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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIV レメゲトン
318/410

1 ソロモンの小さな鍵

「失礼します」

 デンマーク王国――シェラン島の東端に位置するその首都、コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所の扉が開いた音に、五十歳に手が届こうかというそれなりに目鼻立ちの整った男は顔を上げた。

 コペンハーゲンは、ドイツのゲッティンゲン、ミュンヘンと並ぶ理論物理学の牙城のひとつでもある。

 ミュンヘン大学のゾンマーフェルト研究室。ゲッティンゲン大学のボルン研究所。

 ふたりの偉大な科学者たちに並ぶニールス・ボーアの研究所。

 そこにはいつの時代も数多くの優れた科学者たちが顔を合わせた。

「……――今日は人と会う約束はないはずだが」

 言いながら振り返った知的な眼差しを持つ男に、三十代前半の青年は静かにほほえむと、わずかに口角をつり上げた。

「どうも、申し訳ありません。本来、前もってお約束をするべきかとも思ったのですが、わたしの立場をお知らせすると無用な警戒心を抱かせてしまうのではないかと思いましたので……」

 そう言いながらかぶった帽子を軽く持ち上げて会釈をした金髪の青年に、研究室の主人、ニールス・ボーアは固まった。固まったのは青年の笑顔や美貌にではない。

 彼の瞳の奥から放たれる鋭い光にである。

 ヨーロッパ大陸を包み込む不穏な空気に、ボーアはすでに気がついている。なにしろ、彼の立場は微妙な所に位置している。世界的に高名な物理学者でありながら、ヨーロッパを支配しつつある「ドイツ人」たちにとっては「排斥すべき」民族の人間でもある。そして、ドイツの支配圏に生活していた多くの同胞――あるいは同業者たち――がその高圧的な権力に嫌気が差して、その支配下を脱出していった。

 ボーアもデンマーク人でなければその立場は危うかった。

 デンマークの議会、王族が自ら強い意志を表明してユダヤ人保護を謳っていなければ、彼もヨーロッパで生活していくことなど不可能に近かっただろう。

 ……いや、不可能だった。

「……ドイツ人か」

 デンマークも概ね、ドイツの支配下にあるとは言え、今のところその直接の影響下に入ることを逃れて今に至る。

 ドイツのゲッティンゲンとミュンヘン。

 マックス・プランクやアルノルト・ゾンマーフェルトらが苦心し、ドイツの知性の衰退を防ごうとする中で、ボーアもまた多くのユダヤ系科学者たちの受け皿となるべく苦心を重ねていた。

 そこは、ドイツの排斥を逃れてたどり着いた救いの場所でもあったのだ。

「えぇ、教授には不愉快な話し相手とは思いますが、大変申し訳ありません」

 悪びれもなく告げる青年に、片方の眉をつり上げたニールス・ボーアは一瞬迷った様子で一度唇を引き結んでから複雑な表情を隠しもせずに憮然とした。

「君がドイツ人だと言うことはわかったが、研究所に忍び込んできた非礼はともかくとして、所属と名前を名乗ったらどうだね?」

「忍び込むもなにも、こちらに入るのは実に簡単でしたよ。ミュンヘンの理論物理学研究所から重要な論文の件でお伺いしたと申し上げたら簡単にいれてくれました。もう少し警備に気を遣ったほうが無難かと思われます」

「今後の参考にさせてもらおう」

「それをお奨めします」

 ふてぶてしい青年の物言いに、ボーアは再び憮然とすると窓際に立っていた彼は、目の前の紳士的な青年に形ばかりの礼儀を保ってソファを薦めながら、暖炉の中で蒸気の音をたてているやかんに手を伸ばして代用コーヒーを煎れた。

 まるで自分の気持ちを整理するようなボーアの態度に、青年は目を細めてから睫毛をまたたかせる。

 しかし物理学の心得もない人間が素知らぬ顔で物理学者の名前を騙るとは大それたものを感じないでもない。気持ちを落ち着けるように何度か呼吸を繰り返してからやかんを暖炉に戻すと青年のところへと戻って目を伏せる。

「わたしは、ドイツ第三帝国ナチス親衛隊国家保安本部に所属するヴァルター・シェレンベルクと申します」

「……国家保安本部、か」

 国家保安本部の悪名高さはすでにニールス・ボーアもよく知っていた。

 何人の科学者たちが、その追求に汚名を着せられたかわからない。そして、そんな政治的な活動に手を貸した、高名な科学者たちが存在したこともボーアをさらに苦々しい気分にさせられる。

「ボーア教授はシュタルク教授やレーナルト教授のことをどのように思われていますか?」

 ヴァルター・シェレンベルクと名乗った青年は知性的な瞳を閃かせてから、代用コーヒーの注がれたカップを指先で手にしてからじっと立ち尽くしているボーアを見返した。

「教授もおかけになったらいかがです?」

 まるで自分の部屋ででもあるかのようなシェレンベルクの言葉に、ボーアはしばらくしてから我に返るとぎこちなく頷いて眉をひそめると、青年の前のふたりがけのソファに腰を下ろした。

 ヨハネス・シュタルクとフィリップ・レーナルト。

 ふたりの名前を耳にしたボーアの表情がかすかに歪んだ。

 当然のことだが、ヴァルター・シェレンベルクはそのわずかな変化を見逃さない。

「もちろん、”彼ら”のことはわたしも把握しています。それによって、どの程度の被害を我が大ドイツが被ったのかも」

 わたしは科学者ではありません。

 冷ややかに感情を垣間見せることもない青年の言葉にボーアはぎくりと背筋を正したままで、硬直したまま目の前の青年を見つめている。

 しかし青年は動揺のかけらも見せることはなく、カップの縁に唇をつけた。

 どこまでも優雅なシェレンベルクの物腰に、内心でボーアが舌打ちした。

「わたしは科学者ではありませんので、どのような計画、あるいは研究が進められているのかは多少の理解しかすることはできませんが、行きすぎた民族主義の狂気に捕らわれた結末の愚かさは目に見えています」

「……ナチス親衛隊の人間がそのようなことを迂闊に口にして身の破滅の可能性は考えないのかね?」

 ボーアの返答にシェレンベルクは薄く笑った。

「現在、わたしはベルリンで仕事をしていることになっています。このようなところでわたしがなにをしようと、それに公的な裏付けにはなりません。心配は無用です」

 冷ややかなほど静かに彼は告げる。

 数秒、言葉を失ったボーアはそこではじめて相手が国家保安本部に所属する特殊な位置に立つ人間であることを察した。

「諜報部員か……」

「教授の慧眼には恐れ入ります」

 どこまでも冷徹な眼差しを持つシェレンベルクの眼差しに、ニールス・ボーアが凍り付いたまま動けずにいる。

「わたしを、ユダヤ人だからと逮捕するつもりか……」

 絞り出すようなボーアの言葉に、シェレンベルクは指先をソファの肘掛けに踊らせてゆるく左右にかぶりを振って見せた。

「”我々”情報官(SD)には逮捕権はありません、教授もご存じではありませんか?」

「わたしがナチス親衛隊(SS)など信用すると思っているのか」

 警戒するようなボーアの言葉を受けて、シェレンベルクはそんな彼の言動さえも予想の範疇だったとでも言うように穏やかな笑みをたたえている。

 傍目には知的で人好きのする二枚目の青年で、なにも知らずに彼と初対面であったならば男女老若を問わず、彼に好感を持つだろう。ヴァルター・シェレンベルクから、ボーアはそんな印象を受けた。

 心臓を鷲掴みにされたような恐怖感を受けてニールス・ボーアが座っていたソファから腰を浮かせて、前のめりになるような姿勢でシェレンベルクを追及するが、そんなことで動じる様子もない。

「……教授に信頼されようがされまいが、わたしには関心のないことですが、教授があまりにも警戒されても困ります。わたしも多忙な中、こうしてわざわざコペンハーゲンまで訪れているのですから」

 そう告げたシェレンベルクにボーアは憮然として、言葉を失っている。

 黙り込んだままで青年を見つめていた理論物理学の権威はソファに座り直してから咳払いを鳴らした。

「では、単刀直入に聞くが、君はいったいなんのために”わざわざ”ベルリンからこんな田舎町にまできたのかね」

 嫌み混じりのボーアの言葉に、シェレンベルクが口元だけでそっと笑うとわずかに声をひそめてから手帳の中に挟み込んだ一枚の写真をボーアの前に突きつけた。

「数日後、コペンハーゲンにこの少女が訪れる予定となっています。同行はゲシュタポのヨーゼフ・マイジンガー親衛隊上級大佐、情報官(SD)のヴェルナー・ベスト親衛隊中将、医師のヨーゼフ・メンゲレ親衛隊中尉です」

 ――彼女はマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。

 丁寧なシェレンベルクの物言いに、ボーアが片方の眉をつり上げる。

 ナチス親衛隊員(SS)に所属する警察官僚に、ニールス・ボーアが良い顔などするわけもない。

 ボーアにとってみれば、ナチス親衛隊とは宿敵だ。

 ナチス親衛隊はユダヤ人を敵愾心を持っている。

 ボーアはそう思った。

「親衛隊員の全てが、ナチス党首脳部の掲げる”優生学”などというものを真に受けていると思っていらっしゃるのであれば、それは大きな間違いです」

 シェレンベルクの綴る言葉は、つまるところシェレンベルク自身がナチス・ドイツの掲げる優生学とやらを盲信しているわけでもないということを物語っている。

「……――自分の発言が、君自身を滅ぼさなければ良いのだがね」

「ご心配なく、わたしはそのような愚行に振り回されるほど”間抜け”ではありません」

 自分の意志に関わらず、巻き込まれるときは巻き込まれるのではないか。そう思ったニールス・ボーアだったが、それを口にしたところで目の前の「諜報部員」らしき青年が、態度を改めるとは思わなかったから、シェレンベルクの言葉に対する言及は避けた。

「この子は?」

 愛称はマリー。

 カラーの写真で髪が金髪であることが一目でわかった。

 青い瞳が宝石のように輝いていて、それが腕の良いカメラマンによって撮影されたものであることはすぐにわかった。

 非情に腹立たしいことこのうえないが、ナチス親衛隊は多くの優秀な人材を抱えている。

 トップに立つナチス親衛隊全国指導者、ハインリヒ・ヒムラーはヒトラーの腰巾着だ。そんなヒムラーはヒトラーの命令に盲目的で、その盲信が現在のヨーロッパの惨状を招いたとも言える。

 そんな暴風が吹きすさぶヨーロッパの孤島で、ニールス・ボーアは多くの同胞を救うために腹をくくった。

「現在、彼女はドイツ国内のとある事件の容疑者として目をつけられていまして、こと、こういった場合、女性は男たちの乱暴の的にされやすいものですから」

 感情を見せずにそう告げたシェレンベルクに、高名な物理学者は眉を引き上げてから顎に手を当てると考え込んだ。

 女性とは男性と比べると遙かに弱い立場に立たされている。

 物理的な意味でも。そうして社会的な意味でも。

 世間は進歩の一途を辿り、その世界には女性の社会進出も進んでいる。それでも、未だに女性蔑視は拭いきれず、多くの者たちが「女は家にいて家庭を守るべし」と、偏狭な固定観念を捨てきれない。

「彼女が人魚像を見たいということですから、よろしければ教授もお忙しいとは思いますが、観光案内でもしてやれば彼女も喜ぶかと思います」

「……”この”写真では随分と幼く見えるが、いったいいくつなのだね」

 写真が色つきであるということは少なくとも一九〇四年以降ということで、最近の写真ではないという可能性もある。すでに成人していれば顔つきも体つきもだいぶ変化があるだろう。

 そんな邪推をするボーアに、シェレンベルクは「いえいえ」と言いながら左右に首を振ってから静かにほほえむ。

 ボーアのそんな反応などまるで予測済みだったとでも言いたげな余裕のある青年の態度が、高名な理論物理学者には気に入らない。

 政治を生業(なりわい)にするならず者――ナチス親衛隊知識人。

「昨年の夏に撮った写真です。まだ十六歳です」

「……――」

 ボーアは改めて言葉を失った。

 女性が乱暴な手段に直面する危機がある。そう言ったシェレンベルクの言葉と少女の写真がうまく頭の中でつながらない。

 まじまじと写真を凝視したボーアは、しばらくしてからようやく言葉を絞り出した。

「まるで小学生だな」

 体の線の細さのせいか。

 それとも屈託のない笑顔のせいなのか。

 年齢よりもひどく幼く見える少女は、カメラのレンズに満面の笑顔を向けていた。

 こんな華奢な子供に乱暴を働こうとする男がいるなら、それはそれで病的だとも思いながら裸溜めてシェレンベルクを見つめてから溜め息をついた。

「わたしがコペンハーゲンを訪れたのは、彼女が来ると言うことを伝えに来ただけです。教授はデンマーク人ですので、ドイツの人種法の及ぶところではありませんし、”あの法律”はどのみち破綻しております」

 冷ややかに彼は情報を分析する。

「彼女を抱こうが抱くまいが、わたしは興味ありませんし、教授も”そちら”の方面にご関心がありますなら、”護衛”の目を盗んでご自由にどうぞ」

 人の情事に関心はない。

 そう告げたシェレンベルクにボーアは不愉快そうに片目をすがめた。

「この子供が乱暴を受ける危険性があるからコペンハーゲンに逃がされたと言ったのは君ではないのか?」

「わたしが女子供のひとりやふたりに感傷を抱くとでも?」

 切って捨てるようなシェレンベルクの言葉に物理学者が絶句する。そうして、写真の少女と青年を何度か見直してから、ニールス・ボーアは言葉を選ぶようにしながら口を開いた。

「では、君の目的はなんなのだね?」

「申し上げたはずです、わたしはただの情報官ですから、党、あるいは親衛隊首脳部の意向に従って行動するだけです。ですが、今回の一件について、あなたの発言が公式なものとしてとらえられることはありません。急な訪問では教授を不快にしてしまうかと思いまして、前もってお伺い致しました」

「ふん……」

 ユダヤ人知識人。

 それゆえの立場から、ボーアは親衛隊に監視されてもおかしくはない立場にいる。しかし、今回に限り、そういったことはないと告げるシェレンベルクの意図がわからずに、ボーアは思考を巡らせた。

 いったいどこまで目の前の青年を信じればいいのだろう。

「少なくとも、彼女の訪問は決して教授のマイナスにはならないと思われます」

 ――彼はそう告げた。

 けれども、シェレンベルクの「情報将校(SD)」という肩書きと、国家保安本部という名前にボーアは底知れない恐怖を感じる。ナチス親衛隊の振るう暴力的な権力は、まことしやかにデンマークに暮らすボーアのところにも広がっていた。

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