15 無力なもの
ハンス・オスターは実質的に国防軍情報部の中央管理部を担当し、長官であるヴィルヘルム・カナリスの首席補佐官を務めている。国防における重要な役目を担っているヒューミント活動の中枢を管理するのは、実のところ驚くほど少人数の専門家たちだった。
「失礼します、オスター大佐」
「どうされました? ラホウゼン少将」
モノクルを外しながら顔を上げたオスターは室内に入ってきた自分よりも年下の陸軍少将に小首を傾げる。
寡黙なカナリスとは対照的に見目の良い長身の男は、深刻そうな顔をした二課の課長に鋭い視線を走らせる。
「西方外国軍課のリス中佐からの報告です」
「……北アフリカか」
ひとりごちるように呟いたオスターはじっとラホウゼンの瞳を見つめ返してから、慎重に口を開いた。
国防軍情報部二課――反政府活動や不穏分子などと接触などを役割とする部署を率いるのはエルウィン・フォン・ラホウゼン陸軍少将で、彼もまた、カナリスやオスターに連なる反ナチス派の将校だ。
ラホウゼンの指揮下にドイツ陸軍第八〇〇特殊部隊――通称、ブランデンブルク師団。が所属する。もっとも、正式には二課からはほぼ完全に分離され、アプヴェーアの手を離れて陸軍総司令部の指揮下に置かれている。
もっとも、この状況についてはカナリスはそれほど面白くは思っていないらしい。
「面白かろうと、面白くなかろうとそれが任務なのだからな。当面の問題はともかくとして、とりあえず現状の改善に尽力しよう」
カナリスは肩をすくめるとそう言った。
「それで、その北アフリカのほうがどうしたのです?」
とりあえずラホウゼンにソファをすすめてからオスターが問いかけると、十歳ほど年下の男はすすめられるままに腰掛けた。
「リス中佐とゲーレン少将が共同で情報収集活動に当たっていることは知っていると思いますが」
ラホウゼンは実直な男だ。
白髪とはげ上がった頭のせいで実年齢よりも上にも、オスターと同年齢であるようにも見える。
「”連合軍”の郵便物を奪取、これを分析しました。どうやら状況はやはり改善しつつあるようです。楽観的な見解が広まっています」
「それは予想済みですが」
短く言葉を切ってから、こつりと靴音を鳴らしたオスターはラホウゼンの腰掛けるソファの向かいに座り込むと両手の指を組み合わせてから相手の瞳をじっと覗き込む。
敵兵の郵便物を奪い、その内容を分析するという手段は東方外国軍課の課長、ラインハルト・ゲーレンが東部戦線のロシアで行った方法だ。
彼は任務に忠実で、自分の感情に左右されることなく、まさに淡々と仕事をこなすことができる情報将校である。
「しかしブランデンブルクを動かすことは余り関心できん」
「同じ見解をゲーレン少将とリス中佐から拝聴しています」
ラホウゼンは静かにそう告げると口元に指先を押し当ててから深刻そうに表情を曇らせる。
「ナチス親衛隊の連中がやった余分なことのせいで事態が悪化しています」
「そんなところだろう」
情報将校に血も涙もない。
それは国防軍情報部であろうと、ナチス親衛隊情報部であろうと大差はない。しかし、そこに決定的な差異が存在する。
ゲーレンもナチス親衛隊の情報将校や諜報部員らがするように、時と場合によっては拷問も厭わない鉄の精神力を持つ男である。私情に左右されず、限りなく冷淡であるという点についてはドイツ軍屈指の情報将校のひとりだった。
「連中は知っていて、放置したのだ」
憮然としたオスターは顔の前で組んでいた両手の指をほどいてから鼻を鳴らす。
女が転々と流行病をまき散らした。そのいきさつと、予想される結果をわかっていて、彼らは女を保護することもせずに放置した。
スターリンのソビエト連邦は事実上崩壊したため、ドイツ国防軍の仕事は片付いた。
国家元首でもあるアドルフ・ヒトラーがはじめた事態の尻ぬぐいのために奔走しなければならないドイツ軍としては、仕事が減るわけでもないところが悩ましいところだ。
「もっとも、現状の我が国の戦力で長期間の多方面戦争を維持することはそもそも困難ではある」
憮然とした顔にさらに苦々しい色をたたえたオスターは、足を組んでから首を傾けて数秒ほど思案する。
ナチス親衛隊のならず者たち――。
彼らがなにを考え、どう計算して動いているのかどうかはともかくとして。特に、国家保安本部の治安維持部隊が勝手に活動してくれるのはありがたい話でもあった。
ナチス親衛隊は信用ならない。
中には好人物もいないわけではない。
しかし、それについては国防軍にしたところで同じ穴の狢だ。
国防軍の全てが紳士然としているわけではないように、親衛隊員たちの中にも信用に足る者は存在する。
個々の人間と、組織の評価が異なるだけだ。だが、だからこそ組織と個々の人間に関係性に捕らわれてはならない。
「結果はどうあれ、親衛隊の動きが我々、軍隊の利益に繋がった。だが、毒の扱い方を間違えれば、待っているのは破滅以外のなにものでもない」
「同感です、オスター大佐」
ナチス親衛隊が打った策謀のおかげで、ドイツ国防軍は最悪の二正面戦争を避けることができた。
その間にソビエト連邦で軍事クーデターが発生し、さらに北アフリカ戦線は天然痘の発生によって一九四二年の間中、エジプトを中心とした対英戦は膠着状態に陥った。このため、ドイツ軍はソビエト連邦との戦争に集中することができたのだ。
さらに空軍首脳部の動きもあって、大西洋に展開するドイツ海軍の弱小の潜水艦隊は相応の戦果をたたき出せるようになり、イギリスを危機的な状況に追い込みつつあった。
「今年の夏が、北アフリカを攻略する鍵になるでしょうな」
現状、イギリス政府は非常に苦しい戦いを強いられている。
しかし苦しいのはドイツも同じだ。
どちらも苦しい戦いをに光明を探している。
「アメリカの支援が尻すぼみになりつつある状況で、イギリス軍の士気が下がりつつあるようです。そう考えると、今こそがイギリス軍を叩きつぶす絶好の機会かもしれません」
一昨年前のイギリス本土に対する戦いでは、結局、ドイツ政府首脳部の判断ミスによって結局作戦は失敗に終わった。
そして作戦が失敗すると言うことは、ほかでもなく、考えられないほど多くの犠牲が出たと言うことを物語っている。
記録などみるまでもない。
敵も、味方も。
多くの若者たちが、戦争を継続しようとする年寄りのために命を落としたのだ。
「こんな戦争は早く終わらせなければならん」
エルウィン・フォン・ラホウゼンの報告を聞きながら、ハンス・オスターはぼそりと言った。
「ところで、三課の裏切り者はどうなっているんです? 大佐」
国防軍情報部にはびこる癌細胞。
正真正銘の陸軍将校だが、ナチス党の思想に強く傾倒している。政権中枢に配慮した人事であることは明白で、それがオスターやラホウゼンといった反ナチス派の将校たちを警戒させた。
三課の課長――ルドルフ・バムラー少将。
「あの男は党の顔色を窺っているだけの小物だ、取るに足りんよ」
ナチス派の人間にカナリスは対して重要な仕事を任せてはいない。つまるところ、バムラーなどいてもいなくてもアプヴェーアの業務に支障はないのだが、間抜けなヒムラーはアプヴェーアに自分の子飼いの将校を送りつけたことで満足してしまっている。
「国内の防諜については、親衛隊のオーレンドルフが目を光らせている。それに……」
そこでオスターは言いよどんだ。
ここのところ、気に掛かるのは国家保安本部の異常とも思える権力の拡大だ。
今のところアプヴェーアとの密約を守り、国防軍の領分を侵してくることはないがなにせ親衛隊で諜報部門を指揮するふたりの青年将校たちは国内でも屈指の切れ者だ。やはり彼ら同様に情報を扱う人間として警戒して当然だった。
「あのふたりに気をつけたまえ」
人畜無害な顔をした者こそ存外危険であるものだ。
「……――承知しました」
年長者であるオスターのメンツを立てるようにラホウゼンが目線を下げたそのときだ。
ジャーンと音を立ててオスターの執務室にある内線電話が鳴った。
「オスターだ」
相手の短い言葉を聞いて、オスターは「そうか」とだけ言って受話器を置く。
「バムラーが出かけたそうだ」
十中八九、ルドルフ・バムラーは軍の動きをナチス党本部に報告しているだろう。そんなことはカナリスがバムラーを配置したときからわかりきっていた。
「二課から人を出します」
「頼んだ」
軽く一礼して彼の前を辞したラホウゼンの背中を見送って、組んでいた足を床におろすと立ち上がる。
ゆっくりと窓際に歩み寄ると、彼は窓の外を無言で見つめた。
ラホウゼンの部下のことだから、愚図なバムラーに気づかれるようなへたな真似はしないだろう。
おおかたバムラーの出かけた先は、ヒムラーのところか、もしくは国家保安本部か。そんな主体性のない裏切り者よりも、気に掛かるのは情報機関として密約を結んだハイドリヒの遺物。
ヒムラーの懐刀。
白い雪はしんしんと音もなく積もる。
街では、ユダヤ人の混血であると烙印を押された「同じドイツ人」が、強制労働に駆り出されているのだ。しかし、今のオスターにそれを止める力も、手段もない。
それが口惜しくて、彼は言葉もなく手のひらを強く握りしめた。
「オスター大佐、いいかね?」
「……カナリス提督」
ノックの前置きもなく静かに、足音もなくオスターの執務室に入ってきたのは、上背の低い白髪の男だ。
「バムラーが出かけた」
「そのようです」
告げられた言葉に即答したオスターは、すたすたと入ってきた上官に敬礼をしてから片目をすがめてじっと相手を観察した。
寡黙で冷静沈着なスパイマスター、ヴィルヘルム・カナリス。
「あの男は党本部と通じている」
「厄介なことです」
カナリスの言葉に、オスターは鼻から息を吐き出して前髪を指先でつまみ上げる。そうして数秒考えてから、再び口を開いた。
「あの少女は、なんなのです? 提督」
「……子供だ」
「……それはわかっていますが」
名前はマリー・ロセター。
わかっていることはただそれだけ。
彼女は、オスターが作り出したかりそめの経歴に寄り添うように記憶すらも書き換えて、ドイツ人として新年を迎えた。
最初はこんなことになるなどとは思っていなかった。
ただ、彼女の存在はまるで、鏡のような湖に投げ込まれた小さな小石のようにも思えたこと。
ただ、無邪気な少女を相手に、多くの人間たちがそのあり方を変えたような気もする。けれども最初から定められていたことだったのか、それともそうでないのかは、オスターにはわからない。
「あの子は、ただの子供だ」
カナリスが繰り返す。
「どこから来たのか、どこへ行くのかもわからない。おそらく、彼女は本来”ここに”は存在してはいけない子供なのだ」
ハイドリヒと同じ色の瞳と髪を持つ、けれども確かに変哲のない普通の少女。
神話や与太話のようになにかしらの超能力を持っているわけでもない。ともすれば、運動神経が絶望的に悪い彼女は滑って転んでを繰り返す。
最近では陸軍の重鎮、グデーリアン上級大将が彼女の体力作りのために一役買っているようだ。
ラインハルト・ハイドリヒと似たような髪と瞳の人間などどこにでもいる。
それでも、老いたカナリスは彼女がハイドリヒそのものだと感じた。そして、彼女の存在が、おそらく「歴史を書き換え」る。
「彼女は、ただただ、ドイツを”愛して”いるのだよ。オスター大佐」
「どちらにしろ、彼女の記録と地位を改竄し、親衛隊の奥深くに潜り込ませたのはわたしですから、今さら彼女が外国人でしたと告発したところで、身の破滅以外はありませんので」
「あぁ、余分な発言は慎んだほうが良い」
自分のためにも。
穏やかな両目を細めて、カナリスが右手の人差し指を自分の唇の前に立てると、そうして静かにほほえんだ。
彼女は小さくて無力な小石なのだ。
本人には何の力もない。けれども、無力であるがゆえに、生み出される波紋は静かに音もなく広がっていく……――。




