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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIV レメゲトン
328/410

11 搦みつくもの

 懐から煙草を取り出したシェレンベルクは、夕暮れ時のプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにある国家保安本部のバルコニーに立って思案に暮れる。連日のように降り積もる雪は、スタッフによってそこだけ清掃されて、ほとんど雪がない状態に保たれている。

 そこはマリーがひなたぼっこをするバルコニーだからだ。

 昨日、「作戦」が終わりマリーも帰宅して、さらにその翌日、廊下で彼女と顔を合わせた際に言葉を交わしたことを思い出す。

 曰く――目が醒めたら官房長が覆い被さってきていてびっくりした。

 びっくりした、だけで済んだのは薬による強制的な眠りから覚めたばかりでぼんやりとしていたからだろう。

「それでどうなったんだ?」

 いけしゃあしゃあと何食わぬ顔で問いかけたシェレンベルクにマリーは少しだけ困惑したような表情になってから、こう言った。

「それからすぐに総統閣下の声が聞こえてきて、官房長閣下が固まったのよ」

 さすがに情事を他人に見慣れて良い気分がする者はそうそう居はしまい。

「なにもされなかったのか?」

「なにもされなかったけど、どうしてわたし、あんなところに運ばれていたの?」

 もっともらしい彼女の問いかけに、シェレンベルクは手のひらで軽く彼女の背中を叩いた。

「”部下の仕事だ”」

 本来彼は、女性諜報部員たちにハニートラップに類する行為を推奨するような男ではない。そもそも「枕営業」などしたところで、ベッドでそれほど多くの情報が得られるわけでもないことを、すでにれっきとした事実から知っている。

「ふぅん……?」

 要領を得ない顔でシェレンベルクに小首を傾げた彼女に、踵を返しながらそれ以上の言葉を交わすのを拒絶するように顔の前で片手を振った。

「わたしは仕事が詰まっているから、これで失礼する。昨日は”ご苦労だった”」

「……――?」

 ご苦労だったと言われてもマリーにはなにがなんだかさっぱりわからない。そんな気配が伝わってきた。もっともわけがわからなくても別に良いのだ。

 人には人の役割というものが存在している。

 そして、役割を果たすために状況があるのだ。

 知能が低く、利用価値がその程度の人間ならばそう扱うのが然るべきだ。シェレンベルクはそう思った。とはいえ、彼女とそれ以上の会話が億劫だったからその場を離れたというわけでもなくて、実際のところ、シェレンベルクは「作戦」を決行してから執務室を訪れる多くの高官たちの批難の相手をしなければならず、それはそれで多忙を極めていた。

「どういうつもりだ」

 キィと窓が開く神経質な蝶番(ちょうつがい)の軋みを立てる音を上げて、バルコニーから出てきたのは国内諜報局長を務めるオットー・オーレンドルフ親衛隊中将である。

 少なくとも、とシェレンベルクは彼を評価した。

 オットー・オーレンドルフは、シェレンベルクなどと比べれば、立派な政治思想の所有者で、若いながらもその生き方は一本の筋が通り充分に尊敬に値する人物だ。

 しかし、とシェレンベルクはそんなオーレンドルフをこうも評価する。

 ――そんなに融通が利かない頑固頭では、この先の政治闘争を生き残れはしまい、と。

「どういうつもりと言いましても、見たとおりですが」

「フン」

 応じたシェレンベルクにオーレンドルフが鼻を鳴らした。

「取り返しの付かない事態になったらどうするつもりだ」

「珍しく常識的なことを言うんですね、中将」

「……シェレンベルク」

 揶揄するようなシェレンベルクの言葉に、オーレンドルフはわずかに片眉をつり上げる。

「俗物が大物を気取ったところで、俗物であることに変わりはありません。それに”結果的に何事もなく”こちらの罠にはまってくれたのですから、問題ないのではありませんか?」

 煙草を口元にくわえたままでシェレンベルクがそう告げると、オーレンドルフは腕を組んだままで考え込んだ。

「それに、今回の件で”お偉方”から突き上げをくらっているんですから、中将まで渋い顔をされるのは勘弁してください」

 分野こそ違えど同じ諜報を束ねる立場である。

 だから、オーレンドルフはシェレンベルクの言うことをわからないわけではない。彼の言う通り結果的に考えれば、シェレンベルクは部下(マリー)を危険にさらしたわけではない。

 そもそも警察に関係する治安維持組織でもある国家保安本部に所属する捜査官は、その多くが危険な任務にも対峙せざるを得ず、通常の事務職などと比べれば危険な場面に対面する機会は多い。

 シェレンベルクの言う「お偉方」というのは、十中八九、カルテンブルンナーやミュラー、ネーベ辺りといったところだろう。余り表情に出すことはないが、人事局を指揮するシュトレッケンバッハも大概、マリーに甘い嫌いがある。それをオーレンドルフは知っている。

 ついでを言うと、オーレンドルフ自身も彼女にはついつい表情がゆるんでしまうところもある。そうしたことを考えれば、カルテンブルンナーらがマリーに甘い、と渋面になるには人のことを言えないところがあった。

 人好きの笑顔を絶やすこともせず、ヴァルター・シェレンベルクという男はやんわりとオーレンドルフを牽制する。

 少なくとも、人の命の重さなどと道徳面をして語るような時代ではないと言うことも明かで、それらはまさしくゴミ屑と大差はない。

 自分の命も、人の命も――そうしたものだ。

「しかし、国家保安本部が絡んでいることはそのうち漏れるのではないか?」

「もちろん、想定しています」

 国内諜報局長の言葉に、シェレンベルクは表情をぴくりと動かすこともなく同意する。

「人の口に戸は立てられませんので、総統閣下の耳に入るのにそれほど時間はかからないでしょう」

 そんなことはわかっている。

 シェレンベルクは薄く口元に笑みをたたえると、バルコニーの手すりに積もった雪を片手で払いながらオーレンドルフを振り返った。

「”彼女”との行為が同意の上であったのか、なかったのか。そんなことはこの際どうでもいいのです。問題は、総統閣下の疑惑が、あの男に向けられるか否か。強い不信感を植え付けることができれば、我々にも勝ち目はあります。いずれにせよ、ボルマンは情報と警察組織を一手に担う我々を疎ましく思っていたことは動かぬ事実。あとは、国防軍がどう動くかということになるでしょうが、そちらはそれほど杞憂の必要はないかと思っています」

 国防軍司令部総長を務めるカイテルの権力はともかくとして、空軍総司令官ゲーリングの影響力は大きく無視できない。しかし、ゲーリングとボルマンの関係が良好ではないことは周知の事実だった。もっとも、ボルマンに良好な関係を築いている者がいるかと言えばそうした存在もない。

 ヒトラーのお気に入りであるが故に、その地位を約束されている。

 ただそれだけだ。

 彼の地位は薄氷の上にかろうじてバランスを保っているに過ぎないのだが、それを本人は理解していない。

 マルティン・ボルマンが年端もいかない子供に手を出した、という噂はあっという間に広がったが、それに対してボルマンの政敵でもあるヨーゼフ・ゲッベルスは直感的に「これは国家保安本部が大きく関与しているに違いない」と思ったが、大嫌いなボルマンにわざわざ手を差し伸べてやるつもりはかけらもなく、宣伝省内に厳重な箝口令(かんこうれい)を敷いて、ゲッベルスはその自慢の口を閉ざしてしまった。

 一方で、空軍総司令官でありナチス党(NSDAP)の古参党員でもあるゲーリングのほうは、これ幸いとボルマンの権力を失墜指せるために活動を開始した。彼は元々、ゲシュタポを束ねていたことから、そうした工作活動に抵抗はなかった。外務省のリッベントロップと軍需省のシュペーアは、ボルマンの権力の拡大しつつあったことを内心で面白くは思っていなかったらしく、ゲッベルス同様、積極的な関与を渋った。

 他にも諸々あるが、ボルマンの失脚を心の底から喜んでいた者たちの多くが、ボルマンにとって助けになるような口添えをすることもなく、彼の失態と、謀略の証拠をヒトラーに提出した。

 中でもヒトラーを激怒させたことは、ナチス党(NSDAP)の金庫番と呼ばれながらもその資金をごく私的に運用してきたことと、ほかでもないソビエト連邦共産党と繋がるスパイ組織――赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)と緊密に情報のやりとりをしていたことだった。

 前者はヒトラーのお気に入りであるという事情があれば看過されることもあったかも知れないが、後者は違う。

 ドイツの国益を損ね、ドイツを崩壊させる引き金だ。

 派手な女性関係を噂されるのはボルマンだけではなかったが、大の大人である彼がどう見ても少女の寝込みを襲っているようにしか見えない光景を目の当たりにしたヒトラーは、結局、それらの諸々の事情を烈火のごとく怒り狂いマルティン・ボルマンから権限の一切を取りあげると更迭した。

 ちなみにボルマンに対する追及によって、ヒムラーが個人的に党本部から資金の提供を受け、愛人と関係を持っていたことが発覚したが、弱気を絵に描いたようなヒムラーが借りてきたネコのように殊勝に「妻との関係の修復に尽力する」とヒトラーに釈明したため、これはこれで不問とされた。

 党本部の資金の横領のほとんどは、マルティン・ボルマンによって仕切られたこと。その事実とヒムラーの素直な告白が結果的にボルマンの悪あがきの比較対象とされ、ヒムラーの印象の悪化を避けることになったのかも知れない。

 いずれにしたところでヒムラーの権力は首の皮一枚でつながったことになる。

 親衛隊全国指導者個人幕僚本部にある執務室で、ハインリヒ・ヒムラーは大きな溜め息をついた。

 彼女――彼は、「大丈夫」だと言った。

 確かにボルマンが受けた仕打ちを考えればだいぶん「まし」ではあるが、それでも小心者の彼には未だに安堵の息がつくことができない。

 事態が落ち着けば、今度はヒトラーの怒りの矛先は自分に向けられることになるのではないかと不安を感じる。

 今すぐにでもプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに出向いていって、彼女の言葉を聞きたいが、国家首脳部が混乱を極めている以上、そういうわけにもいかない。そわそわとヒムラーは外線に繋がった電話を眺めながら、長い冬の日を過ごす。

 そうこうして、一月も終わりに入り、ボルマンの権力は正式に剥奪された。

 カイテルとゲーリングの関係は幾分か改善し、レーダーとゲーリングの関係も改善しつつあった。とはいえ、本来、反ナチス的な色合いの強い陸海軍はどちらにしたところで、未だに国家中枢の政策に対して疑念を向けている。

 権力構造が多少変わったというだけで、現実問題が改善されたわけではないのだ。



  *

「ボルマンがひとりで勝手に自滅してくれたことはありがたいことではありますが、それで総統閣下の気性の激しさがおさまるわけではない」

 静かな口調で相手に告げた気品のある提督は、袖に縫い付けられた幾本もの金色の袖章を軽く撫でながら首を傾げてからかすかにほほえんだ。

 紳士的で人当たりが良い生粋の参謀将校だ。

 もっとも相手は弱小の海軍の参謀将校である。どこまで事態を把握しているのか知れたものではない。

「陸軍には陸軍の言い分もありましょうが、もう少し、情報部の手腕を評価してはいかがか?」

 穏やかに老紳士に見えるレーダーが告げた。

 エーリッヒ・レーダー。事実上、彼がドイツ海軍の頂点に立つ。とはいえ、彼は常に予算不足と人員不足に格闘しており、昨年のくれにやっとデーニッツの潜水艦隊につける航空支援をゲーリングから勝ち取ったばかりだ。

 政争とは本来そうした、引くべき所と推すべき所を見極めなければならないデリケートなものだが、年齢もありレーダーは若いゲーリングを相手にそうした駆け引きをしなくてはならないことに疲労困憊している。加えて、国防軍情報部からの打診についても彼は頭を悩ませていた。

 国防軍情報部(アプヴェーア)を取り仕切るのは、海軍大将――ヴィルヘルム・カナリスで生粋の海軍人である。彼が海軍の人間であり、潜水艦の艦長を務めた経歴もあることから、陸軍から潜水艦乗り上がりの情報将校と軽んじられている。

 そして、彼の意見を現実的ではないと否定したことから、バルバロッサ作戦の際の悲劇は始まったのだ。

 多くの若者たちの命が無為に散っていった。

 それをエーリッヒ・レーダーは遠くベルリンの空の下から悼んだ。

 海軍の兵士たちではないから死んでも良い、ということではないのだ。

「若い連中は、死んではならない。そうは思わないか?」

「……わかっている」

 しかめ面のままで、レーダーと言葉を交わしているハルダーはぽつりと独白した。

「わたしが、カナリス大将の意見が現実的ではないと退けたのだ」

 潜水艦乗り上がりの情報将校になにがわかる。

 海と陸ではやり方が違う。

 だから、カナリスの意見は聞くに値しない。

 そう判断した。

 正確にはハルダー個人がカナリスの意見を否定したわけではないが、結論は同じだ。カナリスはアプヴェーアの指揮官であり、ハルダーは陸軍の実権を握る。

 要するに結論だけを見れば、ハルダーがカナリスの意見を退けたという形になった。

「今後、”レーダー提督”の意見も考慮する」

「感謝します」

 ハルダーの言葉に、レーダーはにこりとほほえんだ。

 権力者の顔色ばかり窺っている参謀屋などと嫌みを言われることもあるが、それこそがエーリッヒ・レーダーという男の真価でもある。

 現場の人間とは一線を画する貴族的で、紳士的な横顔に穏やかな笑みをたたえる。そして、そんな彼の真価が一九四三年を迎えて頭角を現しつつあった……。

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