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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIII ウロボロス
312/410

10 師匠と弟子

 ヨハネス・シュタルクとそんなやりとりがあってから数日後――一月も後半に入った頃、再びライプツィヒからヴェルナー・ハイゼンベルクが訪れた。

 ウラン・クラブの中心人物ともなると高名な科学者でも戦時も暇がありあまっているのだろうか。そんな穿った考え方をしたエルンスト・カルテンブルンナーは一時間後に来訪する旨を本人から連絡受けて受話器を置くとひとつ溜め息をついて、今度は別の内線電話の受話器を上げると人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハを呼び出した。

「……ハイゼンベルク教授が?」

 来室したシュトレッケンバッハが眉尻をつり上げて問いかければ、とてもではないが見栄えがするとは言い難い顔に手を当ててカルテンブルンナーは息を吐き出してみせる。

「なんでも”彼女”と話がしたいそうだ」

「なるほど」

「親衛隊員抜きで」

 続いたカルテンブルンナーの言葉にシュトレッケンバッハも小首を傾げる。

 彼は書類上では「白いユダヤ人」と烙印を押されたいわゆる「ユダヤ物理学擁護派」だ。師弟共に危険な橋を渡ろうとするのは、「師弟故」なのだろうか。

 そんなことを考えながら数秒黙り込んでいると、カルテンブルンナーがじっとシュトレッケンバッハの瞳の覗き込んで問いかけた。

「どう思う?」

「わたしには学術的なことは判断いたしかねますが」

 学術的な――こと、まだ芽吹きはじめた量子論や量子力学、そして理論物理学のことなど、せいぜいニュートン力学程度しか理解していないシュトレッケンバッハなどにはさっぱり理解できない。

 だから学者は学者で好きなことをやっていればいいのだ、とも思わないでもない。

 そしてそんな学者の権力争いと覇権争いにかつてナチス親衛隊が利用されたこともシュトレッケンバッハは忘れてはいない。彼らは、自らの地位のために親衛隊の政治力を欲したのだ。

 学者の世界というのは得てして政治力が関係する世界でもある。

 どれだけ強力な政治的背景を持つことができるかで、その地位を固められるとも言える。

 論文一本通すためにも政治力は必要だった。

 そして、親衛隊の強権を利用した男のことも。

 つまるところ、そんな男はその程度の価値しか持っていない。

 不世出の天才と言うのももちろん否定できないが、シュトレッケンバッハが見たところ、親衛隊の力を不本意に利用しようとした男には、それだけの才能があるとは思えない。

 そして、そうした政治力は若き天才――ヴェルナー・ハイゼンベルクのほうが一枚上手だった。

「ハイゼンベルク教授は決して浅はかな方ではありません」

 ヨハネス・シュタルクやフィリップ・レーナルトとは違う。

 抜け目なく政治的で、腹の底でなにを考えているか凡人には計り知れない。

「つまり?」

 つまりどういうことだと執拗に問いかけるカルテンブルンナーにシュトレッケンバッハが肩を落とした。要するに、カルテンブルンナーは彼が国家保安本部長官に任命される前にその代理を任された男の確信がほしいのだ。

 それほどカルテンブルンナーはマリーを心配している。

「心配いらないと申し上げているんです」

「……だが、世の中には二十歳以上年齢の違う女性に恋をする男もいるではないか」

「――……」

 それもそうだが、そこまで心配するようではマリーはカルテンブルンナーの視界の外に外出などできなくなってしまうではないか。

「”長官閣下オーバーグルッペンヒューラー”」

 こほん、とシュトレッケンバッハが咳払いした。

「余り入れ込むと、”ラウバル嬢”の二の舞になりますぞ」

 ラウバル嬢――。

 その言葉に、カルテンブルンナーはギョッとした様子で硬直した。

 彼女の名前は、アンゲリカ・マリア・ラウバル。

 ドイツ第三帝国国家元首、アドルフ・ヒトラーの姪に当たる女性で、彼女は今か約十年ほど前に拳銃自殺をして短い命を散らした。

 その死は極秘裏に処理され、正式には何の問題もなく片付けられていたが、アンゲリカ・マリア・ラウバルの死にまつわる噂は警察組織――特に高官たちの間では暗黙の了解とも言える。

「年頃の少女の自由意志を尊重すべきです」

 はっきりとシュトレッケンバッハにそう言われ、カルテンブルンナーは広い肩を落としてうなだれた。

 もちろん、シュトレッケンバッハだって心配にならないわけではない。

 しかし、彼が見るところ、マリーは余り色恋沙汰に関しては無頓着なようだし、相手はなによりも大科学者で人格も申し分ない。

 ならば、そんな「大の大人」に任せてみるのも良いではないか。

 彼女に別の世界が広がるのは、人間の成長として悪い話ではない。

「うぅむ……」

 尚も煮え切らない様子のカルテンブルンナーに、シュトレッケンバッハは肩をすくめてみせた。



  *

 そんな紆余曲折めいたものがあったことはともかくとして、マリーは二時間後にはハイゼンベルクに連れられて徒歩旅行のためにベルリン駅を訪れていた。

「外国には行かないから安心したまえ」

 永遠の別れでもあるまいし、不安げにマイジンガーの手をぎゅっと握った少女は、反対側の手をハイゼンベルクに握られて、困ったようにふたりの中年男を見上げて視線を彷徨わせる。

「別に君を取って食うつもりじゃない」

 日程は四泊五日。

 電車と徒歩が移動のメインだから相当体力は消耗する。

 日程をハイゼンベルクから聞いたマリーは目を白黒させて閉口したが、結局、男たちの口車にうまいこと乗せられて否やなど言えるはずもなく、そのまま天才科学者の徒歩旅行のお供に決められてしまった。

「取ってくうだと」

 ぴくりと神経質に眉毛をつり上げた禿げ頭の厳つい目つきの男は、攻撃的に身を乗り出したが、一方のハイゼンベルクは目の前にいる小物など取るに足りないないといった顔でひらひらと片手を振った。

「別に上級大佐のことを言っているわけではない、わたしが関心があるのは彼女だけだ」

 素っ気なく言われて、マイジンガーはぎりりと奥歯を噛みしめる。

 マリーに万が一危険な目に晒されるようなことになったらと考えると、こんな小旅行はなんとかしてやめさせたいが、年末から続くマリーの身の回りの騒動の息抜きとして、国家保安本部長官と親衛隊全国指導者から命令があったとなれば、マイジンガー程度にその決定を覆すことなどできはしないのだ。

「……なにかあれば、秩序警察でもなんでも介して俺に連絡しろ」

 少女の金髪の頭を撫でたマイジンガーは、そうして彼らの乗る電車を見送った。

 それにしても、とその電車が見えなくなってから彼は顎を撫でると考える。

 いったいヴェルナー・ハイゼンベルクは、彼女にどんな用件があったのだろう。

「わたし、難しいお話は嫌いです」

「そりゃそうだろうな」

 少女の言葉を横から受けて、ハイゼンベルクはふたつ返事で相づちを打った。

「だいたい君は”基礎教育”も終わっているのかも怪しいものだ」

 圧倒的に知能が足りない。

 容赦ない天才科学者の言葉に少女はしょんぼりと肩を落とす。

 さんざん馬鹿だ馬鹿だと言われてきたが、ここまで容赦ない言葉を彼女に告げるのは、マリーが知る限り、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクと、特別保安諜報部首席補佐官のヴェルナー・ベストくらいだ。

 なんだかんだでマリーに甘い顔をするふたりに言われても全くこたえないが、相手が余り話を交わしたことのない天才科学者だとその意味を勘ぐってしまって唇を尖らせた。

 不満と、つけつけと告げられた評価に意気消沈する。

「あぁ、言い方が悪かった。別に悪気があるわけじゃないんだ」

 少女の顔が膨らんだのを認めて、ハイゼンベルクは朗らかに笑うと、コートを身につけた胸の前で腕を組み合わせると目の前の中空を睨み付けてから数秒勘考え込んだ。

 ずばりと本質に切り込むようなハイゼンベルクの口調は、確かに悪気は感じられないが、余りにも率直に言われると少女なりに傷つくようだ。

 乙女心は複雑なものである。

「君は国家保安本部の一員だから、わたしが何と”連中”に呼ばれているのかは知っているだろう」

 揶揄するようなハイゼンベルクの声に、金髪を揺らしたマリーは顔を上げてから口をひらきかけた。

 ――白いユダヤ人。

 ――ユダヤ人。

 その言葉は市井で放って良いものではない。

 あわてたようにマリーの唇の前に人差し指を立てて、言葉を封じたハイゼンベルクは少女の唇に他意もなく触れてしまったことを恥じて苦笑すると目線を電車の窓の外に戻す。

「そのコートは目立って良いな」

 マリーのピンクのマントをさしてハイゼンベルクが告げると、マリーは無邪気に笑ってから「ゲーリング元帥からの贈り物」だと教えてくれた。

「ぱっと見は悪趣味だが、その格好なら人さらいにあわずに済む。ゲーリング元帥の好みはいろいろ派手すぎて同意しかねるが、君みたいな子はそれくらい派手な服を着ていた方が良い」

 ど派手なピンクのマントなら、どこにいても目につく。

 特に人混みに埋もれてしまうような華奢で上背の低い少女ともなればなおさらだ。

 そう言った点から考えれば、ヘルマン・ゲーリングの派手好みも「”悪くはない”」。というものだ。

「……ずーっと歩くんですか?」

「いや、いやいや……。そうじゃない。徒歩旅行だと言ったが、別に山を登るわけじゃない。古い”知り合い”との会合があってね。それに君を連れて行きたいだけだ」

 本当は、ウラン・クラブを束ねる彼がかつての知己に会わせる顔などない。

 言葉を選ぶようにしてそう言ったハイゼンベルクは、やはり列車の窓から外を見つめると唇を噛みしめてから睫毛を揺らした。

「山を登る余裕なんて、今のわたしにはない」

 少しだけ悲しげに言ってから、息を吐き出すとハイゼンベルクは胸の前で組んでいた腕をほどいて吐息する。

「わたしは、君のことを知らない。君のことを、わたしは知りたい」

 ゲシュタポに関係する人物だと言うだけで、偏見を向けていた。

 しかし、もしかしたらそうではないのかもしれない。そんな思いがハイゼンベルクの胸中をよぎった。

 どうして彼女はこんなにも「一生懸命」になって白いユダヤ人と揶揄された彼に手を差し伸べようとするのだろう。

 ハイゼンベルクが調べ上げた書類の中に見えるのは、子供らしい無邪気な気まぐれさも散見された。だけれども、確かにゲシュタポに席を連ねていながら、マリーはハイゼンベルクの視線の先に関心を向ける。

 それはひどく深慮遠謀を巡らせているようにも見えて、そうではないようにも見える。

 子供たちの無邪気で自由な気まぐれを思い起こさせる。

 それから電車の移動の最中にハイゼンベルクは少女に様々なことを問いかけた。

 学問のことから政治的なこと、もしくは音楽のことまで。

「君はバイオリンが弾けるのか。ならばどうだろう、今度わたしと演奏してみないか?」

 ヴェルナー・ハイゼンベルクはピアノの名手だ。

「そんなに上手じゃありません」

 マリーが応じると、ハイゼンベルクは穏やかに笑う。

「別にうまいかへたかなんて気にすることじゃない。我々はプロではないのだからな。見せるための演奏なら演奏家に任せれば良い。要はアマチュアの我々は、楽しく演奏できればそれでいいのだ」

 もっともらしいハイゼンベルクの言葉に、マリーはうっかり頷いた。

「まぁ、わたしは昔から負けず嫌いだったが」

 付け加えたハイゼンベルクに、マリーが視線を上げてから手袋をした手を擦り合わせた。

「大して能もないのに負けず嫌いだったから、昔の大学時代の友人には馬鹿にされたものだがね」

 それでも努力はした。

 博士号を取ったときの成績は下から二番目で、彼の知己とは比較にならないほど劣っていたが。

「それでも、わたしはわたしなりにわからなくても努力はしたのだ」

 ふと力のこもった男の声にマリーはにこりと笑った。

「自分がどれくらい頑張って来れたかを自分でわかってるっていうことはすごいことだと思います」

 なかなか自分のことというものは、自分では正確に評価できないものだ。

 ハイゼンベルクの自分自身に対する評価に、マリーは素直な賞賛を送ると照れた様子で頭を掻いた。

「これだって友人からの受け売りだ。彼が、わたしに対して容赦なく評価してくれたから、わたしはむかっ腹を立てながらも自分を見つめ直すことができた。とはいえ、彼も彼で自分のことはよく見えていないようだが」

 彼も強情な男だ――。

 彼――ヴォルフガング・パウリ。

 かつてのハイゼンベルクの親友だ。

 そうして、その日の夕方、少女を連れたヴェルナー・ハイゼンベルクは一軒の屋敷の前に到着した。

「お久しぶりです、教授」

「……あぁ、急な連絡だったから少しばかり驚いたが」

 口ひげをたたえたそれほど大柄ではない男に出迎えられて、少女はぱちりと目をまたたいた。

 アルノルト・ゾンマーフェルト。

 ヴェルナー・ハイゼンベルクの恩師でもある。

「実はお伺いしたいことがあって参りました」

「ふむ……」

「彼女はゲシュタポの捜査官です。訳あって連れて参りましたが、彼女がいる代わりに、わたしと教授につけられている監視はカルテンブルンナー大将とヒムラー長官の判断で外されています」

 思い詰めた様子でハイゼンベルクが告げた内容にゾンマーフェルトは少々驚いた様子で、金髪の少女を見つめたが、問題の当人はそれほどどうして目の前の科学者が驚いた顔をしているのか理解できずにいるようだった。

「……それは本当かね?」

「はい、”間違いありません”」

 つまるところ、彼女がいる代わりに好きな会話をできる、とハイゼンベルクは言っているのだ。

 それを正確に読み取ったゾンマーフェルトは少しばかり険しい顔になってから、おもむろに少女の寒さでピンク色に染まった頬を指先でつまんで引き上げる。

 キャッと悲鳴を上げたマリーが思わずゾンマーフェルトの手を払いのけようとするが、そんな仕草が素晴らしく優秀な教育者たるゾンマーフェルトには気に入ったようだ。

「なかなか見所がありそうな小娘だが、ギナジウムくらいは卒業しているのかね?」

「はぁ、それがその……」

 恩師に問いかけられてハイゼンベルクは言葉を濁した。

 別に物理学科に推薦するためにゾンマーフェルトの元に連れてきたわけではない。

 しかしそんな生粋の教育者であり、理論物理学者のゾンマーフェルトは彼女を一目で「見所がありそうだ」と判断した。

 それはつまり、そういうことなのではないか。

 ハイゼンベルクの脳裏をちらとそんな考えがよぎった。

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