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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IV 神の炎
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7 虐殺の報復

 かつてのナチス親衛隊のナンバーツーであり、国家保安本部の頂点に君臨したラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ。彼は常に無思想であるために、冷酷な殺戮の世界で地に足をつけていることができた。

 良心の呵責に捕らわれることもなく、自分の感情を切り離す。それは時に「目的のためには手段を選ばない」と揶揄されることもままあった。そしてハイドリヒ自身がそれに対して言い訳をすることもなかったことが、彼の外見的な冷徹さに拍車をかけた。

 金髪の野獣。

 そう恐れられた男はもういないはずだった。

 ラインハルト・ハイドリヒの暗殺によって、チェコスロバキアにはナチス親衛隊による報復攻撃の嵐が吹き荒れた。

 指揮をとったのは、ベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者のカール・フランクと、ハイドリヒの後任として指名された秩序警察長官のクルト・ダリューゲでこれまで逮捕されたのは千人を越える。特に、暗殺者をかくまったという容疑で捜査を行われたプラハ近郊にあるリディツェ村に対する傍若無人な強硬手段は記憶に新しい。

「……プラハに行ってみたいわ」

 シェレンベルクの隣で食事を取りながら、マリーはそう言った。

 形式的には国外諜報局の情報将校であるマリア・ハイドリヒだから、任務として国外に赴くことはそれほど難しいことではない。しかし、現在ヒトラーに対するテロ画策の疑いで多くの容疑者をゲシュタポが尋問している真っ最中だ。そんなときに、捜査のための大枠を決めた一部所の責任者がベルリンを離れることなど可能とは思えない。

 シェレンベルクはわずかに片目をすがめるとサンドイッチを口の中に放り込みながら小首を傾げる。

「テロ疑惑のほうの捜査は進んでいるのか?」

「進んでいるみたいだけど、わたしは来なくていいって言われたから」

 おそらく、多くの高官たちが気にしているのは国家保安本部にとって決定的な穴と目されるだろう少女情報将校の存在をほかに漏らさないための措置なのだろう。

「なるほど」

 コーヒーでサンドイッチを胃に流し込んで、シェレンベルクは小さくうなる。

 確かに、彼女の補佐官として配置されているのは法学博士のベスト中将とヨスト少将だ。マリーがベルリンを離れたところでダメージはそれほど大きくはないだろう。

「しかし、どうしてプラハに?」

「夢の通りなのか確かめたいの」

 同じ街並みなのか知りたい。

「……彼と同じ景色を見てみたいの」

 そう続けてにっこりと笑ったマリーはコップに入った水を口に含んだ。

 マリーの夢の話をヴァルター・シェレンベルクは久しぶりに聞いたような気がする。正直、国家保安本部の内部は混乱を極めており

シェレンベルクを含めた高官たちもまた例外ではない。

 それに加えて、第六局に新たな諜報機関が新設された。これに関する人事異動はのために武装親衛隊、フランスの民政本部、さらに大日本帝国のドイツ大使館などのありとあらゆる組織を巻き込む結果になった。

「あちらも魔窟だからな……」

 知っているとは思うが。

 そう付け足して、彼は時計を見た。

 昼休みももう終わりだ。

 別に仕事さえなければ遊んでいる暇はあるのが局長という立場だが、戦況も逼迫している現状、国外諜報局長の座は決して暇ではない。深刻な事態であれば部下のみならず局長であるシェレンベルク自ら動かなければならない事態も考えられる。

 カール・フランクにしてもクルト・ダリューゲにしてもそうだが、結局彼らはラインハルト・ハイドリヒの存命中には追い落とすことなどできはしなかった。それだけの男だ。もっとも、ハイドリヒ以上に感情を置き去りにして物事を判断することができる男など居はしまい。

「ところで、総統官邸にゲシュタポを踏み込ませたそうだがどういうつもりだ?」

「……アカとつながっている者がいます。親玉はまだ泳がせていますが、決定的な粛正を加えさらにアメリカ合衆国の戦略情報局ともつながりを持つエージェントを洗い出して、地下組織を根絶やしにすれば当面総統の周囲も安全が確保されるかと思います」

 時折、マリーはこんな瞳をする。

 決してゲシュタポや情報将校たちのような獰猛な眼差しではなく、青い瞳が思慮深く現実を見つめている。

「根拠は?」

「一部の職員、及び親衛隊たちの経歴に汚点がなさすぎます」

 そういう意味で、マリーのためにと国防軍情報部のハンス・オスターが作った「マリア・ハイドリヒ」の経歴は完璧だった。

 不自然に思えない程度の疑惑を残す。しかしそれこそが、人としてあって当たり前のものであるならば諜報部員や警察官たちは警戒を抱かない。

 逆に納得するのだ。

「不審に思って、こちらの中央記録所の情報と照会したところ共産主義者とつながりのある者がおりました。おそらく彼らはソ連から何らかの資金提供、あるいは武器の提供を受け近く騒ぎを起こすつもりかと思われました」

 だが今のところその危険性は限りなく低い。なにぶんソビエト連邦で思わぬ軍事クーデターが発生したため、支援をあてにすることができなくなったのだ。

 シェレンベルクなどからしてみれば、ソビエト連邦をあてにしたところで、最終的に見捨てられるだろうということは目に見えている。

「しかし、君の目的はそれだけじゃないだろう」

「えぇ、もちろん。わたしの目的はアメリカとつながっているエージェントを割り出すことでした。総統に対するテロを放置すればいずれ重大な問題が発生します。アメリカの狙いは総統の影響力を殺ぐことだけではありません。おそらく長期的に、あるいは短期的にドイツの土台を揺るがそうとしているのです」

「まぁ、いい。どうせ近くわたしもプラハに用事がある。そのときに補佐官として来ると良い」

 社会勉強がてらとでも、適当な言い訳をすればヒムラーも納得するだろう。

 シェレンベルクは応じて立ち上がると振り返った。

「資料を見るか?」

「”犯罪”捜査記録?」

「そんなところだ」

「随分大物がそろっていたみたいね」

 マリーの言葉に六局の局長は小さく肩をすくめると背後に座っている少女を見下ろして、口を開いた。

「殺されたのが、まがりなりにも国家保安本部長官だからな」

「……ふーん」

 つぶやいて少女は自分の膝に右の肘をついて、彼を見上げる。

「ラインハルトだって人間なのにね」

 なにを思ったのかぽつりと言った彼女に、シェレンベルクは片手を差しだした。その手につかまるようにして立ち上がったマリーは、ベンチに置かれたカバンと麦わら帽子を取った。

 ――この世は、主の奏でる手回しオルガンにしか過ぎないの。わたしたちはただ、定められた調べに合わせて、踊るのみ……。

 リヒャルト・ブルーノ・ハイドリヒの作曲したオペラ。

 その一説。ブルーノ・ハイドリヒはラインハルト・ハイドリヒの父親だ。

「自分の分を弁えていない人が多いのね」

 感慨もなく感想を述べたマリーの表情は動かない。

 彼女の言う通り、ハイドリヒの暗殺事件の捜査の際にプラハに集まったのは多くの高官たちだ。

 ゲシュタポ局長ミュラー、オランダで休暇中だった刑事警察局長ネーベ。そしてウィーンからカルテンブルンナーと、ハイドリヒの片腕とも言えるシェレンベルク。そしてその二日後にはヒムラーもプラハを訪れた。

「君は自分の分を弁えているのか?」

「どうかしら……」

 わからないわ。

 そう言って彼女はシェレンベルクに並んで歩きだした。

 ハイドリヒの死後に行われた報復攻撃は千人以上が処刑された。リディツェ村やレジャーキ村などに対して行われた殺戮は容赦のないものだ。特にプラハの北西にあるリディツェ村は、ゲシュタポと保安警察によって包囲され十六歳以上の男は全員殺され、女子供は残らず収容所に送られた。数時間の内に百八十名ほどの住民が殺されたのである。

 執務室に箱ごと運ばれたのはベーメン・メーレン保護領で起こったラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件後の捜査資料だ。

「興味があるのか?」

 相変わらずコーヒーカップを手にしてヴェルナー・ベストが問いかけると、マリーはほとんど表情を変えないままで資料の写真と名簿、そして捜査記録に見入る。

「ベスト中将は、ダリューゲ上級大将とフランク中将のことをどう思われます?」

 カール・フランクとクルト・ダリューゲ。

 そのふたりの名前を少女の口から耳にするとは思わなかった。

 多くの者が、かつてハイドリヒの存在を恐れ、そうしてその死を悼み、けれども確かに彼が死んだことに安堵した。

 ハイドリヒほど鼻の利く番犬はいなかったからだ。

 そして、そんなラインハルト・ハイドリヒの後釜を狙う者もまた多く、ベーメン・メーレン保護領にあってはフランクとダリューゲはまさしくそう言った人物だ。

 もっともベストにしてみれば、突撃隊上がりのダリューゲはウィーンのカルテンブルンナーに対するそれよりもずっと評価が低かった。

「……やることが少々荒っぽいな」

 中身に対しての評価は口にしないベストは、自分の発言に注意を払っている。

 カルテンブルンナーは弁護士上がりだが、それは裁判官出身のベストや、やはり弁護士出身のヨストなども共に法の番人であるという自負があった。そんな彼からしてみれば、ダリューゲやフランクなどは権力に引き寄せられる粗暴者にしか見えない。

「わたしは、本当なら大尉には学校に通ってもらいたいものだ」

「……聞かなかったことにしておきます」

 ニコニコと笑いながら応じて、金色の髪をかきあげたマリーは、気遣うようなベストの眼差しを見つめ返す。

「残念だ」

 彼女の笑顔は慇懃無礼な、嫌みを含んだものではない。天真爛漫な笑顔に、息を吐き出したヴェルナー・ベストは窓の外に視線を放った。

「それで、プラハに行くのかね?」

「はい」

「ナウヨックスに護衛をさせよう」

 シェレンベルクが同行するのならば、知識人のひとりとして自分が彼女についていく必要などないだろう。

 なによりも今の特別保安諜報部は少数精鋭だ。

 マリーが執務室を離れている間、ベストやヨストにはやらなければならないことが山ほどある。仕事をおろそかにするわけにはいかないのだ。

 ゲシュタポからも、テロ事件の捜査状況について連日のように報告が上がっている。だからこそマリーがベルリンを離れるのであれば、ベストやヨストは持ち場を離れるべきではないと判断した。

「ところで、日本からマイジンガーを召喚したと聞いているが、正気か?」

 一九三九年のポーランド戦において「ワルシャワの殺人鬼」とまで呼ばれたあの男を?

「なにか問題でも?」

「あの男を手のひらで転がせると思ってるのか?」

 ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーの知己だが、かつて多くの同僚たちを陥れたヨーゼフ・マイジンガー。

「大丈夫ですよ」

 たった十六歳の子供に、殺戮マシーンのような男を御せるとは思えない。

「こと野良犬は、力の優劣には敏感なものですから」

 含みを持たせた彼女の物言いに、ベストは神経質そうに片目を細めた。

 ――野良犬。それはマイジンガーのことを指しているのだろうが、力の優劣とははたしてなんだろう。

 とりあえず、とヴェルナー・ベストは思った。

 もしも万が一、ヨーゼフ・マイジンガーがこの部署に配属が決まった場合、彼をコントロールする方法を探さなければならない。そして、マリーの安全の確保はナウヨックスに命じるべきだ。年齢的にはマイジンガーとナウヨックスは一回り以上も離れている。どこまでナウヨックスがマイジンガーを煙に巻けるかはわからないが、好き勝手にやらせてはいけない危険人物であることは確かだった。

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