2 支配する恐怖
「パウルスの奴は心臓を患っていたのか?」
大きなテーブルを囲んでいた陸軍参謀本部の面々は一様に首を傾けると、眉間にしわを深く寄せて考え込んだ。
軍医の検死の結果、特別な事件性は存在しない。
要するにただの心臓発作だ。
「……五十もすぎれば心不全の可能性のひとつやふたつもあり得ておかしくはなかろう」
冷静なマンシュタインの指摘に無言で肩をすくめたのは国防軍司令部総長を務めるヴィルヘルム・カイテルだ。
「陸軍の御方々を前にこう言っては御気分を害するかもしれませんが」
停止しがちの会話に割って入ったのは国防軍情報部の長官を務める海軍大将のカナリスだった。
「僭越ながら軍医のカルテを情報部でも確認いたしました」
「……カナリス大将はどのように考える?」
陸軍将校に取り囲まれる状況で問いかけられても、歴戦のスパイマスターは動揺のかけらを滲ませることもない。
冷静沈着。
まさにそんな表現すらふさわしい。
「カルテ上は、パウルス上級大将の健康状態について問題は見あたりません。検死を行いましたところ、特に事件性も考えられません。このように申し上げるのも誠に遺憾ではございますが、ロシアでの作戦の継続というものは心身共に負担をかけるものと思われます。長いロシアでの作戦に、パウルス上級大将の健康状態が限界だったのではないかとも考えますが」
事件性はない。
毒物や、もしくは致死的な危害を加えられたという可能性も否定された。
もちろん検死を行った医師も、ナチス親衛隊に傾倒する者や、反独的な医師は除外され、陸軍に名前を連ねる相応に信頼できる者から選抜された。
その軍医が、事件性は考えられないという診断を下したのであれば、それを信頼すべきだ。
「大変残念なことです」
そうカナリスが言葉を結んだ。
フリードリヒ・パウルスという男の喪失は陸軍にとって大きな損失である。たとえば、パウルスが野戦部隊指揮官として二流の男であったとしても、である。
人間というものは適材適所というものがあるのだ。
しかし、その死因――”心不全”というそれ。
それはかつての彼の前任者でもあったヴァルター・フォン・ライヒェナウ陸軍元帥の死因でもある。突然の心不全を起こして、それが致命的になった。
そして、パウルスも……――。
ふたりの年齢差はたったの六歳だ。そうだからこそ、パウルスの死因が心不全であってもおかしな話ではなかった。
「しかし、パウルスが死んだとなると、”総統閣下”がまたかんしゃくを起こしかねないな」
やれやれと溜め息混じりの言葉を漏らしたマンシュタインは会議室に顔をつきあわせている将校らを見渡した。
彼らはすでにマンシュタインには見慣れた将校たちだ。
誰もが完璧ではなく、長所があり短所がある。エーリッヒ・フォン・マンシュタインが彼らをそう観察しているように、マンシュタイン自身も彼らと同様に長所や短所が混在しているのだろう。
「お気に入りの陸軍将校が”殺された”のだからな」
心不全の原因とは、本当にカナリスが告げるようにロシアでの戦場が彼の心身に負担をかけていたのか、それとも別のなんらかの理由が存在していたのか。
案外ヒトラーの期待がパウルスの命を縮めたのかもしれない。
そんなことを皮肉げにマンシュタインは考える。
「お気に入り、か……」
視線をさまよわせているのは、同じテーブルについていた陸軍の予備将校に配属されているハインツ・グデーリアンだ。
猪突猛進な性格はともかく、グデーリアンはマンシュタインから見てもドイツ屈指の野戦指揮官のひとりだ。
革新的で、常に時代のさらに向こう側に視線を向けていた。
余りにも時代を先取りしすぎていて誰もついていけない。
「総統閣下はまた自分に肯定的な指揮官を血眼で捜すんだろうな」
憮然としたグデーリアンは誰に同意を求めるわけでもなく視線を会議室内へと走らせる。言い終わってから唇をへの字に曲げた戦車戦の産みの親とも言える卓越した指揮官は中空に視線をさまよわせたままで無言に陥るとそのまま考え込んだ。
「俺は、……――総統閣下が、あぁ、いや、なんでもない……」
なにかを言いかけてから、やはり口を閉ざしてしまったグデーリアンは思い詰めた様子で再び黙り込むと、顔の前でひらりと片手を振った。いかに猪突猛進な指揮官であるとは言え、「それ」は言うべきことではないとでも思ったのかもしれない。
「ハインツ……?」
マンシュタインがちらりと視線を上げれば、グデーリアンは左右にかぶりを振ってから結局、言葉を封じ込めたまま大きな息を吐き出した。
「陸軍の仕事は、ドイツ第三帝国を守ること、だからな」
少しばかりの逡巡の後にグデーリアンが言葉を選ぶようにして言ってから、マンシュタインは小さく頷くと会議用のテーブルに片方の肘をついた。
「ナチス親衛隊と宣伝省がいくら情報操作をしようとも人の口に戸は立てられん。ドイツ政府に対する不信感はいずれ、じわじわと蔓延する疫病のように知れ渡る。連中が民衆が盲目の愚民共だとでも思っているのであれば大間違いだな」
貴族と平民ではメンタリティが違う。
しかしメンタリティが違うというだけで、愚かであるということとイコールではない。
「政府が操ろうとしているものはそれだけの危険性を孕んでいるのだ」
「政府首脳部が思うように民衆を操ることができると思うのは大間違いだ」
マンシュタインの言葉にグデーリアンが頷きながらそう言った。
自分たちの会話がどれほど危険なものであるのかを、陸軍参謀本部に所属する高級将校たちはよく理解していた。
だけれども、「ドイツ」という祖国を守るためには矢面に立たなければならないこともある。
――逃げ出してはならない。
選択をしなければならない時は、確かに存在している。
選択を誤ってはならないときは、確かに存在している。
「我々は、軍人として目を背けてはならんのだ」
重々しくそう告げた陸軍参謀総長のフランツ・ハルダーは、困惑した様子で日和見な光を瞳にたたえているヴィルヘルム・カイテルに視線をやった。
本来、最も堂々としていなければならない立場にあるはずなのだが、おべっか使いとまで揶揄されるカイテルは立派な風貌に反して、多くの危機的な状況を目の当たりにし続けてきたために、その判断力と実行力を失って久しい。
ヴェルナー・フォン・ブロンベルクとヴェルナー・フリッチュを失って以来、栄えあるドイツ陸軍の本来の力強さが失われた。
「カイテル元帥」
そんな怯えた様子のカイテルを眺めていた一同の中で、初めて口を開いたのはエルウィン・フォン・ヴィッツレーベンだ。
名実ともにドイツ陸軍屈指の戦略家でもある。
一昨年前の対ソビエト連邦戦では、国家元首のアドルフ・ヒトラーに批判的な態度を取り更迭された。しかし、それでも尚、彼は陸軍参謀本部にあって重要な席に座るご意見番でもある。
この年、六一歳になったばかりだ。
「貴官もそろそろ覚悟を決められてはどうか?」
鼻白んだ様子のヴィッツレーベンはぎろりと鋭い眼差しで会議室内を見回した。
カイテルのように日和見的な態度を取る者が多いこともまたヴィッツレーベンは知っている。誰でも理不尽な懲罰が目の前に迫ることは恐ろしいものだ。それは一介の兵士も、高級将校も変わるところではない。
「……だが、しかし」
批難する口調のヴィッツレーベンにカイテルが口ごもった。
多くの者は彼の外見に騙される。しかし、ヴィルヘルム・カイテルという男が、そのまま勇敢な騎士ではないということを、会議室に集まる者たちは知っていた。
ヒトラーのおべっか使い。
「”しかし”も”案山子”もないだろう」
ヴィッツレーベンの言葉を継いだのは、「若者」たちのやりとりを黙って聞いていた陸軍の長老だ。
「……”貴官”は、国防軍司令部総長として、腹をくくらなければらん局面に来ていると、ヴィッツレーベン元帥は言っておるのだ」
すっかり頭のはげ上がった老将は口ごもったままもごもごとなにかを口の中で繰り返しているカイテルを叱咤する。
「あなたがたは、わたしの立場を理解していないから勝手なことが言えるのだ……!」
小さく叫ぶように言ったヴィルヘルム・カイテルに禿げ頭の老人はあきれた様子で鼻から息を抜くと腕を組んだ。
「ブロンベルクとフリッチュの二の舞になることを恐れている、と受け取って構わんのかね?」
陸軍の重鎮――ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥。
緻密で慎重でありながら、グデーリアンのような暴れ馬の制御をすることができる辣腕の将軍だ。
「”連中”が権力を握っているということに不審がないわけではないが、”暴れ馬”は相応に御せば良いだけのことではないか?」
「我が軍が政に干渉することは”伝統”に反すると思わないのですか?」
辛辣なルントシュテットの言葉に嘆くような声を発したカイテルから透けて見えるのは、彼の小市民的な自己保身だった。
それが悪であるというわけではない。
マンシュタインはグデーリアンだけではない。
歴戦の将軍であるヴィッツレーベンも、そしてルントシュテットも、若い彼らと同じように政府首脳部の意見に強烈な反発を行って幾度も罷免された。
しかし彼らは納得のいかない命令に盲目的に従って兵士たちを戦場に送り出すことに対しては、一様に否定的だった。
「我々が戦う事を恐れてはならんのだ、カイテル元帥」
「わかっていますが……」
すでに陸軍参謀総長、フランツ・ハルダーを擁護しているカイテルの立場は政府首脳部にとって微妙なものに変化しているだろうことは間違いない。
今までヒトラーのイエスマンとも呼ばれていたカイテルが、反ヒトラー陣営の筆頭とも言えるハルダーをかばったのだ。
言葉を失って頭を抱えたカイテルは、しばらく黙り込んだ後に会議の椅子から立ち上がった。
「カイテル元帥?」
「少し、気持ちの整理をする時間をいただきたい」
切れ者の指揮官たちを前に、そんなことを言わなければならない自分が情けなくて涙が出そうになった。
自分が守らなければならないのは、ドイツ国防軍三軍の将兵たちで、その命を一手にカイテルが握っている。
彼の判断が良くも悪くも、「彼ら」の命運を決定するのだ。
それをわかっているからこそカイテルは自己保身と、自尊心と、そして社会的な責任の間で揺れ動く。
本来の立場は死んだパウルスと大差はない。
生粋の参謀将校の出身で、カイテルには一軍の采配した経験すらないのだ。それが、突然、今までの経歴を無視した配属を受ければどんなことになるのかなど、日の目を見るよりも明らかだ。
「明日の同じ時間に会議を行う……」
弱々しい声でそう言ったカイテルに、ヴィッツレーベンがむっつりと眉尻をつり上げたままで立ち上がる。今にもカイテルに詰め寄りかねない陸軍元帥を制止したのはゲルト・フォン・ルントシュテットだが、無言のままにヴィッツレーベンに向かってかぶりを振っただけだった。
「承知した」
すでに一九四三年に入り、一ヶ月が過ぎた。
春、あるいは初夏からはじまる新たな作戦に向けて、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
――わたしは、恐ろしいのだ。マリー……。
受話器を握りしめたまま、カイテルは左手の人差し指と親指とで両目を押さえたまま嗚咽混じりにそう告げた。
恐ろしいのだ。
恐怖政治のやり口を、彼は最も近い場所で凝視し続けてきたのだ。
「……恐ろしいのだ、マリー。わたしは、どうすれば……」




