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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIV レメゲトン
326/410

9 明確な区別

デンマークの首都(コペンハーゲン)が、どうしてヨーロッパ本土じゃなくてシェラン島にあるのかは知りませんけど、不便じゃないんですか?」

「そうは言うが、昔はスカンジナビア半島とヨーロッパ本土を股に掛ける商業都市だったんだぞ。我が国にとっては重要な商業拠点でもあったし、大西洋とバルト海をつなぐ海運の要所でもあるんだ。それに島とは言っても一七四〇万エーカーだ」

「……一七四〇万エーカー?」

 唐突に大きな単位を言われても、正直なところぴんとこない。

 大学生のニールス・ボーアの息子、オーゲ・ニールスにそう説明されて、マリーは眉間にしわを寄せる。

「うーん、二七〇〇平方マイル……、だいたいベルリンの十倍くらいだ」

 大雑把に言われて、マリーはぽんと左の手のひらに右の拳を打ち鳴らした。

「よくわかんないけどわかったわ!」

 父の話を漏れ聞いたところによれば、彼女に基礎教育をしているのはどうやらかの有名なミュンヘン大学で教鞭を執ったアルノルト・ゾンマーフェルト教授と、同行してきた退役軍人らしい。他にも数名、暇をもてあました知識人たちが、彼女の教育係を引き受けているのだという。

 よくわからないけれども、わかった。

 そう言った少女にオーゲ・ニールスはげんなりと頭を垂れた。

 要するにわかっていないのだ。

 わかっていないのであればわからないというのが常識的だろうと、大学生のオーゲは考えるが、どうやら目の前の相手にはそれが通用しないらしい。

 やれ困ったものだ、と小首を傾げたオーゲに、マリーはにこりと笑うと冷たい指先でそっと彼の片手を掴んで引っ張った。

「人魚が見たいわ!」

「……結構がっかりだぞ?」

 おとぎ話に出てくるような美麗な人魚とは言い難い。

 女性の像の足に申し訳程度にひれが付いたような代物だ。そんなものだから、地元の人間には特に大した関心も向けられない。

「せっかくコペンハーゲンまで来たんだから見ておかないと!」

 鼻の穴を膨らまして力説するマリーに、視線を頭上に上げたオーゲ・ニールスはぎろりと鋭い視線を走らせてくるナチス親衛隊の中尉に困惑したように視線を向ける。

 ドイツの秘密警察に目をつけられるというのは、父親の立場も含めるとオーゲには余りありがたい話ではない。

「別に俺は案内してやってもいいんだが……」

 親衛隊の制服を身につけた男が後ろからつきまとってくるのは余りぞっとしない。もっとも、そんなことを言ったところで、彼の隣で明るい笑顔で言葉を交わしていた金髪の彼女も親衛隊員なのだが、彼女はというとどうにもいまひとつ危機管理能力に欠ける言動を繰り返しているせいで、傍目には親衛隊員が身につける威圧感がないように見える。

 親衛隊に気をつけろ。

 しかし彼女からそうした親衛隊独特の威圧感がないからと言って、父親からそう忠告されているオーゲは、マリーに対する警戒心を解いていなかった。

「君には恐いお目付役がいるじゃないか」

 口ごもるオーゲにマリーは思い出したように扉の脇に仁王立ちしている若い青年士官に視線をやってから、オーゲを見直した。

「恐くなんてないわよ?」

「俺はいやだ」

 監視されるなんてまっぴらだ。

 オーゲはむっとした様子で青年士官――ヨーゼフ・メンゲレを流し見てから、肩をすくめる。

「そうなの?」

「そう」

 マリーと言葉を交わしながら、オーゲは第三者である故にそこに存在する確かな違和感を鋭敏に感じ取った。

 彼女からは駅で出逢った時から奇妙な違和感を覚えていた。その正体が、今まで気がつかなかったのだが、父親のニールス・ボーアと彼女が「散歩」から帰ってきて、暖炉の熱で空気の暖められた応接室でなにげなくマリーと話をしていて、その違和感の正体を見極めた。

 まるで……――。

 オーゲ・ニールスは眉間を寄せる。

 まるで、言葉のキャッチボールにならない。

 彼女は思ったことをそのままに口にしているだけで、悪い言い方をすれば「なにも」考えていない。良い言い方をすれば素直なのだが、単に「素直だ」と彼女を評価するのはなにかが違うような気もする。

 会話のドッジボールだ。

 小さなうなり声を上げたまま考え込んでしまったオーゲ・ニールスを尻目に、やはり同じ部屋の片隅でなにかを話し合っているニールス・ボーアと親衛隊中将のヴェルナー・ベストの元に歩み寄ったマリーは、なにやら身振りを交えてふたりに話し込んでいた。

 相手が親衛隊員でなければこんなに気を遣わなくてもすむのに、とオーゲは憮然として考えながら、視界の隅で「キャー」っと子供のように悲鳴と両手を上げると、やはり両脚で小さくぴょこんと跳ねた。

 おおかた、ニールス・ボーアとヴェルナー・ベストに了解を得たといったところだろう。

「どれ、わたしも一緒に行こうか」

「……?」

 ソファからゆっくりと立ち上がった長身の退役軍人の姿に、オーゲは一瞬ギョッとした様子で瞠目してから閉口した。

 ドイツ国防軍陸軍――元陸軍参謀総長、ルートヴィヒ・ベック上級大将。

 厳つく鋭い眼差しが、確かに生え抜きの軍人であったことを如実に物語る。

「なに、わたしはナチの連中の側ではない。心配いらんよ」

 ぼそりと小さくオーゲ・ニールスにささやきかけたベックに、内心を見透かされたように感じたのか、若い大学生はうなだれると視線を伏せた。

 ナチス親衛隊に、考えるところを推察されるようなことなどあってはならない。

 ナチ、と侮蔑するように告げた元陸軍参謀総長にオーゲは膝の上で拳を固めてから、表情を改めると顔を上げた。

「ですが、監視ならお断りします……」

「ベックさんも来てくれるの?」

 マリーと人魚像を見に行くだけなら何の問題もないが、親衛隊や退役したとは言え軍人がオーゲについてくるとなると話は違う。

「せっかくコペンハーゲンに来たのだからな」

 少女と老人の会話が重なって聞こえる。

 どうやらオーゲと共に、マリーが人魚を見に行くのは規定の事実となりそうだ。

 なにか言いたそうに視線を彷徨わせているのは、青年の父――ニールス・ボーアで、息子の身の心配をしているようにも見えた。

「む、息子になにかあるようなことがあればわたしはデンマーク警察に告発する」

 半ば声を震わせながらそう告げたボーアに、マリーは両方の手を腰に当てると胸を反らせて、なぜか偉そうに言い放った。

「人魚を見に行くだけって言ってるじゃない!」

「それが心配だと言っているのだ。もしかしたら、息子を盾にしてわたしにとんでもない要求をしてくるのではあるまいな」

「……とんでも、ない、要求……?」

 ニールス・ボーアは墓穴を掘った。

 なにも考えていない少女相手に言うだけ無駄な話だ。

「別になんにも考えてないけど?」

 デンマークからの出国禁止、あるいはユダヤ人の拘留。もしくは、ボーアの知性と立場の悪用。そうした複数の危惧に頭を抱えているボーアは、息子の身を案じつつもデンマークに身を隠す数多くの同胞のために心を痛める。

 ドイツの支配下に置かれた危険なデンマークの首都、コペンハーゲンの理論物理学所に滞在し続けたのも、ヨーロッパ大陸から数多く逃れてくる優秀な科学者たちのためだった。

 彼らのためになにかをしなければならない。

 そう確信していたボーアは、自分の信念に従っていた。

 それは大きな危険を伴うものだ。それもわかっていて、自分の名前をボーアは盾にした。

 世界的に有名な自分の名前であれば、なにかに利用できるかもしれないと彼は微力ながら戦う事を決意したのだ。

「ボーア博士、”心配はいらん”」

 なだめるようにベックが穏やかにそう告げた。

 大丈夫だと、ルートヴィヒ・ベックが言う。

「わたしが、ドイツ陸軍の名誉をもって息子の無事を約束する」

 ――神は、我らと共に。

 真実は、常に自分のところにある。ルートヴィヒ・ベックはそう信じて疑わない。

「ベック上級大将……」

 相手の名前を呼び掛けたまま言葉を失ったボーアはやがて肩を落とした。そんな物理学者の男の様子に、コート掛けからコートとマフラー、そして帽子を手に取ると素早く身につけて窓の外に視線を走らせた。

「冬は日も短い。さっさと行くとしよう」

 これだけの大人数が同じ部屋にいると息も詰まる。

 そう続けてマリーを促しながらマントを肩にかけてやると、少女は急かすようにオーゲ・ニールスの腕を軽く引っ張った。

「ね! 早く!」

 確かに息が詰まる。

 こんなところにいたくない。

 オーゲの本能が警鐘を鳴らしていた。

 うんざりするような息苦しさを感じたオーゲは、少女に促されるままに立ち上がると、いったん自分の部屋に戻ってからコートを取ると、理論物理学研究所の玄関へと引き返した。

 白いマントを身につけた少女は片手でウサギ革のマフを掴みながら、老将を相手に何事か話し込んでいるのが見えた。それからオーゲが靴音を小さく鳴らして戻ってきたことに気がつくと手にしていた白いマフを軽く振りながら無邪気に笑った。

「早く行きましょう」

「明日でもいいんじゃないか?」

「明日はすぐにドイツに戻らないと行けないから時間がないの」

「忙しいな」

 それにこんな夕暮れ時が近くては、人魚像など見えるかどうかも怪しい。そんなことを頭の片隅で考えていると、相変わらず冷たい指先で彼の指を絡め取って掴むと機嫌良さそうにマリーは歩きだした。

 女性とは誰しもこんなものだが、指先はひどく冷たい。

 もっとも、ろくに家事もしないのだろう。あかぎれもなければしもやけもない。それは彼女が「暖かい」環境でぬくぬくと守られながら生活しているだろうことを物語っている。そんな事実に、唐突にオーゲ・ニールスは強烈な反発を抱いた。

 ドイツの――。

 ヨーロッパに暮らす多くのユダヤ人たちが、移送されたゲットーや強制収容所で飢餓と過酷な環境で苦しんでいるかもしれないのに?

 彼女の手はこんなにも綺麗なのだ。

「……気易く触るな!」

 思わず叫んでしまったのはオーゲの若さのせいもあったのかもしれない。もしかしたら、彼女が望んだ生活ではなかったのかもしれない。それでも、若いオーゲにはそこまで考える心理的な余裕などなかった。

 若い故に、浅はかなのだ。

 それは決して悪いものではない。

 オーゲの突然の反応に驚いた表情を浮かべたマリーが、青年の前で硬直していた。一瞬、その場に走った緊張感に、さっそく気を取り直したのはやはり年長者でもある老練なベックだった。

「ゲシュタポの奴らの目に入ると厄介だ。行くぞ、ボーア君」

 強い力で彼の腕を掴むと、少女の肩を抱いて大股に歩きだす。

「連中はどんなところでも目を光らせている。安易な行動は避けるべきだ」

 独白するように言ったベックの腕の、とても老人とは思えない力の強さにオーゲは文字通り言葉を失った。

「君の懸念は、わたしもよくわかっている」

 ボーアの研究所を出てしばらく歩いたベックはやがてその屋根が見えなくなってから、歩幅を緩めると、自分の腕に縋り付くような形になっているマリーの姿勢をただしてやってからオーゲの腕を離す。

 コペンハーゲンの地理についても全くの無知というわけでもなさそうなベックは、市内を走る列車の駅へと迷いなく足を進めていた。

「なにを苛ついているのだね?」

 コートのポケットから煙草を取り出したベックがマッチで火をつけながら問いかければ、オーゲは足元の雪を踏みしめながら沈鬱な面持ちになった。

 ベックはベックで憎きドイツ軍の元将校だ。

 直接、ドイツによるデンマーク侵攻に関係していないとは言え、簡単に心を許せないのも若さのためか。

 あかぎれも、しもやけもない少女の手に苛ついたのだ、と、そんなことを当人を前にして言えるわけもない。そんな比較的常識人的なことを答えあぐねていると、マフに手を突っ込んで冷たい空気に両目を細めている少女の肩を抱き直した。

「……ドイツ人に、僕らユダヤ人の気持ちなんてわかるもんか」

 答える口調が幼くなるのは、問いかけてくる相手がオーゲなどよりもずっと年長であるせいだ。

「貴婦人みたいな手で、自分はなにも悪くないと思ってる……」

 途切れがちになるオーゲの言葉に、ベックはぷかりと煙草の煙を吐き出した。発言したオーゲ自身にも、そんな言葉は言い訳にしか聞こえないが、それをベックは追及しなかった。

 白くなめらかな手は、何の罪も、汚れもしらない。

 そのことがオーゲの癪に障った。

 この差はなんなのだ、と。

 片やは命の危険にさらされているというのに、片やは危険の全てから守られるようにして、貴婦人のような生活を送っている。

 少なくともオーゲにはそう見えた。

 これが差別でなくてなんなのだ、と若い青年は慟哭する。

「この子は、君の気持ちをわかっている。だから、言いたいことを言いなさい」

 ベックはオーゲ・ニールスにそう告げた。

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