェレンベルクの袖を小さく掴んで引き留めた。

「どうした?」

 振り返るとマリーは少しだけむくれたような顔をする。

「早くてついていけません」

 シェレンベルクはそれほど大柄なほうではないが、小柄なマリーからしてみれば歩幅が違う。彼が普通に歩いているつもりでも、マリーにとっては早いのだ。

「あぁ、それはすまない」

 歩くペースを落とした彼に、笑顔に戻ったマリーは周りを見回す余裕ができたらしい。

 総督府の建物を眺めながら、マリーはじっと考え込むように青い瞳をまたたかせていた。そして、彼らの一番最後を歩くナウヨックスは興味深げな眼差しをマリーに向けている。そんなナウヨックスの様子が少し意外でシェレンベルクは無意識に自分の顎を撫でた。

 ”彼”はなにを考えているのだろう、と。

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