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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXV 神の怒り
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6 行く道

 国防軍情報部長官、ヴィルヘルム・カナリスを通した要請を受けて、国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーは、しかめ面のままで通達を受けた。

「”また”国防軍情報部(アプヴェーア)か」

 ともすればマリーに余分なことを吹き込むのではないかと、カルテンブルンナーは気を揉んでいる。カナリスの思惑はともかくとして、そんなことを考えてしまうほど国防軍情報部の国家保安本部に対する接触は頻度を増していた。

「おはようございます」

 マリーがカルテンブルンナーの呼び出しを受けて、豪勢な長官執務室へとひょこりと金色の頭を覗かせた。勝手知ったるとはよく言ったもので、副官が応答する前に、不作法もそのままと言った様子で執務机の前に置かれた来客用の椅子へと腰を下ろした。

「あぁ、おはよう、マリー。体調はどうだね?」

「別になんともないわ」

「そうか、それは大変結構だ」

 にっこりと笑ってから視線だけを上げたカルテンブルンナーは、片手を振って副官の青年を執務室から追い出した。

 うっかりだらしなく鼻の下を伸ばしかけた顔をわざとらしく引き締める。

 マリー以外には見せたくない種の顔つきなのだろう。もっとも、マリーはそんなカルテンブルンナーの様子など知ったことではないとでもいう調子で、天井を、見上げてから自分の唇を人差し指で押さえてカルテンブルンナーの言葉を待っていた。

「君に仕事だ、マリー」

 手書きの書類のはさまったファイルを彼女の目の前に、滑らせるようにして差しだしたカルテンブルンナーに少女は「SS」と印刷された表紙を凝視してからそっと右手を伸ばした。

「そういえば、食事はちゃんとしているのかね? 体力をつけなければ冬を乗り切れないぞ」

「たまにベックさんとグデーリアン上級大将のところでご飯食べているの」

「……そうか」

 ピントのずれた彼女の回答を受けて、カルテンブルンナーは少しばかり面食らった。

 いつも国防軍、国防軍!

 彼女をかわいがるのは常識的にやむを得ないことだとしても、どうして毎回のように当たり前のようにマリーの前に国防軍がのさばっているのか……!

 どこからどう見ても偏見と私情にまみれた考えを巡らせながら、カルテンブルンナーはマリーに対してではなく目の前にはいない国防軍に対して苛立ちを募らせる。もちろんマリーの前だったからそうした感情はおくびにも出さないが、カルテンブルンナーの考えていることを透視できる者がいれば「少し考えなくても大人げないだろう」と思ったかもしれない。

 それでも尚、マリーの前では――少なくとも外見上は――平静さを装っていたのは、男としての自尊心故だったのかもしれない。

「ど、どうだろう……。今度、食事なら妻が準備したもので良ければご馳走しよう」

 そんな幼稚な嫉妬心を抱きつつ、カルテンブルンナーがしばらく考え込んだ末に、マリーに提案してみれば、彼女は椅子に座ったままで両手を上げて大喜びした。

 彼女はもともと料理が得意なほうではない。

 十六年も施設で育てられたのであればそれもやむを得ない。

 恋は盲目、とでも言えばいいのか、カルテンブルンナーはマリーの出自に同情的なものを感じつつ、控えめな彼の提案を素直に喜んでいる彼女にやっと胸をなで下ろすと微笑した。

 ナチス親衛隊の隊員としてそれなりに高い立場にありながら、なぜだかマリーにがっかりした顔をされると思うのは心が締め付けられるものがある。できれば、自分の提案に心から喜んでもらいたいし、肯定してもらいたい。

 彼女に喜ばれたい――。

 自分の持つ権力で他者を屈服させることは、今のカルテンブルンナーには簡単なことだった。けれども、マリー相手にそんな強引な力業をしたくはなかった。

 他の人間であれば、女子供であれ、年寄りであれ、泣こうがわめこうが知った事ではないとすら思うのに。マリーには、否定されたくないと思ってしまうのだ。

 カルテンブルンナーは自分勝手なことを考えている自覚をしていた。

 冷徹で、権力者のおべっか使いのカルテンブルンナー。自分が権力を握ること以外に感心のなかった男は、初めて少女に対してだけ心を開いた。

 緊張しきって引きつっていた頬の筋肉をやっと緩めたカルテンブルンナーは、椅子の背中に体を預けた砕けた表情のままで少女の指先にあるファイルに顎をしゃくる。

「君は”もてもて”だな」

「そうなんですか?」

「わたしが君と同じくらいの年齢で、恋人もいなければ君に恋することは約束できるね」

 国防軍からの通達は、国防軍情報部第二課の課長――エルウィン・フォン・ラホウゼン陸軍少将の来訪を告げるものだ。

 少しどころではなく世間ずれしている彼女に注がれる視線は、好奇心に満ちたものだ。

 ヒムラーもとうとう焼きが回った。

 そうした国防軍の懐疑的な見解に、少なくとも親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーは表だって意見はしないまま口を噤んでいる。

 ヒムラーもヒムラーなりに、ナチス親衛隊の内情を公式に発表する危険性をわかっているのだろう。だから、ヒムラーは好奇に満ちた眼差しを向けられながら、あるいは、国内諜報分野からの詮索を受けながら沈黙を続けている。

 内心は忌々しいものもあるのかもしれない。

親衛隊長官閣下ライヒスヒューラーエスエスは、非力なマリーを権力を誇示するための宣伝塔にすることについては大変否定的だ」

 というのがヒムラーの側近とも呼ばれるカール・ゲープハルトの言葉だった。

 ヒムラーとゲープハルトの見解がどうかはともかくとして、彼女を公的に宣伝の支柱にすると言うことは危険極まりないことだった。

 間抜けなヒムラーもたまには正常(まとも)なことを考えるものだ、とカルテンブルンナーは思ったが、口には出さない。

「国防軍情報部のラホウゼン少将が、君と話をしたいそうだ。先日、レーダー元帥とカイテル元帥の話し合いの席に同席していたことについて」

「……話し合い、ですか?」

 真面目な顔でカルテンブルンナーに言われてマリーは天井を見上げると、両手で口元をおおってからなにやら神妙な顔つきになった。

 こんな表情がいちいち、くるくると変わるところがまたかわいらしい。親馬鹿なことを思いながらカルテンブルンナーはマリーの言葉を待っている。

「わたし、途中で寝ちゃったからどんな話をしていたかあんまり覚えてないんですけど」

 ちなみに彼女が人の話を聞いていないことなどいつものことだから、カルテンブルンナーも動じない。

「それでいいのだ、君が知っている事を話してくれればいいらしい。あぁ、それと正式な命令だが、報告書はいらない。わたしは君を信頼している」

 素晴らしく私情を持ち込んだカルテンブルンナーの発言を耳にしたのが、ブルーノ・シュトレッケンバッハやヴェルナー・ベスト辺りであれば、「仕事の手順を無闇に省略すべきではない」と顔をしかめたに違いない。

「それにいちいち、そのような些細なことで報告書を書くだけ時間の無駄だ」

 もっともらしい理由を付け加えて肩をすくめたカルテンブルンナーは、気取った所作で腕時計の針を確認すると椅子から立ち上がって長針を屈めるとマリーにほほえんだ。

「余り長話をしていると、ベスト中将辺りが眉をつり上げそうだからな。そろそろ仕事に戻りなさい」

「はーい」

 ぶらぶらと足を揺らしながら椅子に腰を下ろしていた彼女は、カルテンブルンナーにそう言われてひょこりと立ち上がると国家保安本部長官に手を振ってから執務室を出て行った。

 そう――。

 マリーを信用しているというのもあった。

 ナチス親衛隊に所属するマリーと、国防軍の将校が接触して最も心配することは情報の漏洩などよりも、彼女がなにかしらの策謀に巻き込まれるのではないかと言うことと、余分なことを吹き込まれないかということだけだ。

 彼女がヒムラーに信用されているということを差し引いても、素直な彼女を利用しようとする輩もいるだろう。

 内線電話の受話器を手に取ったカルテンブルンナーは、表情を引き締めると交換手にシェレンベルクにつなげるように命じた。



  *

「率直に聞くが、君たちは”彼女”のことをどう思っているのかね?」

 国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部に着任して以来、ほぼ刑事警察に出向しっぱなしだったヘルベルト・メールホルンに問いかけられて、ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストは顔を見合わせた。

「……どう、というのは?」

 ヨストが問い直す。

 メールホルンの言う「彼女」というのは、国家保安本部において女性秘書や事務員たちを差しているわけではないということはわかる。しかし、だからといって突然「どう」と問いかけられても何を尋ねられているのかさっぱりわからない。

 ベストもヨストも、相応に知識を持つ法律家だが超能力者でもなければ霊能者でもなければ錬金術師でもない。

「マリーの権力と君らの権力のあり方についてだ」

 憮然とした様子のメールホルンに、ベストは「あぁ」と相づちを打ってから頷いた。

「慣例から考えれば、確かにわたしやヨスト少将、ゲープハルト中将が彼女の部下というのは違和感があるかもしれんな」

 違和感を覚える程度どころか、普通の神経を持った普通のドイツ人であれば驚嘆するだろう。

 ひとつの部署を率いるのは一介の親衛隊少佐。

 しかも年齢がたった十六歳のギナジウムを出てもいない少女ともなれば、配属したほうも任じたほうも、配属された人間も「正気か?」と問いかけたくなるというものである。

「確かに気が狂ってるとしか思えないやり方だ」

 苦く笑ったベストは腹の前で両手の指を組み直してから、ソファに腰を下ろしてしかめ面をしているかつての盟友に視線を投げかける。

「しかし、君も、わたしも。そしてヨスト少将も、”彼女”の……、まぁ、まともに考えれば親衛隊長官が気が狂ったとしか思えないような人事だが、あの人事がなければ、我々は政治の中枢に戻ってくることなどできなかったのではないかね?」

 彼女の権力。

 そう言われると、どこまでの力を彼女が持っているかなど怪しいものだ。

 ぶっちゃければ虎の威を借る狐、とでも言ったところか。本人はただの親衛隊少佐の影響力しか持たない代わりに、周りの大人や高級将校、あるいは高級指導者らが自らすすんで彼女の後ろ盾となる。

 彼女が動くときはいつもそうだ。

 彼女に自由な裁量はない。だから、時にはあっさりと見知らぬ高級指導者に追い返されることもあるし、礼儀を弁えていないと頬をはられることもある。

「マリーは自然体でいればいいのだ」

 鼻から息を抜いて、ベストは言った。

「知識など、我々にあればいい。だが、”敵”も味方もなく、人を惹きつける才能はそうそう持てるものではない」

 初対面では誰もが彼女を知能指数の足りなさそうな子供だと感じるのだ。けれども、恐れも知らなければ、権力に対して気負うこともなく、そして、差しだされた好意を疑うこともせずに受け取ることができるのは、希有な才能だ。

 結果、誰もが彼女を好きにならずにはいられない。

 野蛮人だと思っていたマイジンガーや、荒くれ者の特殊工作員でもあるナウヨックスも彼女の指揮下に入ってから随分人が変わった。

「彼女の未来は、”ドイツの未来”なのだ」

 ぼそりとベストが告げる。

 比喩ではない。

 春の日差しのように朗らかな彼女の存在に、ハッとさせられた。

 自分たちが、目指しているものとはなんだったのかを。何のために戦っていたのかを、思い出させられた。

「わたしたちは、自らの行いで目を塞いでいた。彼女は、まるで春風だ……」

 そこまで言ったベストは、ガチャリとドアノブが回る音に気がついてさっと立ち上がった。

 時刻は午前十時。

 確か、今日はすでに遅刻をしていたはずだ。その後、登庁してからすぐに、カルテンブルンナーに任務の説明で呼び出された。

 要するに特別保安諜報部の執務室にまともに姿を見せるのは今日はこれが初めてだ。

「……マリー」

 低く叱りつけるようなヴェルナー・ベストの声が響いて、室内へと入ってきた少女は青い瞳を大きくまたたかせてから痩せた法学博士を見上げた。

「遅刻は今月で何回目だね?」

「ごめんなさぁい……」

 バツが悪そうに肩をすくめた彼女は、それでも自然に差しだされたベストの片腕にぱっと顔を輝かせるようにしてから腕を伸ばした。

「ミュラー中将に君の両隣の捜査官の勤務を調整してもらって、君の出勤時刻が遅れないように配慮してもらおうか」

「えー……?」

 つまり、要するに毎日迎えの捜査官が来るというわけだ。

 マリーは唇を尖らせてベストに抗議する。

「それに、冬場は寒いし、朝は道路が凍り付く。転ばれでもしたら、ゲープハルト中将がお冠になるだろうからな」

 付け加えられたベストの気遣いに、机についていたヨストがクスリと小さな笑い声を上げた。

「やれやれ」

 そんなベストとヨストに首をすくめたのはメールホルンで、執務机について目の前に積み上げられた報告書の山に唖然としている少女を見やる。

「プラハの報告書の写しと、国防軍の陰謀容疑の経過報告だ。君自身にとっても無関係じゃないというわけでもないから目を通しておきなさい」

 そう言われてしまえば、書類を無視するわけにもいかない彼女は、大きな溜め息をついてからまとめられたファイルに手を伸ばすのだった。

「やってもやってもお仕事終わらない……」

「わたしたちは戦争屋ではないから仕方あるまい」

 ベストの返答に、マリーはもう一度溜め息をついた。

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