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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXV 神の怒り
336/410

4 覚悟

 翌日の会議ではなぜか立ち直っていたヴィルヘルム・カイテルの姿に対して、国防軍情報部(アプヴェーア)を統括するヴィルヘルム・カナリスは無言で一瞥しただけで、結局、それ以上言及することはなかった。

 いくら陸軍参謀本部がその優秀な頭脳をつきあわせたところで、死人が蘇るわけでもない。そんなことは、陸軍参謀本部の将軍たちにもわかりきったことだろう。しかし、問題はフリードリヒ・パウルスが命を落としたことだけではないのだ。

 歴史あるドイツ国防軍陸軍が、今後、そのまま政治権力の争いとは無縁でいることに対する危機感もあった。

 すでにドイツ国防軍陸軍は失態を犯した。

 それは、言うまでもなく明白な事実で、国家存亡の危機に瀕して体裁の良い言葉を並べているだけにはいかなくなった。

 なにを選択するべきか。

 それを決定しなければならない時期に入ったことを、彼らは誰もが言葉にするでもなく自覚していた。しかし、それでも尚、ドイツ国防軍に息づく伝統に政治に関わらずという考え方を貫く古参の将校たちもいた。

 いずれにしろ、「ドイツ軍」とは決して一枚板ではない。

 昨日と同様に、堂々巡りに終わったようにも見えた会議の席を辞して、カナリスはやれやれと肩の力を抜くと、その足で一度海軍司令部に向かった。

 情報によれば、昨晩、カイテルとレーダーが接触したという事実に間違いはないらしい。それはそれでどうでも良いことだが、レーダーとカイテルがどんなやりとりを取り持ったのかは関心がある。

「お久しぶりです、閣下」

「やぁ、これは」

 にこりと笑った人当たりの良い参謀将校出身の海軍総司令官は、執務室へと入ってきた考えていることがわかりにくい老練な情報将校に眉尻を下げる。

 一見しただけでは人当たりが良く、温厚にも見えるがそこは陸軍や、新参の空軍と熾烈な予算争いを繰り広げ、さらにそれをくぐり抜けた歴戦の参謀将校でもあるレーダーだ。彼が見かけ以上に頑固なところがあることは、カナリスも知っている。

「……昨年の件は残念だったな」

「閣下、壁に耳ありと申しますので不用意な発言は慎まれることをお奨めいたします」

「――あぁ、そうだな。カナリス大将……。余り”例の問題”について触れ回ることは得策とも思えんか」

「えぇ、親衛隊(SS)の連中は抜け目がありません」

 ならず者共。

 そう評価してしまえば済む問題ではない。

 今、ドイツの未来のために、若者たちが着々と力を溜めつつある。いずれ、戦争が終わろうという時のために、ドイツ国内の「国力」を温存しなければならない。

 戦争で才能や知性にあふれた若者たちが無駄に命を散らすのはもうこりごりだ。そんな時代を、カナリスもレーダーも経験してきた。

 目の前で多くの者たちが死んでいった。

 戦争だけではなく。

 飢餓や、疫病で。

 それらがどれほど残酷な「事件」であったか、彼らはよく知っている。

「善も悪も、時代の流れに意味などありません」

 歴史は、勝者が記すものだ。だからこそ、負けてはならない。負けるにしても、最大限に有利な条件を相手から引き出せなければ意味がない。

 ドイツ国民は、戦勝国の冷酷な振る舞いを知っている。

「しかし、カナリス大将。わたしは思うのだ」

 ナチス党のやり方に対して面白くないものを感じているのは事実ではあったが、それだけではない。

 若者たちの姿を見ていると、老将のレーダーはそれでも祖国の未来に思いを馳せずには居られないのだ。かつて、自分自身が祖国の輝かしい未来に対して疑いをだいていなかったことと同じように、ナチス親衛隊に所属する多くの若者たちも「そう」なのだという思い。

 感情的になってナチス党に悪口雑言を投げつけていても意味などないのだ。

 ナチス党(NSDAP)のやり口はさておき、彼らがいかに時代の流れを敏感に感じ取って政治の先頭に立ち続けてきたということには頭が下がる。

 ナチス党(彼ら)も、レーダーらを含めた者にとってはギャングのような振る舞いをする礼儀知らずのならず者だ。本人たちは、それなりに優秀で礼儀を弁えているつもりらしい。

「若い連中は、世界を変えたいと願っている。先の戦争でわたしたちは巨額の賠償金を負った。そして、世界を巻き込んだ”あの”大不況の影。将来は光に満ちていると信じていたはずの若い者にとってみれば、どれだけ残酷な話だっただろう」

 とつとつと語るレーダーの言葉に、カナリスは椅子に腰を下ろしたままで耳を傾ける。

 いつの時代も、若者は未来は光に溢れていると信じている。

 それが戦争によって暗闇に両目をふさがれて、手足を縛り付けられた。それがどんなに屈辱的な話だったろう。

 多くの若者が、時代の絶望に捕らわれた。

 そしてそれを振り払ったのがアドルフ・ヒトラーの率いるナチス党だ。

 力強い演説と、力強い諸外国への対応は暗闇の中に捕らわれたドイツ国民の若者たちに勇気を与えた。

「……――そして、道を間違えたのであれば、それを正すのは”年寄り”の役目だ」

 年寄り、という部分にわずかな力を込めて呟いたエーリッヒ・レーダーに、ヴィルヘルム・カナリスは片眉をつり上げる。

 足を組み直してからカナリスは、小さく息を吐き出すと天井を見上げたままで思考を巡らせた。もっとも一介の情報将校が熟考したところで事態が容易に収拾されるわけでもない。考えたところでさしたる意味などないことを、カナリスはよく知っていた。だが今後の事態の展開を考えて、いくつもの手段を考慮に入れておくことは重要でもある。

 それが情報将校の役割だ。

「ところで、カナリス大将。貴官は今回のパウルス上級大将の死についてどのように考える?」

「もちろん考えるまでもありません。パウルス上級大将閣下の死は紛れもない”自然死”です。ですが、総統閣下は自然死とは考えないでしょう」

「暗殺された可能性を総統が考えると?」

 そんな馬鹿な、とレーダーが肩をすくめるとカナリスは表情を曇らせたままで左右にかぶりを振った。

「総統の老眼もかなり進んでいますからな、わたしのような年寄りが言うのもなんですが、今の総統閣下には軍医のカルテを読みこなすだけの力はないでしょう。とはいえ、悪知恵の回るボルマンが更迭されたことで、情報の選別をされないだけましとも言えますが、おそらくそのために今後、ドイツの政権中枢は大きな混乱に晒されるだろうことは間違いありません」

「貴官はボルマンが選り好みで情報を選んでいたとでも言うのか? これほど国難に晒されながら」

「……さて、それはどうでしょう。あくまで憶測ですが、いずれにしろヒトラー政権に寄り近い場所に立つゲシュタポのハイエナ共が明らかにするのではありますまいか?」

「ふむ」

 顎に右手の指を当てたレーダーは相づちを打ってから小首を傾げた。

 政局も、戦局も困難の極みだが、どちらにしたところでレーダーに事態を決するための権限はない。とりあえず彼がやれることと言えば、空軍と陸軍にばかり食われてさっぱり増強の恩恵を受けることができない海軍のための予算の獲得だった。

 これから新造艦を造るとなれば、今の戦争には間に合わないかも知れない。だが、それでもレーダーは海軍の総司令官なのだ。

 そうあればこそ、やらなければならないことは限られていた。

「わたしだって、間違った決定をすることもあるだろう。それでも、わたしにはわたしにしかできないことがあるのだからな」

「えぇ、よろしくお願いします」

 カナリスはレーダーの言葉に静かに応じると微笑した。

 かつてはレーダーと共に対ハイドリヒ戦線の共同作戦に興じた仲でもあるが、それもすでに昔の話だ。ハイドリヒがイギリスとチェコスロバキアの作戦によって暗殺されて以来、事態はより複雑に姿を変えつつある。

「すでに、わたしの海軍は、イギリス海軍の忍耐ある抵抗の前に消耗しつつある。これが正念場だ」

 レーダーは覚悟を決めたように独白して、執務机の上に組み合わせた両手を凝視すると黙り込んだ。

「ところで閣下」

 カナリスは本来の目的を果たすために話題をヒトラーの周囲から切り替えた。

 別に、ヒトラーの周囲が私利私欲に充ち満ちた連中で構成されていることは今に始まった話ではない。それゆえに、別の言い方をすれば「取るに足りない問題」でもある。

「なにかね? カナリス大将」

「昨晩は陸軍の……、あぁ、いえ、国防軍幕僚長のカイテル元帥とお会いになられたと”耳にしました”。わたしとしましては、そちらのほうに関心がありますが」

 カイテルとレーダー。

 このふたりの共通点を、カナリスは間接的にわかっている。

 レーダーにしろ、カイテルにしろ、どちらもヒトラーのイエスマンとも揶揄される。しかし実態はそうではない。確かにヒトラー派閥に近い存在であるのかもしれないが、ふたりとも限られた自分の権限内で、ヒトラーやその周囲の拡大しつつある権力と必死の思いで戦っている。

 言葉を変えればひどく日和見的に見えるところもあったかもしれないが、職玉軍人としての立場から言えば、別に日和っているわけでもない。

 彼らには彼らなりの戦い方があるし、なによりも、不満を感じることは多々あれど、よくもあそこまで苦心を重ねながらヒステリー持ちのヒトラーを相手に戦っているものだと、カナリスは感心も抱いた。

 生粋の諜報部員であり、情報将校であるカナリスは自分の感情にたやすく流されることを良しとしない。

 自分を律し、厳格であることを自らに課して生きてきた。

「やぁ、さすがに君は耳が早い」

 苦笑したレーダーはわずかに口角をつり上げて笑って見せてから肩をすくめる。それらの行動の一部始終を観察するのはカナリスだ。

 言葉で虚言を吐くことはできても、目線や筋肉の動き、表情といったものは嘘をつけないことを知っている。もちろん、それらを巧みに行使して騙すことができる人間も時には存在するものだが、往々にしてカナリスのような生粋の諜報部員は騙される側ではなく、騙す側に回るものだ。

「別に大した話をしたわけではない。そうだなぁ……」

 首を傾げて考え込んでいるレーダーは、腕を組み直すと両目を細める。

「陸軍の現状と、例のパウルス上級大将の心不全の件について雑談しただけだな。途中でマリーが眠り込んでしまったからカイテル元帥が自宅に送っていくということで夜の十時にはお開きになったが」

「そうですか」

 マリーがという言葉に瞳にナイフのような光を閃かせたカナリスは、口元に手のひらをあてて数秒、沈黙したが視線を上げてからレーダーを見返した。

「パウルスの件は、海軍にとっては微々たる問題だ。陸軍の将校のひとりやふたりが死んだところで、代えなどいくらでもいる。なによりも、死んだのがパウルスで幸いだったのかもしれん」

 遠回しな言い方をしたレーダーは投げやりにそう言ってから、言い過ぎたという顔になって再び沈黙する。どんな相手に対しても気配りをできるのはレーダーの取り柄だ。それ故に、彼は重用された。

「だが、パウルスは本当に心不全だったのか、とはわたしも考える。疑い深い総統閣下ならなおさらだろう。正直、カイテル元帥が頭を抱えるのもわからないでもない」

 言葉を選ぶようにそう言ったレーダーは目をしばたたかせると穏やかに笑った。

「この混乱で矛先がどこに向かうかわからんからな。カナリス大将も充分に気をつけたまえ」

「承知致しました」

「――……今の貴官のために、わたしができることは少ない。”彼”の権力はすでに大きくなりすぎた」

 ぽつりとつぶやいたレーダーは、そう言ってから革張りの椅子をくるりと回すと窓の外に視線を投げかけた。

「ありがとうございます」

 会話の終了を態度で表したエーリッヒ・レーダーにカナリスは黙礼をするとそのまま、静かに執務室の外へ出た。

 レーダーの態度を見る限り、カイテルと大した話はしていない様子だ。

 青くなって取り乱したカイテルも翌日の会議の席では落ち着きを取り戻していた。彼の落ち着きを取り戻させたのは、レーダーとのやりとりか、それともマリーの存在であるのかは判断しかねた。

「国防軍の幕僚長なのだから、しっかりしてもらわねば話にならん」

 カナリスは口の中で独白した。

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