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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIII ウロボロス
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13 人魚の涙

 ――いったい誰を信じればいいのかわからなくなりそうな、深い闇の中へと墜落した。誰を信じて、なにを心にとどめればいいのかも、わからなくなりそうな闇の深淵。そして、そんな深すぎる闇に墜落して数年もの間のうちに、「彼」は闇の中で生きることにすっかり慣れてしまった。

 多少の心の痛みと、胸の痛みが伴ったが、それでも「生き残る」ことこそが自分に与えられた使命なのだと痛む胸を抱えて彼は前を見つめた。

 ……そのはずだった。

 屈託なく笑う少女の笑顔にハイゼンベルクは自分が失ったものに、はたと気づかされたのだ。

 ゾンマーフェルトの自宅を訪ねた翌日、ハイゼンベルクは少女と冬の野山を散策した。たいそう運動神経の悪い少女にスキーを教えるのは骨が折れて、結局、最終的に小さな子供用のソリに乗せて後ろからハイゼンベルクが押してやった。

 それでも彼女はそれなりに楽しかった様子で、マントを雪だらけにして喜んでいた。

 ベルリン育ちの十六歳。

 そう考えればもう少しおしゃれをすることや異性に対してに意識が向きそうなものだが、彼女はそんな様子もない。単に子供っぽいのか、それとも古風なのか判断しかねるところがありはしたものの、現代っ子という観点で考えれば、彼女の無邪気さは希有な資質だった。

 彼女の笑顔がヴェルナー・ハイゼンベルクの脳裏に蘇った。

 怒られても無邪気に笑う。

 伸び伸びとした素直さは、ささくれた大人たちの心を癒すには充分すぎた。

 かつて、自分にもこんな時代があったのかもしれない。そう思い起こさせる彼女の笑顔。したためた手紙に、同封するための写真を数枚見直した。思わず口元がゆるんでしまうのは、彼女の元気いっぱいな笑顔のせいだ。

 彼女――マリーの笑顔は、人の心を安堵させる。

 カメラのレンズに向かって太陽のような笑顔で。金色の髪が日の光を鮮やかに跳ね返す。

 運動神経が余りよろしくないらしいマリーは、よたよたと雪の上でハイゼンベルクの腕に縋って、昼間は全力で遊んで夜になると夕食をすませてくたりと寝入ってしまう。

 日中は童心に返ったようにハイゼンベルクも彼女と他意もなく戯れた。

 旅館のベッドに横になって半ばまどろんでいる少女に、ハイゼンベルクは暖炉を見つめたままで我知らず問いかける。

「……君は、このままドイツが大量殺戮のための兵器を開発することについてどう思う?」

 たった十六歳の少女に問いかけるには野暮な質問だ。

 そもそもマリーは物理の「ぶ」の字も知らない。

 そんな彼女に、本来尋ねるべき内容ではなかったのかもしれない。しかし、後になって思い返してみれば、彼女が物理学に対して無知だったからこそ尋ねられた内容だったのかもしれない。

 そうも思った。

「……どう?」

 ぼんやりと首を巡らせて、布団を口元まで引っ張り上げた少女が、ともすれば寝入りそうになる眼差しを向けてくるのがわかった。

 彼女は、なにも知らない。

 だからハイゼンベルクは聞けたのだ。

「なにが?」

 睡魔に支配されかけている頭では、弱い判断力がさらに弱くなっているのか口調もどこか無愛嬌だ。

 けれども、無愛嬌な反応であるはずなのだが、子供らしい無邪気さも感じさせられてハイゼンベルクは自然と口元をゆるませて微笑をたたえるとマリーは、そんな彼の視界の中で再び暖炉から放たれる暖かさにゆるやかに睫毛をおろしていく。

「なぁに」

「だから、ドイツの新型爆弾のことだ……」

 眉間にしわを寄せた彼がベッドに横たわる少女を振り返れば、小さな寝息を立てながら金髪を揺らしたマリーはかろうじて目を擦ると両手を突っ張って体を起こした。

 半分は眠りに落ちている。

 そう見えなくもないマリーは、片手をあげるとごしごしと乱暴に目を擦ってからハイゼンベルクを見つめ返した。

「別に、わたしは計画が成功しようがしまいが興味なんてないですけど。ドイツの繁栄の邪魔になるような事態は排除するべきかと思いますけど」

 どこか素っ気ない彼女の物言いに、天才科学者は驚いたようにマリーの顔を見つめ返してから瞠目した。

 明るいオレンジの光に照らされた少女の眼差しが、鋭く真実を射貫いているようでハイゼンベルクは一瞬言葉を失ってから眉間を寄せて考え込んだ。

 ――興味もないし、どうでもいい。

 彼女はそう言ってから再び枕に顔を埋めるようにして眠り込んでいく。

 理性的な思考が働いていない眠りの淵で吐き出される言葉はおそらく彼女の本音なのだろう。

 無邪気で子供らしい少女かと思えば、相反する冷たい横顔を垣間見せる。

 無邪気で、冷徹な。

 それは罪の意識に捕らわれない幼い子供とよく似ている。そんなマリーを見つめて、ハイゼンベルクはどこか呆然と口を開くと掠れた声を絞り出して眠る彼女に言葉を投げかけた。

「”君はなんなんだ……”」

 渇いた声でやっとそう告げてから、ハイゼンベルクはソファから腰を浮かすと少女の眠るベッドに膝をついてその肩をつかむ。

 そうして、その細さに心の底からぞっとした。

 薄いパジャマの上から触れる彼女の骨の頼りなさに、ヴェルナー・ハイゼンベルクは言葉を失った。

「……眠い」

 ハイゼンベルクのつぎはぎの言葉を受けてなんとか会話を続けようと努力はしているらしいマリーは、けれども男の途切れがちの言葉を待つ間にも墜落するように眠りへと引きずり込まれていく。

「――……わたしの邪魔をする人は許さない」

 目の前に。

 腕の中にいるのは華奢で痩せた、けれども尚かわいらしい少女だというのに。ハイゼンベルクの瞳には別のものが見えた様な気がする。

 ランタンを持ち、大鎌を片手にした白骨の死に神。

 彼女の首筋から覗く細く頼りない骨が、明確な「死」を連想させるのだ。

 そう感じた瞬間にぎょっとして投げ出すようにマリーの体を突き飛ばすと、少女はその衝撃に再び目を醒ましてから軽く頭を振った。

「ハイゼンベルク博士?」

「す、すまない……」

 形としては彼女を突き飛ばしてしまう結果になったヴェルナー・ハイゼンベルクは、掠れた声でつぶやいてから、改めてマリーの体を抱き起こして視線を彷徨わせる。

 か細い骨格の彼女に乱暴な真似を働いてしまったこと。

 それをハイゼンベルクは悔いた。

「……――」

 言葉を探して再び黙り込んだハイゼンベルクに、少女は困った様子で暖炉の炎を見つめてからドイツの天才科学者を見つめ返すとひとつ吐息を吐きだしてから唇を尖らせた。白目が充血しているのは彼女が睡魔に襲われているせいなのだろうか。

「眠りなさい」

 雪遊びをして消耗しきった彼女は、そう言われてあっけなく眠りの深淵に墜落していく。そんなマリーにハイゼンベルクは深々と溜め息をつくと、そっと細い肩に上掛けをかぶせてからその手を離した。

 憮然として暖炉前のソファに座り直した彼は、厳しい目を燃え上がる炎に向けてソファの肘掛けに頬杖をつくと黙り込む。

 子供相手に真剣になっても仕方がない。

 そんなことはわかっている。

 いくら国家保安本部に所属する諜報局の情報将校であるとは言え、彼女はたった十六歳の少女なのだから。そんな子供相手に真剣に問い詰めてみても大人げないだけではないのではないかとすらも感じさせられた。

 物事の「道理」も、「理屈」もわかっていない子供相手にムキになっている。それが自分自身の未熟さを示しているようでもあって、ハイゼンベルクはむっつりと唇を引き結んだ。

「……おやすみ(グーテ・ナハト)

 肩越しにベッドに眠る少女を流し見てからハイゼンベルクは再三の溜め息をついた。

 まるで自分という存在は、世界――社会の構造の上で、揺れる振り子のようだ。

 科学者は、社会のあり方に振り回され、単純に学問を追及する道だけを許されない。

 学問の世界にすら、民族だとか、宗教だとか、そうした低俗なものに踊らされる者がいることが不愉快極まりない。

 そして、ハイゼンベルク自身も同じだ。

 自分がやりたいことがわからなくなって、自分の「道」を見失った。

 そんな少女との数日の気楽な徒歩旅行を思い出して、ハイゼンベルクは書斎の机の中央に宛名も宛先も書かれていない手紙を置いて明かりを落とす。そして、廊下へ出て扉をしめた彼はこつこつと小さな足音をたてて書斎から遠ざかっていく。

 どこぞの小児性愛者であれば、警戒心もなく男の隣で眠る少女に対して欲情でもしたのかも知れないが、ハイゼンベルクにはそうした性癖はない。

 ただ、彼女の瞳に強く惹かれただけだ。

「わたしは……」



  *

「それで」

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの執務室で渋面を浮かべたのは特別保安諜報部首席補佐官を務めるヴェルナー・ベストである。

 彼女の身の回りの安全を確保するのは、主にマイジンガーとナウヨックスを中心とした護衛官であり彼女の実働部隊でもある。一個分隊ほどの小さな組織であるが、彼女を含めたベスト、ヨスト、メールホルンを護衛するには充分だ。

 もちろん、充分ではなかった場合は、ヴァルター・シェレンベルクの率いる別働隊が動くだけのことである。

「君は自分の置かれた立場がわかっているのかね?」

「わかっているわ」

 いつもの如く唇を尖らせた少女は厚手のカーディガンを身につけて両手の指に吐息を吹きかけて冷えた指先を温めた。

 痩せた少女の体では新年を迎えてからのベルリンの寒さがこたえるのだろう。

「君は現在、国防軍の軍事クーデターに関与していると怪しまれているのだ。もう少し自分の行動に気を遣うべきではないか?」

「でも」

 お説教をするような口調になるヴェルナー・ベストにマリーは拳を固めてベストに言いつのった。

 要するに暇なのだ。

 プラハの報告書はすでにヒムラーと秩序警察、国家保安本部に提出されている。今のところ、彼女に仕事らしい仕事はない。

「でも、だって……」

 頬を膨らませた彼女は助けを求めるように、ハインツ・ヨストを見やってから不満そうにベストの腕を何度も引っ張った。

「だって、このままじゃ本当に取り返しのつかないことになるわ。ベスト博士だってわかるでしょう」

 あなたこそわかるはずだ。

 取り返しが付かないことになる。

 マリーの訴えに、ヴェルナー・ベストは金色の頭を軽く撫でてやってから、腕を組み直して考え込んだ。

「君はハイゼンベルク博士たちの側につくことがどれだけ危険なことかわかっているのか?」

 ベストが問いかけると、少女は表情を変えもせずに睫毛を瞬かせて目を伏せると、そっと床に視線を滑らせる。

「わたしが選んだのは”ハイゼンベルク博士じゃない”わ」

 いつものように太陽の欠片のような声色を響かせて、マリーはにこりと笑った。

「……――ふん」

 彼女の物言いにベストが鼻を鳴らす。

「マリー」

 ややしてからヴェルナー・ベストは少女の頬をつかむと引き寄せる。

「わたしとしては、君を信じることに否やはないが、どうも君の真意が理解できん」

 ハイゼンベルクとゾンマーフェルト。そしてプランクやハーン。

 彼らに味方をすることがどれだけ危険なことか。それをベストだからこそ知っていた。そしてつまるところ、それらはレーナルトやシュタルクを敵に回すことでもあり、結論としてはレーナルトやシュタルクを敵に回すと言うことは、ドイツ政府首脳部に深く切り込むと言うことでもある。

 それほど大きな権力は、ベストは愚か、ヒムラーにすら持ちはしないのだ。

 仮に、それらの問題が想像以上に早く白日に晒されるようなことがあれば、破滅が待っているのは自分自身に他ならない。

「万が一、”多くの者”を敵に回すようなことになれば、追及は免れんだろう」

 それを覚悟しているのか。

 ベストに問いかけられてマリーは笑った。

「大丈夫ですよ。今のところは、”まだ”」

 春の日差しのような笑顔に白旗を揚げたベストは、やれやれと肩を落とすとマリーの頭をぽんぽんとはたいてから自分のデスクの隣の椅子を長い指で指し示してみせる。

「コペンハーゲンに行きたいという理由を、申請せねばならんが」

「人魚像が見たいじゃダメ?」

 間の抜けたマリーの声に、ベストはあっけにとられてからあきれた様子で息をつくと、執務机の引き出しから申請用紙を取り出した。

 マリーの行動にはめっぽう甘い国家保安本部長官(カルテンブルンナー)だから、そこは問題なく申請を受理されるだろうとして、はたして彼女の別のふたりの上官――親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと、親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフの許可はおりるのだろうか。

「……やってみよう」

 制服の胸ポケットから万年筆を取ったベストは少女の視線を感じながらペンを紙面に滑らせるのだった。

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