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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIV レメゲトン
329/410

12 人と人の世界とつながり

 つい昨年の中頃まで肥満のひどかった男は大きな手のひらで顔を撫でながら、ヴィルヘルム・カイテルとエーリッヒ・レーダーとに相対していた。

 ヒムラーからの連絡によると、国家保安本部の主導によってマルティン・ボルマンの捜査はこの二月からはじめられるらしい。

 アドルフ・ヒトラーに対する――ドイツ第三帝国に対する重大な裏切りに対する容疑。その捜査の準備段階ではあるが、まがりなりにもボルマンはヒトラーの側近であったわけだし、ナチス党(NSDAP)の官房長でもあった。

 上官であったルドルフ・ヘスが双発の戦闘機でイギリスに脱出して以来、権力はマルティン・ボルマンの手の中に急速に集まりつつある。彼の目を通さなければ、国家元首であるヒトラーになにひとつの報告すらできなくなるのではあるまいか。

 そうした危機感を、一部の権力者たちは抱きもした。

 しかし、そんな権力の権化とも言えるボルマンが失態を演じた。

「あの”ならず者”に戦争のなにがわかる」

 苦々しく呟いたゲーリングに視線を走らせてから、カイテルはこつこつと指先でテーブルをたたいた。

 数秒考え込んでから、口の上にヒゲを蓄えた屈強な体つきの職業軍人は鋭い眼差しを上げる。

 もっとも、勇ましいのは外見だけだ。

 カイテルは参謀将校出身で、実のところ、未だに一個軍の前線指揮すら経験したことはない。

 おべっかつかいのカイテル。

 自分がそう揶揄されていることをカイテルは知っていたし、なんとかしてそんな評判を免れたいとも思う事もあったが、なかなか思うように行動する自由を得られない。

 彼の前任者とも言えるヴェルナー・フォン・ブロンベルクとヴェルナー・フォン・フリッチュは、確固たる信念を持つ立派な軍人だった。共にヒトラーが権力の座に駆け上がるに際して、邪魔者として事実上「処分」された。

 恐怖政治――。

 そう言うのが相応しい。

「ボルマンが戦争のことについてなにも知らないのはもっともだが、それによって”我々”の失敗が見過ごされるわけではあるまい?」

 長い間考え込んでいたカイテルが口を開くと、ゲーリングはフンと馬鹿にしたように鼻を鳴らしてみせた。

「とにかく、ボルマンの奴が敵……、ソ連に通じ情報のやりとりをしていたことは、我が国の国益を損ねる行為に他ならん。我が軍の情報を売り渡し、奴らに付け入る隙を与えた罪は重い」

「ふむ」

 カイテルは腕を組み直してふんぞり返ったゲーリングにちらりと視線を放ってから、その眼差しをエーリッヒ・レーダーに向ける。

 陸軍はともかくとして、空軍はゲーリングの存在感もあって、予算の多くを勝ち取っているが、レーダーの率いる海軍はそうではない。

 空軍などよりも歴史の長い海軍だというのに、未だに日陰の身だ。

「……それで、ゲーリング元帥はどうされるつもりだ?」

 たかがパイロット出身の空軍元帥。

 そういった面から見れば、カイテルとレーダーのゲーリングに対する評価は低い。

 どれだけ戦争のことを知っているのか。

 確かにゲーリングは先の欧州大戦の際には、最前線でかのエースパイロット、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの部下として名を馳せた名パイロットであり、殺しあいを経験した生粋の戦史なのかもしれない。

 しかしそれでも、レーダーとカイテルにしてみれば、やはり所詮蛮人めいた兵隊のひとりでしかないのだ。そんなゲーリングが、したり顔で戦争を語るとは笑い話にもならない。

 鼻っ柱ばかり高いゲーリングの自尊心を刺激しないようにレーダーが穏やかに問いかければ、ヒトラーの側近のひとりでもある彼は腕を首を傾けてから、眉間を寄せた。

 春が来れば、政府首脳部はアフリカに駐留するイギリス軍の攻略に本腰をいれるだろう。その攻撃の要となるのは、おそらくゲーリングの空軍と海軍になる。その大舞台こそゲーリングが名誉を挽回する機会になるだろう。

 それはカイテルもレーダーもわかっていた。

 ゲーリングは、一昨年前の対イギリス戦の失敗と、対ソビエト連邦戦での失敗によって、すっかりヒトラーの信頼を損なっていることを自覚している。だから、彼にはもう後がないも同然なのだ。

「ボルマンの役立たずが、我が国防軍の力を削いでいた事態は明白だ。ひいては国益を損ね、ドイツの力を衰退させる。”害虫”は駆除すべきだ」

 言い放ったゲーリングに、レーダーは内心で肩をすくめた。

 つい最近までその国益を損ねていたのは、ゲーリング自身に他ならないのだが、プライドの高すぎる国家元帥は認めたがらない。自分の失敗を認めると言うことが、ヒトラーの機嫌を損ねることだとでも思っているのかもしれない。

「わたしの権限を駆使して総統閣下の周辺に探りを入れることにしよう」

「あぁ、よろしく頼む」

 カイテルは苦笑いを浮かべながら、ゲーリングに鷹揚に頷いてから「そういえば」と言葉を続けた。

「ボルマンがマリーに手を出したとか?」

「正確には出しかけた、らしい。ゲッベルスが情報を寄越した」

「なるほど……」

 わずかに顔色を曇らせたカイテルのそんな表情が余り面白くなかったのか、ゲーリングはもう一度眉間にしわを寄せる。

「どうせならよろしくしている最中に総統閣下が突入したほうが面白かったんじゃないか」

 悪意のこもったゲーリングの言葉に、カイテルは実に不愉快そうな表情になってから青い瞳を曇らせる。

「さすがに室内からそういう声が聞こえてきたら部屋に入らないんじゃないのか?」

 もっともなカイテルの声にゲーリングは小さく舌打ちを鳴らした。

「とにかく、ボルマンの失態はこちらとしても願ったりかなったりだ」

 ヒトラーの顔色を窺っているのは、カイテルやレーダー、ゲーリングだけではない。ボルマンも同じだ。

 マルティン・ボルマンも、ヒトラーの周りに集う権力の甘い蜜に群がる羽虫でしかない。

 ソビエト連邦のスパイ網、赤いオーケストラへの関与の罪は重い。

 おおかた、万が一、ドイツが敗北することになった際の保険かなにかのつもりだったのかも知れない。



  *

 マリーがひとまず自宅のアパートメントに戻ってきたと言うことで、護衛という形の隣人たちは安堵の息をついた。

 若いゲシュタポの捜査官はふたりとも独身だが、共に出自は保障付きでさかのぼること十六世紀からドイツに居を構える生粋のゲルマン民族だ。

 多忙な少女の情報将校がひとりで生活するにはなにかと不便も多く、さらに言うならば年中親衛隊高級指導者らが顔を見せるので、住人たちは心が落ち着く暇もない。特に、彼女を心配してか、ことあるごとに顔を見せるのはゲシュタポの長官であるハインリヒ・ミュラーと、そのミュラーの知己であるというヨーゼフ・マイジンガーだ。

 他にも多くの制服の高官たちが入れ替わり立ち替わり彼女の自宅――花の家ハウス・デア・ブルーメンを訪れる。

 恐怖政治の中枢とも呼ばれる国家保安本部の高官たちが四六時中顔を見せるという条件下で、なにも心配せずに生活しろというほうが無理な話だろうが、そんな周囲の気苦労をよそに訪問されるマリーのほうは、いたって暢気に生活していた。

「年末は散々だったみたいだな、マリー。体のほうの調子はどうなんだい?」

 ゲシュタポの青年捜査官に気軽に問いかけられてマリーは花が咲いたような笑顔を浮かべるとドアノブに伸ばしかけていた手を引っ込めてから、大柄な男を眺める。

 本来は一般親衛隊ではなく、武装親衛隊の予備人員として選抜されていたはずの青年で、一八〇センチを軽く越える身長と頑強な体つきから、第一SS装甲擲弾兵師団に配属が決まっていた。

 ヒムラーの鶴の一声によってマリーの護衛官のひとりとして選抜されたが、第一SS装甲擲弾兵師団”アドルフ・ヒトラー親衛隊”に配属が決まっていたことからもわかる通り、正真正銘のエリートだ。

 学識も高く、紳士的な態度――。

 エリート中のエリートと言っても良い彼を武装親衛隊から引き抜こうとしたヒムラーの横暴に、親衛隊作戦本部長官のハンス・ユットナーと親衛隊人事本部長官のマクシミリアン・フォン・ヘルフの両大将が良い顔をしなかったらしいと言うのは余談である。結局は、無邪気な少女の笑顔に当初の印象とは裏腹に、骨抜きにされてしまったハンス・ユットナーが彼女に対して苦言を呈するのをやめてしまうのはそれほど遅くはなかった。

 もっとも、堅物のつもりの本人が「少女に骨抜きにされた」などと言われれば、「断じてそんなことはない」と言い切るのは目に見えているから、傍から見ている者たちは口を噤んだ。

 ハンス・ユットナーのそんな変化に気がついていたのは、親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフだが、彼は彼で、破天荒なマリーの登場以来、気まずさを増していたハインリヒ・ヒムラーとの関係が改善したのだから文句などあるわけもなく、彼女の行動と発言を生暖かく見守っている。

「もう大丈夫だけど、入院って退屈なのよ! いつも見張られてるし……」

 唇を尖らせて青年に講義するマリーに、エリート捜査官は朗らかな笑い声を上げる。

 ゲシュタポ・ミュラー――国家秘密警察の長官が彼女に入れ込んでいることは周知の事実だったから、当然のように人間関係については青年も知るところだ。

 多くの男たちがそうだったように、彼もまた、当初は何の取り柄もなさそうな、間抜け面の少女を小馬鹿にしていた。けれども、うまく表現はできないがなにかが違うのだ、と思えるようになってきたのは、マリーに毒されてきたからだろうか。

 彼女はいつもそうだ。

 権力に決して捕らわれる事をしない。

 縛られず、誰よりも自由に伸び伸びと発言して恐れない。権力に媚びる女そのもののサガでもない。

 不思議な少女。

「この間は、アイヒマン中佐が来ていたようだが」

「新年だからってプレゼントくれたのよ」

 屈託のない笑顔で、青年の手を引っ張った彼女は「見る?」と小首を傾げてやはり華やかな笑顔をたたえる。

「男を簡単に家の中に連れ込むもんじゃない」

 そんな彼女の屈託のなさにあきれ気味にそう言えば、大きな青い瞳を見開いてからすぐに口元に手を当てるとクスクスと笑って彼の手を引いた。

「わたしに”悪い事なんて絶対しない”人のことを、どうしてわたしが警戒しなければならないの?」

 彼女はそうだ。

 いつも馬鹿みたいに人を信用しきっている。

 いつも守られているから、頭のねじが二、三本飛んでいるのだろうか?

 だとしたらだいぶん問題だ。

 そんなことをぐるぐると逡巡していた彼だが、「それに」と続けた彼女の言葉に我に返った。

「それにね、ひどいのよ、ハイゼンベルク博士とゾンマーフェルト先生」

 ふと思い出したようにプリプリと怒った表情を見せた彼女が、片手で扉の鍵を開けてからゲシュタポの捜査官を手招いた。

 リビングの簡素なテーブルの上にはノートと教科書が載せられている。

「……それは、もしや教科書か?」

「そうなの」

 中身をぱらぱらとめくれば、これまた青年が何年か前にギナジウムで見たものと大差がない。

「えーと、これはギナジウムの教科書か?」

 それにマリーの口から出た名前も青年の記憶に残っていた。

 アルノルト・ゾンマーフェルトとヴェルナー・ハイゼンベルク。

 法律家として知識を積み上げた青年には専門外も甚だしいが、高名な学者であるという評判は高い。

 特に後者はドイツの秘密計画に関わる科学者だ。

 そして、どちらも数年前に「白いユダヤ人」という烙印を押された科学者でもある。

「ゾンマーフェルト教授? 物理学の?」

「そうなの、宿題が……」

 眉をひそめた彼女はひどく憂鬱そうに溜め息をついてから、ガスレンジにやかんを置くと、ガスをつけると椅子をすすめた。

 歴史あるミュンヘン大学の理論物理学の追及に生涯を捧げ、さらに後進を率いたゾンマーフェルトの名前は世界に響き渡る。ノーベル賞の受賞についても何度も推薦に上がった名科学者だ。

「それはいろいろ同情の余地がありそうだなぁ……」

 名誉ある最高学府――ミュンヘン大学の物理学科を率いたゾンマーフェルトの宿題など、想像したくもない。そもそも、一流の科学者の指導に彼女がついていけるのかどうかも疑問が残る。

 うーむ、とうなり声を上げた青年は、そうして彼女がコーヒーを煎れて戻ってくるのを待ってから教科書とノートを開いてゾンマーフェルトの宿題とやらにつきあうことになった。

 それにしても、彼女は意外に人脈が広い。

 青年はそんなところに関心を示した。

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