6 蜘蛛の網
オーストリアのウィーンで、国家保安本部第四局――ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーから事の成り行きを耳にしたエルンスト・カルテンブルンナーは電話の受話器を持ったままで眉をひそめた。
親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーから聞いた話では、マリア・ハイドリヒは現在親衛隊大尉として親衛隊全国指導者個人幕僚部に名前を連ねる事となったと耳にした。
あんな子供を親衛隊将校として指名するのもいかがなものかと思ったが、それに加えて特別保安諜報部を新設し、この責任者として任命されたのだという。ハインリヒ・ヒムラーの考えていることがさっぱりわからない。
「そうか」
デスクの上にあるアルコールの入ったグラスを取りあげかけて、小さく舌打ちした。
「それで、ミュラー中将は捜査の協力を?」
電話の向こうで、ミュラーが「えぇ」と応じたのを聞きながら首を傾げる。確かに、子供である以上は親衛隊情報部の諜報員として「真価の発揮」をしなければ認められることなどないだろう。しかし、本当にあんな年若い娘を狼の巣に放り込むことなどカルテンブルンナーには同意しかねた。
「充分気を配ってやれ」
マリーとは時折手紙のやりとりをしているが、随分歩くことができるようになったと記されていた。しかし、それでも親衛隊将校としては体格不足にもはなはだしく、一般的な体格のドイツ人男性に襲いかかられたら手も足も出ないだろうと思われる。
それから二言三言の言葉を交わしてから受話器をおろしたカルテンブルンナーは、眉間を寄せたままで乱暴に革張りの椅子に座り直した。
自分がウィーンではなく、ベルリンにいればいくらでも手伝ってやることができるのだが、いかんせん職務を放棄するわけにはいかない。
もっとも職位で言うならば、一応、管轄地域の親衛隊と警察に対する最高指揮権があるはずなのだが、ラインハルト・ハイドリヒや、秩序警察のクルト・ダリューゲの障害にあい実質的なカルテンブルンナーの権力はかなり制限されていた。これがミュラーに言わせるところの「欲求不満の」カルテンブルンナーと言われる所以だった。
人差し指と親指で目を押さえて溜め息をついた。
なんとかしてやりたいが、どうすることもできない。苛立たしげに左手で強くデスクの上からグラスを思い切り払いのけた。重い音を響かせてグラスが落ちて、その中身が質の良い絨毯に飛び散った。
「マリア」
彼女に興味を持ったのは、シェレンベルクと国防軍情報部の長官ヴィルヘルム・カナリスが後見する子供がいると聞いたからだ。
最初は単純な興味だった。
どんな子かと思っただけだ。
一見しただけでは性格的に少々不安定なきらいのある子供、という印象しかなかったのだが、けれども不思議なもので話しをしているうちに彼女の青い瞳に飲み込まれた。
不思議な色だった。
まるで全てを絡め取るような瞳だとでも言えばいいのか。あんな瞳を見たのは初めてだ。強制収容所の囚人たちの虚ろな、そして恐怖の入り交じった瞳とはまた違う。
「……――あれは」
あれはなんだろう。
自分は精神科医でもなければ、心理分析官でもない。だから”それ”の正体がなんなのかわからない。考えれば考えるほど、理解の外へと外れていく。
この世で理解できないものは確かにあるのだと、そう感じさせられた。
執務机の引き出しを開いたカルテンブルンナーは、中に放り込まれていたファイルを取り出した。
マリア・ハイドリヒ。
彼女に関するファイル。
ハインリヒ・ヒムラーはさんざんカルテンブルンナーに酒と煙草を減らせとせっついてきていたが、なかなかどちらもやめられずにいたのだが、彼女と何回か会ううちに考えが変わっていった。
「このファイルを始末しておけ」
「承知しました」
秘書にファイルを手渡して、カルテンブルンナーは顎に指を当てたままで考え込んで視線を床に落とす。少なくとも多くの情報を収拾した結果、マリア・ハイドリヒに対する疑惑は一応晴れた。
いつもニコニコと笑ってカルテンブルンナーを花の家で出迎えた。その際のマリーからは悪意も、秘密もなにも感じさせない少女らしい笑顔の中には後ろめたさはなにもなかった。
マリアほどの年齢で、彼女が本当に連合国のスパイだとしたら、恐ろしく頭の回転が速いか、もしくは恐ろしい程の愚か者でなければ、これほど完璧な演技は無理だろう。
オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者のカルテンブルンナーも、ベルリンにいる国家保安本部の高官たちと同じように世界の行き先を高みから見下ろしている人間のひとりだ。
個人的なマリア・ハイドリヒに対する感情はともかく、最近の世界の慌ただしさに大きな不穏を感じた。
なにかが始まろうとしている。
かつて、カルテンブルンナーの障害となったラインハルト・ハイドリヒが生きていた頃に感じたもの。彼は冷徹で、決して私情に流されるようなことはなかった。少なくとも、ナチス党の政治思想とは全く無縁な男だったように思う。
「なにが始まろうとしている……」
ソビエト連邦の軍事クーデター。アメリカ合衆国の人種問題による暴動。そして日米の戦争と独ソ、独英の戦争だ。もちろん他にもある。だから、ややこしい。
そこまで考えてから、秘書に絨毯の掃除を命じた。
*
リストに挙げた名前をハインツ・ヨストは一読した。そんな彼にマリーの声が背後から飛んだ。
「ヨスト少将、それを三部印刷してもらってください。一部をミュラー中将に、ネーベ中将にもう一部を渡してください。最後の一部は、ヒムラー長官に」
「……官房長には知らせなくてもいいのか?」
「いりません」
きっぱりと言い放ったマリーに、ヨストは無言で頷くとそれを持って印刷室まで行ってしまった。本来は彼がしなくても良いことだが、特に秘書に命じるようなことでもない。大して重要な書類でもないが、粛正する者のリストが万が一流出するのは大いに困る。
「ちょっと、ネーベ中将のところへ行ってきます」
窓の外はすでに暗闇がたちこめている。
「しかしもう帰ったかもしれない」
ベストの助言にマリーはワンピースを翻して、くるりと体の方向を変える。そうして歩きだそうとした少女は踵で重心をとっていたせいで、絨毯の上で足を滑らせた。シェレンベルクから聞いたことだが、相変わらず足が不安定だ。
「……全く、大尉はもう少し自分の体に気を遣うべきだろう」
「ありがとう」
両腕で背後からマリーを受け止めたベストが肩をすくめると、少女は男を見上げて危機感のかけらもなく笑顔をたたえた。
いつも彼女からは笑顔が絶えない。
どんな状況でも彼女は笑っている。
「君は不快に感じたり、怒りを感じたりはしないのか?」
昼間のボルマンの件でもそうだった。なれなれしく肩を抱かれても顔色ひとつ変えることをしなかった。
「いやな気分になれば、誰でもそう思うんじゃありませんか?」
「だが君はいつでも笑顔だろう?」
特別保安諜報部に配属されて以来、ヴェルナー・ベストはマリーの笑顔以外見たことがない。そのほかの表情は、せいぜい驚いたり、考え込んでいる表情だけだ。
「そんなことないと思いますけど……」
相変わらず笑みをたたえている彼女は、ベストの腕に支えられながら立ち上がると今度こそ本当に執務室を出て行った。
おそらくふたりの刑事局長のところへ行くのだろうが、ミュラーは仕事の鬼だからまだいるだろうが、ネーベはどうだろう?
あの様子では明日にも総統官邸に務める人間の大捕物でもはじまりそうな勢いだ。
リストに挙げられたのは料理人から末端官僚、さらに親衛隊将校までと様々だ。傍目には一見人畜無害な人間たちだ。官邸からの強烈なバッシングもあるだろう。しかし、総統アドルフ・ヒトラーの身の安全を考えた場合、国家保安本部がそこで引くわけにはいかなかった。
汚れ仕事を請け負うのが国家保安本部なのだから。
大規模な粛正を行うにあたって、決して諜報局だけで動くわけではない。ベストの予想ではすでに彼女はヒムラーに手を回しているだろう。
かつて行われた長いナイフの夜事件のような、粛正でなければいいのだが。とりあえず、ボルマンのようにスカートをはいている相手と見ると見境なく手を出すような男には反吐が出るが、マリーの判断によって作られたリストにもいささかの疑問の余地があった。
自分はあの年端もいかない少女を信用してもいいのだろうか。
「とりあえず、こけなければいいか」
足があまり良くないせいか、なにせ彼女はよくつまづいて転ぶ。あれでは一部署の責任者としての威厳もへったくれもない。
三十分ほどして戻ってきたマリーと、ほぼ同じ時間にヨストが書類を片手にして戻ってきた。
「ご苦労様、ヨスト少将がやらなくても良かったのに」
「あぁ、構わない。東部での仕事に比べれば気楽なものだ」
同じ時期にネーベもアインザッツグルッペンに指揮官として配属されていたが、現在はやはりオーレンドルフやヨストのように東部から戻ってきており、表情の硬さもだいぶとれてきた。
ハインツ・ヨストとしては、東部での任務は相当神経に負担をかけていたのだろう。ラインハルト・ハイドリヒが生きていれば「軟弱者」となじるだろうか。
「しかし、信用させるにはこれが一番手っ取り早い手段とは言え、よくも戦略情報局の尻尾を捕まえられたな」
感心したようなヨストの言葉にマリーが応じた。
「だって、ヒムラー長官はともかく、皆さんがなかなか信用してくれそうになかったんですもの」
出自不明の娘。
ただ、ヴァルター・シェレンベルクとヴィルヘルム・カナリスが後見になっているだけという。
そんな少女をいきなり信用しろと言うほうがどだい無理な話だ。
「仕方ないな、それは。国家保安本部は猜疑心の固まりだ」
「だから少し荒っぽい手段でも使わなければ信用してくださらないかと思ったんです」
ドイツ第三帝国に危害を加える人間ではないという証明をしなければならなかった。そうしなければいつまでも信頼を得られないと思ったのだろう。
「リストに上がったあの連中を締め上げれば、アメリカとつながりのあるレジスタンスを一網打尽にできるはずです」
「それは心強いな」
気のない返事をしながらベストは手のひらで顔を仰いで、印刷された書類を確認するマリーを観察している。
「では、この書類を先ほどのとおりお願いします」
それぞれを封筒にいれてヨストに手渡したマリーがにこりと笑った。いつでも笑顔をたたえている少女に、ベストは片方の眉をつり上げるが、結局なにも言わずに封筒を持ったままで部屋を出て行くヨストの背中を見送った。
東部戦線でのアインザッツグルッペンの任務は、思いも寄らぬほどヨストの精神を蝕んでしまった。これではもう再起不能かと囁かれたが、マリーが拾い上げたことによって、だいぶ表情も落ち着いてきた。
――いったい彼女はなにを企んでいるのだろう。
時折、なにかに不安を感じるのかハインツ・ヨストがうろうろと視線を泳がせることもあるが、それは彼の心を残酷な人殺しという任務に堪えきれなかっただろうということを物語っている。
ヨストは今でも怯えているのだ。
今度はマリーの不興を買ってまた東部戦線に回されるのではないか、と。
「ヨスト少将で良かったのか?」
なにを、とは言わないベストの短い問いかけに、マリーはそっと軽く首を傾げると自分の隣に立っている法学博士を見上げた。
「えぇ、彼は優秀な人です」
多くを語らない彼女はそう応じてから、口元に指先を当ててから微笑した。




