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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIV レメゲトン
319/410

2 不器用な形

 冬のベルリン――プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの執務室で、アドルフ・アイヒマンは苛立っていた。

 ばさばさとあからさまに書類を裁く派手な音を立てて、ざらりとペンを走らせると時計とカレンダーを代わる代わるに見つめてから、億劫そうな溜め息をつく。

 自分がゲシュタポだということは、誰よりもアドルフ・アイヒマンがわかっている。情報官を務められるほど優秀だとも思えない。

 唇をへの字に曲げて黙り込んだアイヒマンは訝しげな顔をしている秘書に、視線を走らせるとやはり不機嫌にフンと鼻を鳴らした。

 片手を軽く振って秘書の女の視線を拒絶するアイヒマンは、憮然としたままで腕時計を見ると時刻を確認してから立ち上がった。

 ちなみに、年が明けてから妻以外の愛人たちとは正式に別れた。

 アイヒマンの生活の派手さは、それほど変化は見られないがそれでもアイヒマンに対して嫌悪似近い感情を抱いている同僚たちにとっては、そうした変化は火を見るよりも明らかだった。

 たかが親衛隊中佐という身分から考えると不自然なほど豪勢な彼の生活に、アイヒマンの虚栄心の高さがにじみ出ているようでもある。

 そんなアイヒマンが――。

 コートを身につけて電車を乗り継いで徒歩で向かったのは、一軒の裁縫職人の自宅だ。

「こんなものでどうでしょう……?」

 得意げに問いかけられて、アイヒマンは片手で差しだされたそれをぽんぽんと軽くたたいてから手触りを確かめる。

「娘さんへのプレゼントかなにかですかな?」

「違う」

 素っ気なく応じたアイヒマンは、顎を片手で撫でてから視線を彷徨わせると眉間にしわを寄せる。

 今まで彼のつきあった女たちは高級な服や、化粧品や装飾品を与えてやれば喜んだ。けれども、どうにも「彼女」だけはそうはいかない。

 いつも誰かの着古した中古の服でも、手作りのどこか不格好な服でも余り気負うこともなく身につけていて。けれども、その中には時折、アイヒマンすら驚くような高級品も混じっていたこと。

 マリーにとって誰かのお古であっても、新品であっても、また特別なデザイナーによってデザインされたものであっても知った事ではないらしい。

 だから、彼女が喜ぶものと考えるとひどく難しいのだ。

 少し明るい茶色のウサギのぬいぐるみ。

 そのふわふわとした手触りに、職人の前でやはりアイヒマンは考え込むと、職人の視線が突き刺さっていることを感じて再び顔を上げると、無表情な眼差しのまま顔の前で手を振ってから頷いた。

「十代の女の子なら喜ぶだろうか……」

 問いかけられて、職人の男は「さて」と小首を傾げてからにやりと笑った。

「でも、女の子はこういった贈り物が好きなものじゃないですかね?」

 どうあがいたって、アイヒマン程度の人脈ではゲーリングや国家保安本部長官たちのような最高級品のプレゼントを贈ることなど不可能なのだ。

 ――まぁ、最近の若い子はませてますから、アクセサリーのほうが喜ぶかもしれませんがね。

「うぅむ……」

 そう言葉を返されて、アドルフ・アイヒマンはうめき声を上げた。

 結局、職人に作らせた抱き心地の良いウサギを紙に包ませるとそれを持ち帰った。その時点で時刻は十九時を過ぎていた。別に、妻には言い訳をする必要もないから帰宅が遅くなったところでなんら問題はない。

 問題と言えば、どちらかと言うとマリーの仕事が終わっているかどうか、ということのほうだ。特に、彼女に四六時中張り付いているヴェルナー・ベストや、ヨーゼフ・マイジンガーと言った面々と鉢合わせになるのは厄介だ。

 気難しげな顔をしたままで小脇に抱えた紙包みを抱え直すと、大きな溜め息をついてから途中の行きつけのレストランに寄り道をして、ふたりぶんの量になるだろうスープと焼きたてのライ麦パン、そしてチーズを受け取ってベルリン市内のアパートメントに足を向ける。

 四階までの階段を上って、呼吸を整えるとことさらに平静な表情を装って長い睫毛を伏せた。

 彼女と国家保安本部で言葉を交わすのは幾度とないが、彼女のアパートメントを訪ねるのは初めてだ。

 誰かと鉢合わせしないだろうか、とか。

 彼女に迷惑がられはしないだろうか、とか。

 まるで恋をした少年のようにアイヒマンは余分な心配に心を傾けていることに気がついてから、ゲシュタポの青年官僚はむっとした様子で吐息をついた。

 限りなく子供に近い少女に対して恋愛感情を抱くなどあるわけがない。

 そう自分に言い聞かせて意識を切り替えると、目的の部屋の前にたどり着いてアイヒマンは深く呼吸を繰り返した。

 室内からは犬の吠える声が聞こえた。

 それは彼女がいつも連れている警察犬――シェパードの赤号(ロート)だ。

「あ、アイヒマン中佐」

 犬の鳴き声が聞こえるな、と冷静に考えながらノックするタイミングを計っていた彼の目の前で、唐突に扉が開くとマリーの金髪が目の前に現れた。

 耳に心地の良い彼女の声に、アイヒマンは改めて憮然とすると再三再四の溜め息をつきながら、やれやれと左右にかぶりを振ると言葉を探す。

「えぇと……、君に新年のプレゼントをと思って」

 迷惑じゃなければ、と付け加えてぶっきらぼうに突きだしたのはアイヒマンがマリー相手にどういう態度をとれば良いのか、未だによくわかっていないためだ。彼女はいつも時間があると、アイヒマンの執務室を少しの時間訪れては彼の仕事の邪魔をしていくが、それだけの関係で、別になにかしらの性的な関係があるわけでもない。

 そんな相手にアイヒマンはいつも困惑させられていた。

 特に彼女を「好き」なわけではない。

 けれども、好きなわけではないとは言え「嫌われたくない」とも思ってしまう。複雑な感情に支配されながらアイヒマンは戸惑っていた。

「……夕食は、もう済んだか?」

「いいえ、帰ったばかりなので」

 どうぞ、と朗らかにアイヒマンを招き入れたマリーの背中に、ゲシュタポの青年官僚はほっと吐息をついて安堵した。

 拒絶されなくて良かった。

 胸をなで下ろして靴の踵を鳴らしながら室内へと入ったアイヒマンは、別の手に抱えていた紙袋を部屋に入ってすぐのところにあるテーブルに置くと、紙を鳴らす音を立てながら彼の贈り物であるぬいぐるみを取り出している少女の姿を眺めやっていた。

 なんとなく制服の胸ポケットからタバコを取り出そうとして、そこが少女の部屋であることに気を取り直す。

 犬が苦手だというマリーの傍にいる警察犬はどこか距離を置いて扉の近くに伏せをしているが、彼女の視界に入る度に自己主張をするように尻尾をパタパタと振っている。

 よほど「ご主人」が好きなのだろう。

 赤いシェパードは素人目にも毛並みも良い大した犬だ。

 そんな赤号とアイヒマンの視線がさっと交錯したのはそのときだ。

「……ふん」

 まるで犬相手に馬鹿にするような眼差しを放ったアイヒマンに、ロートの瞳が攻撃的な光を帯びる。しかし、その場を動かないのは、犬嫌いのマリーを驚かせないためで、どこまでも主人を中心に思考する赤いシェパードは我慢強い。

(ワンコ)は涙ぐましいものだな」

 侮蔑するようなアイヒマンの声に、すっくと立ち上がったロートはゆっくりと青年官僚に歩み寄ると思い切りその足を踏みつけて、アイヒマンの瞳が怒りに染まるのを認めると顔を背けてアパートメントの玄関口の定位置に戻るとそのまま丸くなってぱたりと耳を伏せてしまった。

 アイヒマンとロートの間に決定的な亀裂が走った瞬間でもある。

 そんな赤号(ロート)をそのままにしてアイヒマンは気を取り直すと、マリーの横へと歩み寄り彼女の手元を覗き込んだ。

「どうだろう」

「かわいいです、アイヒマン中佐、ありがとう」

 ありがとう(ダンケ)

 元気で朗らかな彼女の言葉に、アイヒマンは思わず目尻を下げてマリーが腕に抱くうさぎのぬいぐるみに指先で触れると、片腕にかけていた親衛隊員のコートをソファに置く。

「最近は寒いからな」

 抱きしめて寝れば暖かいだろう。

 蚊の泣くような声で付け足したアイヒマンに、マリーはびっくりしたように目を見開いた。

 まるで考えていなかったとでも言いたげな彼女の表情に、アイヒマンは苦笑する。

 ふわふわのぬいぐるみに頬を押しつけてその心地よさに目を細めて笑っているマリーは「はい、とてもあったかいです」とアイヒマンの言葉に同意した。

 それから数分ほど、ぬいぐるみに対するやりとりをしてから、マリーは「寝室においてきますね」と言ってから、ベッドの枕のところにうさぎを寝かせるとすぐにアイヒマンのところへと戻ってくる。

 おおよそのサイズは想像していたが、実際にマリーに抱かせてみればウサギの大きさは丁度ぴったりで適度に柔らかいそれは寝るときも邪魔にならないだろう、と考えられた。

 うっかりウサギのぬいぐるみを抱きかかえて眠っている少女を想像してから、アイヒマンは左右に頭を振ってから戻ってきた彼女に対して気取(けど)られぬように、表情を改めた。

「食事を、一緒にと思ったのだが……」

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセでそうするように、いつもと変わらない表情で言葉を継げるアイヒマンに、マリーは屈託のない笑顔で「いいですよ」と言ってから、台所に立つとやかんに水を汲むとガスをつけた。

「代用コーヒーでいいですか?」

「君と同じものでいい」

「わたし、コーヒー苦手なんです……」

「だから君と同じものでいいと言っている」

 言葉がつっけんどんになるのは、彼女くらいの年齢の少女相手にどう応対すればいいのかがよくわからないためだ。

 大人の女の扱いには慣れているが、それも虚栄心の強い女たちに限っての話だった。

 彼女らは、贅沢をさせてちやほやしてやればそれで満足する。しかし、マリーはそうではない。

 牛乳の割合のほうが多いのではないかとも思われるミルクティーをふたりぶん運んできた少女は、台所で温め直しているスープの鍋の音に耳を澄ませながら椅子に腰掛けているアイヒマンの前にライ麦パンののった皿を並べていた。

 かちゃかちゃと余分な音がするのは、マリーが家事が苦手なせいだろう。

 マリーの自宅で勝手に手伝って良いものかと、思い悩んでいるアイヒマンは結局、彼女の動きの危うさにスープ鍋を運ぶのを手伝ってやることにしたのだった。

「ねぇ、アイヒマン中佐」

 マリーはチーズをのせたライ麦パンを口に運びながらテーブルの向かいに座っているアイヒマンに呼び掛ける。

「なんだ?」

「アイヒマン中佐はユダヤ人が嫌いなの?」

「どうしてだ?」

「みんなが言ってたから」

「みんな……?」

 どういう意味だと問い返す訝しげなアドルフ・アイヒマンに、マリーはにこりと我ってからスープ皿の中をスプーンでかき混ぜる。

「別に嫌いじゃない」

「ふーん」

 とても食卓には似つかわしくない下世話なマリーの言葉に黙り込んだアイヒマンは、やがて言い訳でもするように口を開いてテーブルに肘をついた。

「ユダヤ人を移送することがわたしの仕事だ。仕事をしているときのわたしがユダヤ人を嫌いに見えるようなら、それは偏見だし、他の奴らも同じように移送の仕事に関わっているから、別にわたしに限った話ではない。そもそも、好きとか嫌いとか、そんなことを言っていては仕事が進まないだろう」

「それもそうね」

 男の言葉を肯定したマリーに、アイヒマンは肩から力を抜いて彼女の顔を覗い見るように見上げて首をすくめる。

「わたしのことが嫌いだから、そういう連中は穿った見方しかできんのだ」

 特にユダヤ人たちからは恨みを買っている自覚はある。

 しかし、命令なのだ!

 それを他人にどうこう言われる筋合いはない。

「……――別に、わたしはユダヤ人だから相手のことを嫌うとか、そういうことは、ない」

 それは本当だ。

 中にはユダヤ人かどうかなど、言わなければわからない相手もいた。だから、子供の頃は相手がユダヤ人かどうかもわからずに交流していた。

 おそらくドイツ人のほとんどがそうだったろう。

 相手がユダヤ人であるかどうかなど、一部の反ユダヤ主義の者たち以外には関心のないことだった。

「では、逆に聞くが君はどうなんだ?」

「わたし?」

「そう」

 問い返したアイヒマンに少女はスープを口に運びながら視線を天井へと上げると、数秒だけ考え込んだ。

「優しい人ならみんな好きよ?」

 マリーはそう言って笑った。

 おそらくそれが彼女の本音に違いない。

 ――優しい人ならみんな大好きよ……。

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