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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIII ウロボロス
308/410

6 馬鹿げた事件の一幕

 そんな世間の流れとは別に、国家保安本部国外諜報局の特別保安諜報部ではちょっとした事件が起こった。

「……というわけで」

 ナウヨックスが数冊のファイルを抱えたままで雪の積もったバルコニーに出ていた次席補佐官のハインツ・ヨスト親衛隊少将に切り出した。

「マイジンガー夫人が、どうも不倫を疑っているらしく本官に直接尋ねてこられたのですが」

 弱り切ったナウヨックスにハインツ・ヨストは深々と溜め息をついてから冷え切ったベルリンの空気を吸い込んだ。ちなみにナウヨックスはベストとヨストの命令で中央記録所に赴いて必要な情報の収集にあたっていた。

「マイジンガーが不倫ね」

 マリーのお気に入りの椅子はすっかり降り続く雪に廊下に戻されているが、相変わらず一ヶ月おきにカバーは誰かさんの手に寄って掛け替えられている。彼女が出勤していようがしていまいがお構いなしだから、カバーの掛け替えを甲斐甲斐しく行っているのはプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの内勤者によるものらしい。

「ナウヨックスはどう考える?」

「……本官は、あり得ないと思いますが」

 まさしくどうでも良い事件だ。

 昨年の暮れ、ベーメン・メーレン保護領のプラハで特別保安諜報部を中心に行われた情報の収集と解析は年末年始の時間を使ってベストとヨスト、さらにメールホルンの手に寄って処理された。

 強面で禿げ頭で、粗野を絵に描いたような男であるヨーゼフ・マイジンガーが?

 もちろん絶対にあり得ない話でもないが、国家保安本部で業務に就くマイジンガーを見る限り、愛人らしい女と言葉を交わしている姿を見たこともないし、そんな素振りなどどこにもなかった。

「マイジンガーに愛人ねぇ……」

 余り想像しようもない事態にヨストは冷たく冷え切ってしまった額を軽くたたいてから「ふぅむ」とうなり声を上げる。

「マイジンガーみたいな奴に魅力を感じる女性がいるとは思えないが」

 権力欲の塊。

 そう表現するのが一番無難な気もする。

 考えたところで結局ヨストは想像もつかなくて答えを出すことを諦めた。彼は弁護士だがそもそも少し考えたくらいで真実にたどり着ければ、誰だって苦労などしない。

 ――もしかしてマリーのことか?

 そう思ったがヨストは口に出さずに小首を傾げると、アルフレート・ナウヨックスに向かって片手を振った。

「家庭内の問題は、家庭内で解決すべきだ。それに仮にマイジンガーが不倫をしていたとして、それは我々が口を出すべき問題ではない」

「それは承知しておりますが……」

 口ごもったナウヨックスは片手で口元を覆ったままで言葉を探すように視線を彷徨わせた。

「なんだ」

「ヨスト少将も、マイジンガー夫人が言っているのは、ハイドリヒ少佐のことだと考えていらっしゃるのではありませんか?」

 最低限の礼儀を保ったままで、思い切って問いかけるナウヨックスにハインツ・ヨストはひどく不快げに眉間にしわを寄せる。

「マイジンガーとマリーが体の関係があると本気で思っているのか?」

 その声に宿るのはナウヨックスの低俗さを(なじ)る嫌悪の響きだ。

「閣下……」

 機嫌を損ねたらしいヨストの声色にナウヨックスはうろたえたように肩を揺らしてから、視線をバルコニーの床に落とした。まるで自分の娘のようにマリーをかわいがっているハインツ・ヨストには禁句だったのかもしれない。

「申し訳ありません」

 言葉もなくうなだれたナウヨックスに、小馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らしてから視線を中庭へと送って両腕を組み直す。自分の告げた言葉の内容を理解したくもないとでも言いたげなヨストは、しばらくの沈黙を挟んでから肩越しに武装親衛隊の青年に視線をやった。

「余り低俗でくだらないことは口にするものではない。特にベスト中将の前ではその手の口は慎むべきだ。知能の低さを疑われる」

 十代半ばとは言っても痩せすぎで摂食障害も疑われそうな華奢な少女と、良い年の中年男。どこをどうすれば、そうした肉体関係に疑いを持てるのか。そちらのほうがよっぽど疑問だ。

 そう言ってからナウヨックスの差しだしたファイルを受け取って、靴底の雪を爪先をついてから落とすと廊下に戻った。

 ヨストがナウヨックスの低俗な報告を聞いてから執務室へと戻ると、ソファに腰を下ろしたヴェルナー・ベスト親衛隊中将とヘルベルト・メールホルン上級大佐が視界に入って、睫毛をしばたたかせた。

「我らが部長殿は無事に復職したようでなによりですな」

 メールホルンの言葉に、ヨストは小脇にファイルを抱えたままあいている二人がけのソファに腰を下ろしてからひとつ息を吐き出すと視線をベストに放つ。

「プラハの報告書は長官に提出した」

 ヨストがソファに腰掛けたのを確認してからベストは、それまでの話を戻すようにしてメールホルンとヨストに語りかけた。

「刑事警察のほうのわたしの仕事も一通り終わった。思った以上に収容所の腐敗は問題でな、モルゲン中尉もそれなりに頭を抱えていた。数が多いからおそらく略式裁判で判決が出るだろう。ただ、心配があるとすれば親衛隊全国指導者ライヒスヒューラー・エスエスが余計な横槍を入れてこないかということだけだ」

 ヒムラーは強い発言をする者に弱い傾向がある。それを危惧したメールホルンにベストは苦く笑ってちらとヨストに視線をやった。

 ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーにとって、昨年の初夏に暗殺されたラインハルト・ハイドリヒは確かに、どんな親衛隊幹部たちとは一線を画した副官であり、片腕以外の何物でもなかったこと。

 それは他でもない、ラインハルト・ハイドリヒの副官と呼ばれたヴェルナー・ベストが知っている。ハイドリヒの紛れもない冷徹さは確かにヒムラーという男を支えていた。本来、人間というものは良心の呵責に苦しむものだが、ハイドリヒはそうではない。

 彼は文字通り冷酷な男だった。

 少なくとも外見上は。

 彼の真意は、すでにラインハルト・ハイドリヒ亡き今、推察することしかできないが、凡庸な人の心を持ち合わせていたならば、政治警察のトップで指揮を執り続けることなどできなかっただろう。

 虐殺機関の指揮を執ると言うことは、それだけ精神に負担をかけるものなのだ。

 軍隊ですら人殺しのための大義名分を必要とする。そう考えればハイドリヒという男がいかに異端であったか想像もできるだろう。

「これで一段落と思ったら今度はフィリップ・レーナルトか」

 やれやれと肩をすくめたメールホルンは、首を傾げたままでヨストの持ち込んだファイルを指先でめくった。

「しかし、国家保安本部長官はよもや我々を過労死させるつもりではあるまいな」

「この問題については、モスクワに派遣されていたランゲとエーアリンガーが面白い話題を持ち帰ってきた」

 メールホルンに相づちを打ったベストが自分の目の前に伏せられていた報告書のコピーをひらりと持ち上げる。

「あぁ、そういえばスターリン派の残党が使節団を半壊させたとか?」

「ランゲとエーアリンガーが無事だったのは幸いだった。あのふたりが死んだら、余分な仕事が回ってくるのは”我々”だからな」

 共に行動部隊アインザッツグルッペンの指揮を執った優秀な法学博士で、文字通り彼らは親衛隊幹部の中でも将来有望なエリートに間違いない。

「それで、そのふたりがなにか? 中将」

「ヨスト少将とメールホルン上級大佐はソビエト連邦のピョートル・カピッツァ博士を知っているか?」

「……カピッツァ?」

 メールホルンはベストの口から出た言葉に首を傾げてから眉間を寄せた。

 さすがに外国の要人を完全に記憶しているわけでもない。しかし、元国外諜報局長のハインツ・ヨストと、情報管理の達人と呼ばれたヘルベルト・メールホルンはすぐにベストの上げた名前に思い至って、同様に視線を閃かせた。

「確か、イギリスの”あの”アーネスト・ラザフォード博士に師事した科学者だったか」

 ヨストが身を乗り出しながら指摘すると、メールホルンが小首を傾げてベストがつまみ上げた書類を眺める。

「ラザフォード博士というと、数年前に亡くなっているはずだ」

 この戦争がはじまる前に、イギリスの物理学者であるアーネスト・ラザフォードは死んだ。それは彼にとって幸せなことだったのかもしれないともヨストは思う。

 ラザフォードは母国の飢餓を見なくてすんだのだ。

「ラザフォードのことはさておき、ソ連のカピッツァのことだ」

 ベストは低く笑うと、ふたりの目の前に報告書のコピーを滑らせた。

 署名にはルドルフ・ランゲとあった。

 ざっと目を走らせると、モスクワでのスターリン派の残党による襲撃の子細と、ソビエト連邦国内で行われていた各種計画のあらましが事細かに記載されている。

 そして非公式にランゲと接触を持った科学者の存在についても。

 世界的にもそれなりに有名な科学者――ピョートル・カピッツァ。

 その人の名前だ。

 報告書と一緒に提出された内務人民委員部の書類はドイツ語で数ページにわたる注釈がつけられていた。

 それによるとスターリンやベリヤとは折り合いが悪かったことなどが如実に記されていてカピッツァの置かれた立場が微妙なものであったことが伺えた。

 頑固な男で現在の国家元首でもあるニキータ・フルシチョフともその関係は良好なものとは言い難い。

「面白い男だ」

 面白い、と表現したヨストにベストは重々しく言葉を続けた。

「わたしはこの男をベルリンに召喚することの重要性を提案する」

「しかし、ソ連の当局が許可しないのでは?」

 メールホルンが指摘するとベストは足を組み直してから、長い指でソファの肘掛けを軽くたたいてカミソリの刃のような印象すら受ける言葉を紡ぐ。

「今回のモスクワの親衛隊使節団に対する襲撃は、ソ連当局の怠慢に起因する。奴らの怠慢がこのたびの問題を引き起こしたのだ。そもそもシェレンベルク上級大佐が護衛部隊を密かに送り込んでいなければランゲとエーアリンガーは命を落としていたかもしれん。スターリン時代から連中と一線を引いてきたような男は、我々親衛隊情報部にとっても有効な情報源となるだろう」

 そう考えれば、その中枢に位置した知識人をベルリンに召喚し、証人喚問を行うことは重要だ。ピョートル・カピッツァほどの男であれば、ソビエト連邦内部でなにが起こっているのかを知っているはずだった。

 もっともそうしたところでおとなしくソ連当局が、親衛隊情報部の指示に従うとも思えない。

「カルテンブルンナー大将とヒムラー長官の進言が上を動かすか、だな」

 情報源は多いに越したことはない。

 しかし、国内や占領地であればともかく、ドイツの警察権の届かない地域となれば話は別で、相応の外交問題になるだろう。

 いくら中間管理職である彼らが頭をひねったところでどうすることもできはしない。

「……提案することに異論はないが、難しいな」

 国を動かすだけの権力など持ってはいない。

 だからその難しさはベストだけではなくヨストやメールホルンもよくわかっていた。

 個人の力というものはそれほどまでに小さい。

「カピッツァ、か」

 ヨストは眉間を寄せたままで腕を組むとじっとテーブルの上を見つめたままで考え込んだ。

「それはそうと、マイジンガーが浮気をしているのではないかと奥方が乗り込んできたらしいが、あれが浮気をしているのか?」

「なんだ、ベスト中将の耳にも入ってきていたのか」

 乗り込んで来るも何も国家保安本部は男の世界だ。

 女性職員など事務員や秘書程度しか勤務していない。

 更に言えば、特別保安諜報部の実働部隊を文字通り指揮しているマイジンガーが女性職員と仲睦まじくしている様子など見たこともない。

 三人の法学博士はうなり声を上げて首を傾げると、ややしてから思い至った考えに表情を曇らせる。

「……もしや、マリーか?」

「マリーが? マイジンガーの浮気相手?」

 ――それはない。

 三人は一様に考えを否定する。

 マイジンガーの大佐という階級はマリーがある程度自由に動き回るには最適な階級だ。彼の階級があってこそ、少佐のマリーが自分勝手に動くことができるとも言える。加えて大人の男であり、一応名目上は生え抜きの警察官僚でもある。

「……とはいえ、女心は複雑怪奇だ」

 優秀な法学博士たちにも理解できない。

 それが女性の――特に情愛に関する感情だ。

 一同がうんざりとマイジンガーの失態に息を吐き出した矢先、バタンと音を立てて執務室の扉が開いた。

 問題は次から次へと国家保安本部に舞い込んでくる。

「失礼、マリーを頼みます」

 唐突に響いたヨーゼフ・マイジンガーの声と共に、綺麗に編み込んだふたつ縛りの三つ編みを乱れさせた少女の腕をひいて、室内へと押し込めるようにして扉が閉ざされた。突然の事態にベストとヨストがあっけにとられているとメールホルンは少女の顔を見直してからさっと立ち上がった。

 白い左の頬が叩かれたのか赤く腫れ上がっている。

 余程強い力でたたかれたのだろう。

 その左の頬を押さえて涙ぐんでいるマリーは三人の法学博士に出迎えられて気がゆるんだのか情けない泣き声を上げた。

 へなへなと床に崩れ落ちかかるマリーを支えたメールホルンは、彼女をソファに座らせてやってから慌てた様子で執務室を出て行きながら扉の閉まり際に「様子を見てくる」とだけ言い残した。

「全く、君は次から次へと問題に巻き込まれるな」

 あきれた様子のベストが乱れた三つ編みをほどいてやりながら呟くと、そんな彼の胸に縋り付いて少女が泣き出した。

 おおかた、国家保安本部に乗り込んできたマイジンガー夫人が、マリーを浮気相手だと疑ってつかみかかったかなにかされたのだろう。マリーを連れてきた時の険しいマイジンガーの瞳を思い起こせばそんなことは容易に推察できた。

 ただでさえ国家保安本部は数々の問題を抱えている。

 昨年の暮れから続く国防軍の軍事クーデター疑惑に関してもそうだ。

「しかし、マイジンガーの奥方も、こんな子供が浮気相手もなにもなかろうとは思わんのか」

 自分の胸に縋って泣きじゃくっている――主に叩かれた時の驚きのせいで――少女の頭を軽く撫でてやりながら、ヴェルナー・ベストは何度目かの溜め息を吐きだした。

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