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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIV レメゲトン
330/410

13 異質の金魚

「マリーが参っているらしい」

 そう言われて寡黙なゲシュタポの長官は、手元の書類をさばきながらノックの音と共に執務室へ入ってきた刑事警察局長に視線をやった。

 年末からマリーの周辺は事件続きで同情に値するというのに、そんな彼女に半ば強引な方法で任務を押しつけた国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクには怒りがおさまらないでいる。

 もっともこの作戦に従事したのがマリーでなかったら、こんなにも怒り心頭にならなかっただろうというのは十二分に承知しているし、大概私情に走っていることもゲシュタポ・ミュラーは理解している。

「それにしてもシェレンベルクもシェレンベルクなら、ボルマンもボルマンだ。だいたいマリーはまだ年端もいかない子供だ。そのマリーを作戦だからと誰の了解も得ずに任務に出して、万が一なにかあったらどうするつもりだったのだ!」

 語気も荒くなるミュラーは、ほんの数年前まで自分の部下だったヴァルター・シェレンベルクを容赦なくこき下ろして唇をへの字に曲げた。

 むっつりとした表情のままそう言って、ミュラーは室内に入ってきたクリポの長官に鋭い視線を放つ。

「女房がいるのに、ボルマンは相手の同意も得ずにマリーの寝込みを襲おうとしたのだぞ!」

 苛立ちのまま執務机を分厚い手のひらでたたいたミュラーに、ネーベはしばし考え込むようにしてから懐から取り出した煙草入れから取り出したタバコを口元にくわえると息を吐く。

 仮に同意の上だったとしても、ボルマンがマリーに手を出したら、きっとこのゲシュタポ長官は決してボルマンを許しはしないだろう。おそらく、国家保安本部長官のカルテンブルンナーもだ。

あの男(ボルマン)は、自分の権力が永遠に保障されるとでも思っていたのだろう」

 国家元首――アドルフ・ヒトラーを口車に乗せ、心地の良い響きだけで彼を満足させる。

そしてその代償にマルティン・ボルマンが得るものといえば、ドイツ第三帝国における絶対的な権力の座だ。

 かつて、多くの高級官僚や、政府首脳部に座する政治家たちを震え上がらせた恐怖の権化(ごんげ)、ラインハルト・ハイドリヒはすでに昨年命を落とした。

 誰もが、ハイドリヒの振るう権力に恐れていた。

 ハイドリヒは、じっくりと相手を罠に掛け、意のままに操り、あるいは破滅に追いやることにかけては達人的な手腕を持っていた。そんなハイドリヒがイギリス政府とチェコスロバキア亡命政府の暗殺計画によって、あっけなく命を落とした。

 もちろんこれにはハイドリヒ自身のうぬぼれもあっただろう。

 いきさつはともかく、ハイドリヒも結局ひとりの人間でしかなかった。悪魔の手先のように囁かれた人間の他界は、しかし意外なほど容易に訪れるものだった。誰も予想もしていなかった方向に事態はそうして動き出す。

 誰もが彼を恐怖の権化と認識し、嫌悪し、ともすれば死んでしまえばいいとさえ思っていたはずだというのに、ラインハルト・ハイドリヒの死は思う以上にドイツの国内外に大きな混乱を招くことになってしまった。

 その死の影響は、とても計り知れない。

 人ひとりの死が、良くも悪くも時代を左右する。

 戦時下におけるドイツ国内に、余計な権力争いを招いたのが良い例だ。誰もがハイドリヒの持つ特権的な強権を欲していた。けれども、それほど巨大な力を、これまた良くも悪くも理性的にコントロールすることのできる人物も居はしまい。

「ボルマンは”無用”の男だ」

 ミュラーは侮蔑するように一刀両断してからフンと鼻を鳴らした。

「しかし、今回ばかりはあの男の息の根を止めることができる」

 刑事警察で収集したナチス党本部内の資金の動きと、ゲシュタポで収集した連合国軍側に通じる盗聴網「赤いオーケストラ」に関わる動き。

 たかが愛人関係などで彼を弾劾できずとも、ボルマンを陥れる材料はいくらでもある。どちらにしたところで、ミュラーやネーベにとってもボルマンは「政治的に」邪魔者以外の何物でもなかった。

 政治や軍事ばかりではない。

 マルティン・ボルマンは、愚かにもドイツにおける権力の全てを欲していた。

「ハイドリヒの暗殺も、案外、ボルマンにとっては好都合だったのかもしれんな」

 ボルマンと比較すれば、謀略に通じているのはハイドリヒのほうだ。多くの権力者たちの力を脅かすハイドリヒの存在を疎ましく思っていなかったはずがない。

 かつて総統代理とも呼ばれたナチス党のナンバー・ツー、ルドルフ・ヘスの突然の渡英にあたって、それをボルマンが利用したように。おそらく、ボルマンは自分の欲望のままにハイドリヒの死すらも利用したに違いない。

「それはなきにしもあらず、だな」

 ミュラーのぼやくような言葉にネーベが呟くと、それから数秒間沈黙を挟み込んだ国家秘密警察局長はややしてから視線を上げると注意深く口を開いた。

「ボルマンが積極的ではないにしても、ドイツの軍事的勝利の妨げとなる行為に関与したことは明白だ」

 最も重要な証拠となり得るのはゲーリングの指揮する盗聴組織、情報局(FA)における通信記録である。

 批難するようなミュラーの言葉に、垂れ目がちの目を細めてからネーベは視線をさまよわせた。

 たたけばいくらでもほこりがでる。

 ボルマンはそういう男だった。

 だから刑事警察も、国家秘密警察も、そればかりではなく多くの情報組織がドイツ政府首脳部、第二の権力者の弱点を握る。それらのひとつひとつはヒトラーにしてみれば取るに足りない――いや、取るに足りない事態ではないのかもしれないが――案件かも知れないが、積もり積もれば無視しえない不審を積み上げた。

 いくらボルマンの口がうまいとは言え、こうも証拠を突きつければヒトラーといえども無視はできないし、不快感を募らせるに違いない。

 最も信頼に値すると信じ込んでいた側近が、自らヒトラーの信頼を裏切っていたのだ!

「とにかく、マリーが危害を加えられなかったわけだから良かったじゃないか」

 穏やかにそう告げるネーベにミュラーは数秒黙り込んでから「うむ」と相づちを打ちながら頷いたのだった。

「それはそうと、最近、マリーがゾンマーフェルトやらプランクやらと接触しているらしいが、どう思うか?」

 思い出したように話題を切り替えたミュラーに、ネーベは小首を傾げる。窓の外に降り積もる雪は、夜の闇に沈んで音さえもかき消していくかのようだ。

「高い知性を持つ者と言葉を交わすことは悪い事ではない。彼女のようにまだまだ感受性の高い年齢なら、有意義な刺激になるのではないかね?」

「それはそうだろうが、良からぬ噂をはやしたてられるようなことになれば、命に関わるぞ」

 現在のドイツは、女子供でも不穏分子には容赦がない。

 それをミュラーとネーベは、警察官僚であるが故に知っている。

 彼女の命を守ってやりたいと思うから、特にゲシュタポを統括するミュラーは、マリーの人間関係に気を揉んだ。

 ――命取りにならなければ良い。

 そう願う。

「ふぅむ……」

 組んでいた腕をほどいてから首の後ろを手のひらで撫でたネーベは、ソファから立ち上がるとミュラーの執務室の窓辺に歩み寄るとそこから見渡せる戸外の風景に視線を向けた。

 問題は、警察組織を邪魔だと思っている人間が謀略を企図しないとも限らないことだ。

 敵は想像以上に多い。もちろんそれは、彼らが今まで重ねてきた行為の代償にほかならない。それほどまでに悪辣な手段に手を染めてきたのが国家秘密警察なのだ。

「いずれにしろ、その手絡みの”専門家”がマリーの傍にはいる。心配はなかろう」

「……マイジンガーか」

 揶揄するようなネーベの言葉に、ミュラーは眉間を寄せると顎を撫でて舌打ちした。

 四年前のポーランド戦ではワルシャワで多くの反ドイツ組織の壊滅のための作戦に従事した。生粋の秘密警察で、彼はミュラーがミュンヘンの地方警察時代からのつきあいだ。

 野蛮な男。

 それがかつての人事局長、ヴェルナー・ベストの評価で、シェレンベルクらの知識人たちからも評価は低い。

「まぁ、考えても仕方あるまい」

 そう告げてネーベは肩をすくめると小脇に抱えていたファイルを肩の上まで掲げると、カッと靴音を鳴らして首を回した。

「ボルマンの党内の金の動きに関する捜査資料だ。これはコピーだが、ミュラー局長にも渡しておこう」

「……というと?」

「すでに長官には原本はわたしてある。だが、ミュラー中将も関心はあるだろう」

 党内の金銭の動き。その言葉にミュラーはぴくりと眉尻をつり上げた。

 確かにそれほど少なくはない組織がボルマンの不審な行動の一部を察知していたのだが、それを最高権力者に提示するには少しばかり説得力に欠いていた。ともすれば、それは自らを危険にさらす。

 ボルマンを追い詰める武器。

 ミュラーの差しだされた右手の中にファイルをネーベはおろした。

「とりあえず、見せていただこうか」

 思った以上に政治中枢の腐敗が深刻なことは、ミュラーだからこそ当に知っている。堕落と腐敗に満ちた濁った世界で、ミュラーは自分が権力を得るためにもがき苦しんでいたのだが、それもほんの半年ほど前に彼の前に現れた少女によって救われたような気がする。

 鬱々と沈殿した水底で、空気を求めて喘ぐ魚のように、ミュラーは重苦しい空気の中にもがいていた。

 もっと強大な権力を手にすれば、不自由な世界から逃れられるのではないかと思った。

 ハイドリヒとの権力争いに敗れ、そうしてその指揮下に下った。どうすればよいのかわからずに目の前の泥濘をかき分けていたこと。

 そんな彼の目の前に現れたのはまるで清水しか知らない金魚のような。ミュラーの目に映る世界は、色彩など当の昔に失っていたというのに、マリーという少女は彼の視界の中で華やかに世界の色を取り戻させた。

「ミュラー中将。狂いはじめた世界の歯車は、きっと我々には止められないのだ」

 すでに大波にのみ込まれてしまった自分たちには、変革は並大抵のことではない。へたをすれば権力に叩きつぶされるのがオチだろう。

 だから、純粋にも見える彼女の青い瞳に期待を抱いてしまうのだ。

 なにも恐れず、媚びもしない少女の眼差しがどんな未来を見据えているのだろうか。そんな彼女の瞳に引きずり込まれた。

「止められないことはわかっていても、”わたしたち”はもがかずにはいられない」

「なにを考えている?」

「……――ミュラー中将、わたしは刑事警察局長だ」

 唇の前に人差し指を立てたネーベは垂れ目がちな目尻を下げてから笑うと靴の踵を鳴らしてミュラーの執務室を出て行った。

 ナチス党官房長、マルティン・ボルマン。

 彼の画策した謀略は、種を明かしてみれば稚拙なものだが、明かされなければボルマンにとって強力な武器になっていたかもしれない。自分の命と、ドイツ国民九〇〇〇万人の命を秤に掛ける、本来、政治権力の座に就く者としては許されない犯罪行為だった。

 そんな国家に対する犯罪を白日に晒すことこそ国家保安本部の使命なのだ。

「わたしは……」

 ミュラーの無味乾燥なモノクロの世界は、昨年の六月――たったひとりの痩せた少女の存在によって色を取り戻した。

 はじまりは唐突な好奇心だけだった。

 政敵とも言えるカナリスと、シェレンベルクが囲う少女がいったいどんな子供であるのかを知りたかっただけで、花の家ハウス・デア・ブルーメンに足を踏み入れた。そこで出逢った金髪の少女。

 当惑した瞳で、けれども明るく朗らかに笑う足の悪い彼女に引き込まれた。

 はじめて食べたマリーの手料理は、お世辞にも美味とは言えなかったが、それでも人間らしい暖かみを感じさせられたことが嬉しくて、とりあえず更に盛りつけられたひどい味のスープを全部飲み干した。

 自分の料理のひどさに目を白黒させる彼女がかわいらしくて、我知らず笑みがこぼれたことを思い出した。

「ごめんなさい……」

 まずいスープに肩を落とした少女に、ミュラーは告げてやった。

「別に食えないわけじゃない」

 数ヶ月前、掘っ立て小屋のような木造の一軒家のリビングで、素っ気なくミュラーはマリーに言った。

 それを思い出した彼は苦笑したままでネーベから手渡されたファイルを鍵付きのひきだしにしまい込むと、内線電話の受話器を上げた。

「……あぁ、ベスト中将か。マリーに伝えてくれるとありがたいのだが、明日の夜に家を訪ねると言ってくれ」

 なぜだか彼女のスープが恋しくなって、ミュラーは電話口にそう言った。

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