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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IV 神の炎
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8 ひとつの転換

「どう思う? 大佐」

 相変わらずというのか、シェレンベルクの執務室を訪れる高官たちは絶えることがない。誰かしらがひっきりなしに連絡をいれてくるのだから、ヴァルター・シェレンベルクは息を抜く暇がなかった。

 八月に入り、ニキータ・フルシチョフを政治的指導者としてまつりあげ、さらに強硬な反スターリン路線を猛進する軍事クーデター一派はその数を大きく膨れあがらせつつあった。そして、スターリングラードの防衛を任されていたヴァシリー・チュイコフの第六二軍は七月から続くドン川流域の後退戦で消耗しきっているところへ、反乱軍の後方からの手痛い一撃を加えられることになった。

 ブリャンスク方面軍を指揮するコンスタンチン・ロコソフスキー中将が指揮下にある部隊と共にクーデター派に加わったのである。こうしてジューコフの率いるスターリングラード方面軍には大きな風穴がいくつかあきはじめた。

 強硬な消耗戦を強いるジューコフに対し、ごく小規模の部隊単位での蜂起もあった。こうした状況の中、尚も戦争を継続することができるソビエト連邦の国力は恐るべきものと言えるだろう。

 人種問題で揺れるアメリカは未だに対外的には曖昧な路線を保っていたが、そんな中で対英作戦行動を継続しているドイツ海軍(クリークス・マリーネ)のカール・デーニッツの率いる潜水艦隊は暗号コードの刷新により、順調に結果を見せ始めていた。これにより、島国であるために軍需物資から民需物資に至るまで多くの品々を輸入に依存せざるを得ないイギリスを大きく苦しめることになる。

 しかし、イギリス首相のウィンストン・チャーチルは今や明らかになりつつあったソビエト連邦によりポーランド将兵の捕虜の虐殺は無視することができず、アメリカとソビエト連邦、そしてドイツとの間に板挟みになるような形のままただ戦況をじっと見守ることしかできなかった。

 あわよくば、ドイツとソビエト連邦が共倒れになれば良い。

 そうチャーチルは祈らずにはいられない。

 一方で、このカチンの森で行われたソビエト連邦の虐殺という行為が公開されたことによって板挟みの状態になっているのは、アメリカの大統領ローズヴェルトも同じだった。国内で声高に叫ばれる人種問題の論議と、さらに非人道的な行いをするローズヴェルトらの決定と、やはり非人道的な行いをしたソビエト連邦に対する援助の中止を世論が強く求めはじめたのだ。

 民意と国際政治の間で板挟みになったローズヴェルトはこうした世論の中に取り残されて急速に肉体を衰えさせることになる。

「おもしろい状況だとは思いますが」

 深く響く声で問いかけられて、シェレンベルクは余り表情を変えないままで声の主――ヴェルナー・ベスト中将を見やった。

 親衛隊情報部という組織は、一般的に古い規範に捕らわれない姿勢が主流だったためその権力構造はやや特殊な位置づけがされている。

 実際の所、一局の局長がブルーノ・シュトレッケンバッハ中将、三局がオットー・オーレンドルフ少将、四局がハインリヒ・ミュラー中将、五局がアルトゥール・ネーベ中将、六局がヴァルター・シェレンベルク大佐である。こうした局長の面々の中で、しかしシェレンベルクは最下位の階級にありながら誰からも一目置かれている存在だ。

 シェレンベルクは決して相手のメンツに泥を塗るようなことはしない。

 少なくとも傍目に積極的にそうしているようには見えない。もっとも、彼はゲシュタポに所属していた頃から一級の諜報部員であるから、彼の外側ににじみ出るものが彼の全てではないと言うことを多くの人間が理解している。

 ヴェルナー・ベスト親衛隊中将もまた、そうした人間のひとりだった。

「ですが、このまま全てがうまく転がるとはとても思えない、というのが本音です」

 シェレンベルクたち諜報部員というのは基本的に常に敵の視点に立ってものごとを考える。敵だとて馬鹿ではない。

 ソビエト連邦の軍事クーデターにしてもそうだ。

 このままソビエト政府が静観しているとは思えない。

 もちろん現状で静観しているわけではない。しかし、今後このような状況がさらに続けばもっと強硬な手段に訴えてくるだろう。

 とはいえ、英米などはソビエト連邦のカチンの森事件を非難しているが、ドイツ第三帝国の立ち位置と言えばそれをプロパガンダに利用できるとは考えこそすれ、批難できる筋合いではないとシェレンベルクは冷静に考えた。

 一九三九年のポーランド戦の際、ドイツ側は程度の差こそあれ似たようなことをしている。特に、国家保安本部――ラインハルト・ハイドリヒの主導の元でアインザッツグルッペンを指揮してゲシュタポや親衛隊情報将校たちは占領地区の知識人階級に加えてユダヤ人たちの摘発を行っている。

 多くの知識人たちは強制収容所に送られ、シェレンベルクの知る限り多くの人間が過酷な労働によって死んだらしい。彼がたまたまアインザッツグルッペンの指揮官として選抜されなかったのはフェンロー作戦の際にすでにシェレンベルクが真価の発揮をしていたからだ。

 このフェンロー作戦の成功によって、シェレンベルクは第一級鉄十字章を授与されている。

「同意だな」

 うなるようにつぶやいたベストは真剣な瞳をシェレンベルクに向けたまま、深くソファに腰をおろしていた。

「そういえば、ヨスト少将はどんな様子です? 報告では東部ではあまり精神状態がよろしくなかったとのことですが」

「元気にしているよ。こちらに戻ってきたときはだいぶやつれていたが、姫君の相手をしている内に以前の彼に戻ってきたようだな」

 姫君、という言葉に含みを持たせたベストが、ハインツ・ヨストに同情でもしたのか苦く笑うと、シェレンベルクは視線を天井に上げてから長く息を吐き出した。

「……姫君、ですか」

 彼女のことを姫君などとベストは茶化すが本当にそんなに可愛らしい表現ですむものだろうか?

 ハインリヒ・ヒムラーは小心者だから、あるいは必要以上に恐れているのかも知れないが、それにしても、とシェレンベルクは思う。

 決定的な違和感を感じたのは、マリーが国家保安本部の中央記録所の存在を知っていたことだ。通常、国家保安本部(RSHA)の外にいる人間たちには極秘にされている。

 存在そのものを知っていたとしても、中にある情報を知るわけがない。

 ただ、「ゲシュタポはどこにでもいる」と恐れられる程度には伝説的なのだ。

 都市伝説と言ってもいいのかもしれない。

「ところで、彼女がプラハに行くのだと言っていたが、ナウヨックスを護衛として同行させてもらいたい」

「構いませんよ、こちらとしてもベスト中将のご配慮はありがたいですから」

「どうも、あの娘はふわふわしていて危機感が足りない。ナウヨックスであれば適任だろう」

「ですが、彼を特別保安諜報部に配属させたのは別に彼女の護衛をさせるだけ、という理由でもないでしょう」

「おそらくな」

 シェレンベルクの言葉に相づちを打ったベストが頷いて無言を挟む。

「わたしとヨストは武闘派ではない。ならばどうしたところで、手足となる優秀な戦闘員が必要だ」

 彼女はどこか地に足がついていないといった様子もあるが、しかし、遠い位置から観察してみると決して地に足がついていないわけではない。

 むしろ大人たちよりも冷静に、彼女は自分自身の、そして自分が指名した補佐官たちの優れた点と、足りない点を見極めた。

「気味が悪いほど自分に”なに”が必要なのかを理解している」

 結論づけるベストの言葉に、シェレンベルクも言葉を紡がない。

 長い沈黙が室内を満たした。

「プラハと言えば、ダリューゲ上級大将が今は副総督だったか」

 言いながらベストの眉間が寄った。

 インテリ嫌いのハイドリヒから嫌われた程の堅物の裁判官は、眉をひそめたままでクルト・ダリューゲの粗暴な顔を思い出したのか心底嫌そうな顔をした。

 マリーの手前では大人の余裕を見せてそんな表情はかけらも見せなかったが、シェレンベルクの前であればまた異なる。

「お嫌いみたいですね」

「……なんだ、大佐はあの男が好ましい男だとでも言うんじゃあるまいな?」

 突撃隊(SA)出身の権力欲に取り憑かれた男。

 それがクルト・ダリューゲだ。

 ラインハルト・ハイドリヒの生存中は、この秩序警察長官はハイドリヒの権力に飲み込まれ実権を失った。しかし幸運なことに目の上のたんこぶとも言えるハイドリヒが死んでからはベーメン・メーレン保護領の副総督として任命され政治の世界に返り咲いた。

「どうでしょう? ですが、中将。愚かな者ほど時には御しやすいものです」

 静かに告げながらシェレンベルクが低く笑うと、ベストは「フン」と呟きながら肩をすくめる。

「オーレンドルフ少将といい、参謀本部のゲーレン大佐といいなにやら探りをいれているようだが、わたしにはどうもあの手の腹芸は苦手だ」

「おや、お気づきですか」

「……――」

 まさか、オットー・オーレンドルフやラインハルト・ゲーレンの噛んでいる事態に、シェレンベルクまで噛んでいるのではないか。

 そんなことを想像して、ベストは思い切り苦虫をかみつぶしたような表情になった。

「まったくもって貴官がなにを考えているのかは理解できんな」

 オーレンドルフ、ゲーレン、そしてシェレンベルクが噛んでいると言うことは、十中八九、国防軍情報部のヴィルヘルム・カナリスも異変を察知していると言うことに他ならない。

 乱立するドイツ国内の情報機関がそれぞれにとはいえ、動き出しているということはそれなりに重大ななにかが動き始めていると言うことなのかもしれない。

 諜報部員ではないベストからしてみれば、シェレンベルクやオーレンドルフの暗躍は薄気味悪いものでしかないが、おそらくそれは国家保安本部の外に関わる問題だろう。

「またわたしの首を飛ばすつもりじゃないだろうな?」

「そんなことはつゆほども思っておりませんので安心してください」

 まぁ。

 シェレンベルクは言いながら首を傾げた。

「遅かれ早かれ、事態は動くと思います。ソ連の軍事クーデターがどうなるかにかかっていますが。その結末次第で事態は大きく動くでしょう」

 つまるところ、「ソ連の援助がなくなった場合、共産主義者とつながっている諜報員が馬脚を現すだろう」と言っているのだ。

「それと、中将。おわかりのこととおもいますが、彼女の問題です」

「……そうだな。いずれ連合国にも知られるだろう。そのときに、彼女がどう振る舞い、我々がどう判断するか」

 まだ十代半ばの情報将校が女だと知られれば、彼女の身に危険が及ぶことになるだろう。知識人の筆頭とも言えるベストから見ても、マリーの体型は余りにも貧弱で不安を感じる。

 細く華奢な体型は、一般的なドイツ人男性であれば簡単にねじ伏せられる。おそらくベストが彼女を組み敷いたとしても、抵抗などろくにできないだろう。

 彼女はそれほど儚げだ。

「そうです」

 彼女はドイツ第三帝国の親衛隊情報部、あるいは国家保安本部において穴になる存在だ。万が一、かつてのフェンロー作戦の時のように逆に拉致されるようなことになれば、一大事だ。

 なにより、連合国側の訊問もそれなりに悪辣だ。

 彼女が拉致されたとしたら情報の漏洩は避けられない。

 そのために彼ら、諜報部員たちは自殺用の毒物を作戦を行うときは肌身離さず身につけているのだから。

「年若い娘に、死を強要するのは、残酷なものだな……」

 ヴェルナー・ベストがぽつりとつぶやいた。

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