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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIII ウロボロス
314/410

12 動向

 育ったのはベルリンの施設でろくな教育を受けていないはずの目の前の少女が、四カ国語を操るという現実を目の当たりにして、ヴェルナー・ハイゼンベルクは大いに面食らった。

 一見しただけではいかにも頭の悪そうな――端的に言えば馬鹿っぽい――彼女が、それほど言語能力に長けているとは思っていなかった。

 どこか達観したような言葉使いをする彼女が、せいぜいバイオリン程度を演奏できることは今の時代にあってそれほど不思議な事ではない。しかし、言語は違う。

 しかも国境沿いの街ではなく、彼女はまがりなりにもベルリン育ちともなれば、本来、それほど多く外国人と接する機会などないはずだ。

 なんとかようよう外国語を習得したハイゼンベルクにとって、彼女の資質には驚きを隠せなかった。

「ベルリン育ちだろう?」

 訝しんだハイゼンベルクに少女は「はい」と礼儀正しく返事をしてから朗らかに笑う。

 彼女はいつでもヴェルナー・ハイゼンベルクと話をするときは笑顔が輝くばかりで悪い印象はほとんどない。

 初対面で偏見のない視点で見れば屈託のない笑顔に嫌悪を感じる理由もないだろう。とはいえ、シェレンベルクがライプツィヒの研究所に彼女を連れてきたときは、余りの子供っぽさに、シェレンベルクの神経を疑った。

 子供を連れてドイツの最高機密機関に訪れるなどどうかしている。

 そう思った。

「……本当に?」

 問いかけて眉間をよせる。

 彼女はハイゼンベルクとゾンマーフェルトの会話に呑まれてしまって目を回していたが、実のところ物理学以外の政治的な話には時にはそれなりの関心を示していた。

 彼らが立っている場所も、マリーと名乗る少女にはよくわかっている。

 それほどアルノルト・ゾンマーフェルトとヴェルナー・ハイゼンベルクは微妙な立場に立たされていた。その足元は砂山で築かれたそれのように脆く、ともすれば一瞬で崩れ去ってしまうだろう。それほど微妙な立場に彼らはいる。

 得体の知れない金髪の少女と、優秀な金髪の愛弟子のやりとりを眺めていたゾンマーフェルトは、そっとパイプをテーブルに置いてから息を吐き出した。

 もちろん、ハイゼンベルクがマリーの言語能力に嫉妬しているわけでもないことはゾンマーフェルトにもわかっていた。

 おそらく単純に愕然としているのだろう。

 ハイゼンベルクは少年の頃から繊細な男だった。それは今も変わらない。

「はい」

 マリーはにこりともう一度笑ってから立ち上がったゾンマーフェルトを視線で追いかけた。

「でも、ハイゼンベルク博士はどうしてそんなこと知りたがるんですか?」

「誰だって不思議に思うんじゃないか? 少し考えれば誰だって不自然だと思うに”決まってる”」

「ふーん」

 マリーは七十代の騎兵将校のような老人と、溌剌としているようにも見える四十代の若手の科学者を見やってからピンク色の唇に右手の人差し指を押し当てて考え込むと、天井に視線を上げてから考えた。

「”そんなこと誰が決めたんですか”?」

 真顔で問い返したマリーは、青い瞳を星のようにまたたかせてからいたずらでも思いついた小さな子供のようにほほえんだ。

 小悪魔のように笑う。

「……――え?」

 別にマリーの声は意地が悪く響いたわけでもない。

 ハイゼンベルクが感じた違和感はごく些細なものだ。

「ハイゼンベルク博士も、ゾンマーフェルト教授もわたしなんかよりずっと頭が良いのに、どうしてそんな固定観念にとらわれているんです?」

 どうしてあなたは常識に捕らわれるの?

「どうしてわたしが知っている事を()っているというだけで、それが普通じゃなくて、”誰だって不思議”に考えることなんです?」

 ぴょこりと椅子から立ち上がると、スカートの裾をくるりと翻すようにして両手を広げて回ってみせると、かわいらしく首を傾けてから、唐突にずいっとハイゼンベルクの瞳を覗き込んだ。

「わたしのほうこそハイゼンベルク博士の考え方がわかりません」

 無邪気に屈託もなく笑った彼女は、子猫のように目を細めてから間近に顔を近づけてからしばらくして不意に瞳から表情を消した。

「”誰もが同じものを見ている”わけではないのに」

「……――君はいったい」

 同じ物体を見ているからと言って、それを具体的に「同じもの」を観測しているとは限らない。

「わたしが見ている世界と、”あなた(ジー)”が見ている世界が同じ世界である”保障はない”わ」

 無表情で言った彼女は、そうしてからくるりと踊るように踵を返すと、再びハイゼンベルクの目の前で、踊り子が踊るように子供らしい無邪気な笑顔を見せた。

 まるで普段着のスカートを、かつての姫君のドレスに見立てる子供のようだ。

 十六歳だと言うが、実際のところその年齢から大幅に年少に見えるのはこうした子供っぽい仕草によるところなのだろう。もっとも、自分が十六歳の頃はもう少し大人びていたようにも思えるのだが、最近の子供はすっかり成熟するということに興味を持たなくなってしまったのだろうか。

 そう考えると嘆かわしいものも感じるが、今さらそれを目の前の子供にどうこう言ったところではじまらない。

 複数の人間によって観測される世界は、はたしてひとつのものなのか、と彼女が問いかける。その問いはひどく謎めいているようにも感じてハイゼンベルクは思わず言葉を飲み込んだ。

 達観した眼差しを世界に向けているようだが、その表情はひどく子供っぽくも見える。そんな彼女の存在に、ハイゼンベルクは混乱した。

 どこか大人びた笑みをたたえていながら、その瞳の奥にある幼い子供のような無邪気な残虐性。

 片手には髑髏を持ち、片手には野の花を持つ。

「どうだろう、ハイゼンベルク君」

「……はい、教授」

 呆然とするハイゼンベルクの鼓膜に老教授の声が響いた。

 ヴェルナー・ハイゼンベルクもまた、親友のヴォルフガング・パウリ同様にアルノルト・ゾンマーフェルトを尊敬する科学者のひとりだ。

「ひとつ大博打を打ってみるかね?」

「……しかし、ですが……! ゾンマーフェルト教授……」

 大博打、という単語に思わずハイゼンベルクはソファから腰を浮かしかけた。

「わたしはすでにアインシュタイン博士の理論を肯定するという危険な橋を渡っている。おそらく今でもこんなわたしをレーナルトもシュタルクも面白くは思っていないだろう。わたしはすでに社会から抹殺されたようなものだ」

 ミュンヘン大学の教授という地位から退き、半ば楽隠居したゾンマーフェルトを尚もレーナルトらの反ユダヤ主義の思想に染まった科学者たちが追撃した。

「わたしは、正直、今のヒトラーが率いる政府がどうなろうが興味はない。ただ、惜しむらくは欲に目が眩んだ連中が、偉大な仕事を残したアインシュタイン博士や、その他多くの科学者たちの仕事を否定することは、大変”残念”だ」

 優秀で偉大な頭脳を持った者たちに憎悪を駆り立て、言われなき汚名を着せ、科学の世界から追放しようとした。

 それがゾンマーフェルトには残念に感じた。

 迫害した男たちは、ゾンマーフェルトもよく知る優秀な科学者たちだった。その業績は、アインシュタインらに勝るとも劣らない。

 彼らはそんな自分たちの業績すら汚したのだ。

「わたしにはそれが残念だ……」

 溜め息のように言った彼は、改めて少女を見やると穏やかにほほえんでからハイゼンベルクの前のソファに腰を下ろすと、愛弟子の瞳をじっと見つめた。

 デスクの上には、置かれたパイプが煙を立ち上らせている。

 部屋の中に置かれた珍しいものにくるくると関心を向けていたマリーだったが最終的には飽きたらしく、ハイゼンベルクとゾンマーフェルトのところへと戻ってきた。ゾンマーフェルトのほうはといえば、別に少女に見られて困るようなものはないらしく、彼女のやることを咎めるわけでもなかった。

「君は、わたしたちの味方になってくれるのかね?」

 本当の孫娘のように、ゾンマーフェルトに背後から両腕を回して抱きついた金髪の少女の腕を受け止めながら、老科学者が問いかけた。

 そんな彼女の様子にきょとんと目を丸くしたマリーは、ややしてからクスクスと笑い出してゾンマーフェルトの頬に自分の頬をくっつける。屈託のない少女の笑顔に、鼻から息を抜いて肩の力を抜いたゾンマーフェルトはしわがれた手で彼女の頭をくしゃりとかき混ぜる。

「ハイゼンベルク君、わたしはもう死ぬだけの人生だ。それにプランク博士同様、そろそろ君らのように精力的に動き回ることなどできんし、覚悟を決めて戦ってみるとしよう」

 ゾンマーフェルトは無邪気で屈託のない笑顔を浮かべる彼女がひどく気に入った様子だ。そもそも彼はギナジウムの教師でもなければ、基礎教育の教師でもない。科学の最前線を駆け抜けた生粋の物理学者であるから、学力の足りない彼女の教育には骨が折れるのではないかとも思われる。

「わたしはドイツの味方よ」

「……わたしもドイツの味方だ」

 苦笑したゾンマーフェルトは、視線をハイゼンベルクに投げかけて厳しい表情に戻ると白髪の交じった睫毛を揺らして口元に静かな笑みをたたえた。

「わたしは、もう一度戦ってみようと思う」



  *

 ハイゼンベルクとの徒歩旅行を終えてベルリンの街並みの中に戻ってきたマリーは、駅で出迎えたヨーゼフ・マイジンガーに駆け寄ると華奢な腕で将校用に白い下襟のついたコートを身につけた中年の男の腹にポフンと抱きついた。

 厳つい禿げ頭の親衛隊将校と、ピンクのど派手なマントを身につけた少女というのもいささか奇妙な光景にも見えるが、それに対して表立って訝しい言葉を放つ者は誰ひとりとしていなかった。

 彼のコートに縫い付けられる菱形のSD章に、誰もが見てみなかった振りをして眼をそらす。

 それはゲシュタポの証しである。

 一般的にSD章の見分け方など知られていないから、その徽章は恐怖の代名詞として名前を轟かせるばかりである。しかし、彼の正体は確かに多くの市民たちから死の恐怖という存在として恐れられたものだったから、マイジンガーも別にそれを声高に否定することもない。

 彼にとって、人から恐れられることなど大した問題ではなかった。

「またねー、ハイゼンベルク博士」

 ひらひらと手を振る彼女に、ウラン・クラブの責任者であるヴェルナー・ハイゼンベルクもそんな少女に手を振り返して笑顔を浮かべる。

 後ろ抱きにするようなマイジンガーの腕を自分の手で抱きしめてから、マリーはそれからすぐに見知った男がベンツから下りてくるのを目に留めて再び花が開いたような笑顔を浮かべると律動的な歩調で歩み寄る知性的な印象の強い将校に大きく右手を振って見せた。

「あっ! ベスト博士ー!」

「……ハイゼンベルク教授は、もうお帰りになったのか?」

 歩み寄ってきたベストはおざなりに少女の肩を軽くたたいてから、マイジンガーに問いかけた。

 その顔は穏やかで知性的な知識人の表情ではなく、確かに親衛隊の高級将校としての厳しい顔だ。

「はい、もうお帰りになりました」

「そうか……」

 視線を泳がせてなにやら一瞬考え込んだが、すぐに顎をしゃくると踵を返す。

「国家保安本部に戻るぞ」

「は……っ」

 カッと踵を鳴らしたマイジンガーは敬礼をしてベストに少女を引き渡してから、ごきりと首を回して長い溜め息をついた。

 ――ボルマンが動いた。

 ヴェルナー・ベストはそう言った。

 新年から面倒な年になりそうだ。マイジンガーはそう思った。

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