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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXV 神の怒り
339/410

7 険しい道程

 冬になって寒さのためか定時の出勤に遅れることが度々ある。

 憮然として主張したヴェルナー・ベストに、マリーの自宅の両隣に住み込んでいる捜査官を指揮する国家秘密警察(ゲシュタポ)局長のミュラーは、そんな元人事局長の訴えに「はて」と小首を傾げた。

 確かに二月のベルリンの寒さは底冷えがする。街中では時折凍死体も転がっているような有様だ。そんな陽気だったから、マリーが朝を起きれなくても仕方がないのではなかろうか。

「では、彼女の出勤時間を二時間ほど遅くしてやったらどうだ?」

 どうせ仕事のほとんどは、ベストとヨスト、そしてメールホルンがやっているようなものなのだから。実際、彼女が入院していても仕事は恙なく進行していたではないか。

 ベストの主張ももっともだが、正直なところを考えれば「今さらのこと」としか感じられない。

「マリーがいなくても君らがいるのだから問題なかろう」

「そう言う問題ではない」

 ヴェルナー・ベストにとってマリーは部署長だ。彼女がいなくても仕事の進行に差し障りがないからそこにいなくてもいいという話ではない。

「それもそうだが、”だから”マリーの出勤時刻にゲシュタポが合わせて迎えに行けというのは妙な話だろう。だいたい、迎えに行ったところでその分だと起きているかも怪しそうじゃないか」

 ミュラーの指摘も的を射ている。

「そう考えると、男がマリーの寝室に入るわけだろう?」

 それもそれで心配だ。

 ミュラーは普段こそ能面のような顔に、わずかばかりの気遣いの色彩を滲ませてから、忙しなく指先で執務机を叩きながら考え込んだ。

 彼の内心の心配が手に取るようだ。

「彼女の護衛にと選抜したエリートなのだろう、その程度の分別もわきまえられないほど幼稚なのか」

 つっけんどんに批難するベストに、「いや、しかし」とぶつぶつと口の中で何度も言葉を繰り返してからうなり声を上げると黙り込む。

 確かにマリーの護衛のために選抜したエリート中のエリートで、家柄、血筋、体格、知性と運動能力を含めた全てが標準以上だ。だが、あくまでも彼らは「男」であるということが、ミュラーには引っかかった。

「マイジンガーに迎えに行かせたらどうだ?」

 あの男はマリーのことが余程気に入っているらしいから、喜んで毎日でも迎えに行くだろう。

「マイジンガーがいないときはどうする」

「そんなこと俺に言われてもな」

 ベストの渋面にミュラーは肩をすくめた。

「まぁ、他でもないベスト中将の頼みだから、善処しよう」

「ありがたい」

 口ではなんだかんだと言いつつもベストの申し出を快諾したミュラーに、一方のヴェルナー・ベストもゲシュタポの長官にマイジンガーの勤務とマリーの送迎の件について調整を行うと言うことで話は付いた。

 困惑した顔をしてみたところで、ミュラーとしてはマリーの役に立てることが内心では嬉しくてたまらない。直属の上官であるシェレンベルクはなにかにつけて構うこともできるだろうが、部署の異なるミュラーではそう簡単な話ではない。

「とりあえず、ベスト中将。マリーによろしくと伝えてくれ」

 軽く肩の辺りに片手を上げたハインリヒ・ミュラーにベストは無言で頷いた。

「承知した」

 法の番人――。

 自らをそう自称するヴェルナー・ベストは、亡きラインハルト・ハイドリヒに言わせてみれば旧世代の役人でしかないのかもしれない。しかし、(ベスト)はそれでも尚、法の番人であろうとする。

 たとえハイドリヒのような人間に忌み嫌われたとしても。言ってみればハイドリヒとベストは同じ国家保安本部の屋台骨を支えた人間とは言ってみても、水と油だ。

 そしてそんなハイドリヒに嫌われていたベストが、学識もない少女の指揮下につくのはいったいどんな気持ちなのだろう。

「では、失礼する」

 手短に用件だけを告げて踵を返した階級も同じ親衛隊高級指導者に、ミュラーは数秒ためらってから改めて口を開いた。

「ベスト中将」

「む……?」

 すでにミュラーの執務室から出て行こうとしていた法律家は、その足を止める。

「……あぁ、いや。なんでもない」

「そうか」

 なんでもないと言われて、特にミュラーを追及する素振りも見せないベストは、小さく靴音を立てて出て行った。

「大目に見てやれば良いだろうに」

 ベストが部屋を出て行ったのを確認してミュラーはぼそりと独白した。

 マリーの体の弱さは、ミュラーもよく知っている。

 腹部に大けがを負って、死にかけていた時に彼は少女と出会った。

 青白い顔をした病的な少女。金色の髪は、だけれども木漏れ日にキラキラと光を放っていて、そんな儚さにハインリヒ・ミュラーは惹きつけられた。

 そしてミュラーだけではない。彼女の傍で、誰よりも彼女を見守っているだろうベストは、きっと彼女の弱さをミュラーなどよりもよく知っている。

 厳しく、紳士的で。しかし、内面に腹黒さにも似た国家保安本部の情報将校として、あるいはかつてのハイドリヒの法律顧問として辣腕を振るったベストの鋭い観察眼を、ミュラーにはわかっているはずだった。けれどもそんな素振りをかけらも見せることはせずにベストはナチス親衛隊の法律家としての仮面をその顔に張り付ける。

「まぁ、ベスト中将では無理だろうな」

 苦笑した。

 ひどい石頭にも程があるが、それがベストの良さでもあった。

 いずれにしろ、マリーにはベストの画策などどこ吹く風といったところには違いない。彼女は、そんな大人たちの「陰謀」に頭を悩ませるような性格ではない。

 まるで初夏のそよ風か、春先の午後の日差しのように朗らかな彼女。

 それはくたびれた大人たちが失って久しい子供の資質。

 時折、出現する早熟な子供は希有な存在だ。たとえばオットー・オーレンドルフや、ソフィア・マグダレーナ・ショルのように。マリーはそんな子供ではない。だから早熟というわけではなく、子供ながらの別の観点から物事を見極める。

 マリーを囲む大人たちは多い。その多くが知識人と呼べる人間で、一介のミュンヘン警察の捜査官上がりのミュラーなど足元にも及ばない。それを理解しているから、自分の置かれた状況に鼻も高くなると言うものだ。

 彼女は知識人たちなどではなく、その辺のどこにでもいる「おじさん」でしかない自分に笑顔を向けてくれたのだ。

 ――そう、誰よりも早く。

「まぁ、問題はマリーにとって誰が一番大切か、ということだが」

 そんなことを考えても仕方ないし、彼女自身に強いて聞いてみるのもなんだか恐ろしい。みんなと同じくらい、と言われるのも恐いが、ろくでもない人間よりも下であると格付けされるのも恐ろしい。

 世の中には聞かないほうが幸せなこともある。

 そういうことだ。

 とはいえ、国家保安本部長官のカルテンブルンナーでもあるまいし、警察官僚であるミュラーには少女のことを考えて鼻の下を伸ばしているような時間はない。

 昨年末に舞い込んだ外務省による反ドイツ派に対する捜査も思うように進まないことがミュラーを苛つかせる。

 現在、国家保安本部は各々の部署でそれぞれが別々の問題に取り組んでいる。特にミュラーとネーベのゲシュタポとクリポが担う問題は極めて広範囲にわたり、極めて根が深い。現状の少数精鋭とはいえ、一部の知識人たちは行動部隊の一員として占領地で活動していた。その状況は、貴重な人員の損失に他ならないのではないか。

 ミュラーはシェレンベルク同様、出動任務に関わることはいられずにすんだが、それでもゲシュタポの指揮官として、優秀な部下たちが戦場に駆り出されるということは、自分の手足をもぎ取られることにほかならないのだ。

 大きくため息を吐き出すと、ミュラーはベストの来訪に机の隅に追いやっていたファイルを手にして立ち上がった。

 自分にやるべきことをやらなければならない。

 もちろん自分の権力拡大がなによりの問題だが、それには責務を成し遂げることが要求される。

 組織とは得てしてそういうものだ。

 時刻は午後二時。

 ドイツ人らしく、彼は意識を切り替えた。

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部の長い廊下を歩いて、ミュラーはカルテンブルンナーの執務室へと向かった。

 いかに現実逃避したくても、彼はゲシュタポの長官としてやらなければならないことはたくさんあるのだ。

 一方、その頃、秩序警察本部で長官としてクルト・ダリューゲの後任を任されることになったアルフレート・ベルンハルト・ユリウス・エルンスト・ヴェンネンベルク親衛隊大将は頭を抱えていた。

 ラインハルト・ハイドリヒと犬猿の仲だったクルト・ダリューゲの置き土産は余りにも大きすぎる。

 ダリューゲが死んだ今だからこそ、問題点の洗い出しに集注することができたが、それにしたところで……――。

「こんなもんが今さらどうなるっていうんだ」

 すでに剥奪されたと呼ぶに相応しい警察権力。

 秩序警察(彼ら)が持ちうるのは、事件を捜査するために手助けになるようなことでもなく、ただ刑事警察や国家秘密警察の後始末か、せいぜい、窃盗や街中の死人の後片付けくらいだ。

 これが警察とはよく言ったものだ……!

 要するに、クルト・ダリューゲは強大な権力を持っていたように見えて、すでにラインハルト・ハイドリヒとの政争に敗残していたのである。

 ”今”から、秩序警察(オルポ)を立て直すとなると随分と骨が折れる。

 武装親衛隊師団を率いていたヴェンネンベルクにしてみれば、気にかかる事はそればかりではないが、それにしたところで、抜本的な見直しをしないことには事態は解決しないだろうと言うことは理解できた。

 そもそも、警察犬部隊の指揮官には荷が重すぎるのではなかろうか?

 ちらりとヴェンネンベルクは自虐的なことを考えてから、そんな思考事態を振り払うように軽く左右にかぶりを振った。

 考え込んでも埒があきそうにない問題を試行錯誤することを諦めて、アルフレート・ヴェンネンベルクは眉間にしわを刻んだままで鼻から息を吸い込むと夕暮れ時のベルリンの街を窓際に見やる。

「”彼女”には謝罪に行くべきなのだろうな」

 見て見ぬ振りをするというのは同義に外れているし、なによりあまりにも紳士的とは言い難い。

 しかし、季節柄、花束を作れるほどの花があるわけでもなく、手土産に悩んでいると、先ほどまで考えていた政争のかかずらいが馬鹿げたものであるようにも思えてくるから不思議なものだ。

 馬鹿げているといえば、どちらも似たようなものだが、後者のほうが解決策があるだけまだ建設的と言えるだろう。

 とりあえず、一旦、自宅へ戻ることを考えて、ヴェンネンベルクは秘書にやり残している仕事がないかを確認するとコートと制帽を手に取った。

 ――女の子への贈り物(プレゼント)は妻にでも相談すれば良いだろう。

 そんなわけで自宅へ早めに戻ったヴェンネンベルクは、妻に「あら、今日は早かったんですね」と声を掛けられて肩をすくめた。

 刑事警察局長に任命されてから失態続きで良いことがなにひとつない。

 思わずそう愚痴を言いそうになって、彼はわざと不機嫌な様子で唇を引き結んだ。

 仕事上の愚痴など、家族――特に内容が内容だけに、女性に明かすべきものではない。「どうしたんですの?」

 穏やかに問いかけられて、ヴェンネンベルクは眉尻を下げる。

「なんでもないよ、思わず仕事のことをぼやきたくなっただけだ」

「そうですか……」

 苦笑した彼女はそれ以上なにも追及せずにヴェンネンベルクの頬に口づけると、ひらりと体を翻す。

「でも、本当にベルリンにお戻りになられて良かったですわ。戦場での行動はそれなりに体力を消耗しますでしょう?」

 妻なりの気遣いにヴェンネンベルクは押し黙るとコートと制服の上着を片手にして背中を向けた彼女を見やって頬を緩めた。

「すぐにコーヒーでもいれますから、待っていてください」

 代用コーヒーですけれどね。

 クスクスと妻が笑って、そんな彼女に癒された。

「……わたしは、君を失望させたりなどしない」

 小さく呟いた彼に妻が肩越しに振り返る。

「え? なんですか?」

「なんでもないよ」

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