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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIII ウロボロス
306/410

4 栄光へのみちのり

 新年も明けた一月の初旬。

 アメリカ合衆国出身の物理学者、ロバート・オッペンハイマーは目の前に座る少しばかり年上の同胞の同業者を前にして小首を傾げた。

「人を馬鹿にするのも大概にしたまえ」

 毒舌で有名な天才物理学者とどうして顔をつきあわせることになったのだろう。

 ――物理学の良心。

 ――神の鞭。

 数々の異名を持つ早熟の天才。

 居丈高な態度でオッペンハイマーを見下すような眼差しを投げかけたヴォルフガング・エルンスト・パウリは煙草の煙を吐き出してから、かすかに片目を細めるとソファの肘掛けを軽くたたいてから「アメリカのタバコはまずい」と文句を言った。

 その真意がどこにあるのか、オッペンハイマーには理解しがたい。

 わかっているのは、パウリが原子爆弾の開発に対して批判的であることだけだ。

 多くの老若を問わない優れた物理学者たちが取り組んでいる国家的な威信を賭けたその計画に、パウリは鼻白んだ視線を投げかけている。

「君を含めてどいつもこいつも政府と軍部の思惑に踊らされているだけではないのかね?」

「……――しかし、パウリ教授。アメリカ政府が莫大な国費をつぎ込んでドイツに対抗するための兵器を開発していることが、どうして思惑に踊らされているだけということになるのですかな? そもそも、ドイツが侵略などしなければ、アメリカ合衆国だとてあんなものを開発する必要性などなかったはずだ」

 オッペンハイマーの言葉にパウリはちらとタバコの火を見つめてから数秒の逡巡を垣間見せてから、視線を上げた。

「正当性を主張している政府の発言こそが、不実な虚言だと”オッペンハイマー教授”は疑ったことはないのか?」

 真正面から、パウリは鋭く切り込んだ。

 新年早々にどうしてこんなくだらない話し合いで時間を潰さなければならないんだと、内心で不満を禁じ得ないパウリの機嫌は悪化する一方だ。

「しかし、パウリ教授。ヨーロッパでは我々の同胞がナチスの迫害に苦しんでいることもまた事実だ!」

 目の前の「アメリカ人」にそう告げられて、パウリはフンと鼻を鳴らした。

「同胞、か」

 都合の良い言葉だ。

 パウリはそう思った。

「確かにそれは事実以外の何物でもなかろうが、わたしが言いたいのはそんな言葉遊びのような”言い訳”ではない」

 ばっさりと切って捨てる。

 そうした表現が最も相応しいように感じられた。

 パウリの冷ややかな視線にオッペンハイマーはやや困惑しながらも、しかし一歩たりとも退きはしない。

 ふたりは互いに年齢も近しい。

 同じユダヤ系で、生まれた国が異なるだけの同業者。

「では、その同胞とやらを苦しめているナチの推進する原子爆弾開発計画にかこつけるようにして、同じ虐殺の手段を開発している君らがやっていることについては欠片も疑問を感じないのかね?」

 同じ民族――同胞。

 そうした考え方がパウリには気に入らない。

「まぁまぁ、パウリ教授もオッペンハイマー教授もその辺りで」

 ふたりがやりあうのをそれまで黙って見守っていたのは、はげ上がった頭と鋭い眼差しの印象的なもうひとりの物理学者だ。彼もまた物理学者で、パウリやその他大勢のユダヤ人たち同様に、アメリカに逃れてきた人間のひとりだ。

 彼の妻がユダヤ人であるためにヨーロッパ大陸を追われる身となった、彼らと同じ物理学者――。

 それが彼らの共通点だった。奇しくも年齢は余り変わらないが、その内側にある思想は余りにもかけ離れていた。

 もっとも、まるでパウリとオッペンハイマーを仲裁するような物言いをしているが、彼もまたロスアラモスで推進されるアメリカ合衆国の原子爆弾開発計画「マンハッタン計画」に名前を連ねる物理学者のひとりだった。

 とはいえ、そんな彼をパウリは思想的な意味で批難することはない。

「口出しはやめていただこうか、フェルミ教授」

 憮然としたオッペンハイマーに、エンリコ・フェルミが苦く笑った。

「あなたはご自分がユダヤ人でないから他人事でいられるのだ」

「確かにそういったところはあるでしょうが」

 どこか冷たい響きを乗せたフェルミの物言いに、パウリはちらと視線を放つ。

「別に他人がどうなろうと知った事じゃありません」

 時にその言葉はひどく冷徹にも感じられるが、反応を見せたのはオッペンハイマーだけで、パウリのほうは彼の発言に対して無反応に近かった。

「……とはいえ、一応、わたしもアメリカでこの”新型爆弾”の開発に関わる身の上ですし、妻の立場もありますから、一応表向きはナチが絶対悪だ、ということにしておきましょう」

 そんなフェルミの言葉を受けてオッペンハイマーは片方の眉をつり上げてから、軽く上半身を乗り出すようにしてソファに腰を浮かしかける。

「どういう意味ですかな」

 オッペンハイマーの言葉に刺々しさが宿るのに対して、フェルミは正体不明の笑みをたたえたままだ。

「言葉以上の意味はありませんよ、わたしは学者ですから」

 腹の前で両手の指を組み合わせたエンリコ・フェルミに視線を滑らせたヴォルフガング・パウリは、息を吐き出してから肩をすくめると改めてロバート・オッペンハイマーに視線を戻した。

「わたしが言いたいのは、科学者が特定の思想に捕らわれる事が危険だと言いたいだけだ」

 幼稚園児じゃあるまいし、なんでこんなことを懇切丁寧に教えてやらなければならんのだ、と独白するように続けてからマンハッタン計画を牽引する素晴らしく優秀と評判のふたりの科学者を眺めやった。

 彼ら――いや、彼は、とパウリは思った。

「オッペンハイマー教授、君は確かに素晴らしく優秀なのだろうが、”かなり”視野が狭い」

 相変わらずパウリの言葉は辛辣だ。

「……同胞が殺されるのを見殺しにしろと言うのか」

「それが詭弁だと言っているのだ」

 フェルミの仲裁などまるでなかったような表情でオッペンハイマーを一刀両断するパウリに、メンツを潰される形になったもうひとりの優秀な科学者は曖昧に笑ったままで、いろいろと諦めた。

 歯に衣を着せない物言いをするパウリだが、それは今に始まったことではない。それをフェルミは数々の伝説で知っていた。

 ドイツの物理学の総本山、ミュンヘン大学に在籍する高名なアルノルト・ゾンマーフェルト博士に師事し、その経歴は輝かしい。アインシュタインをしてうならせるだけの天才肌。

「人殺しを批難するなら、批難すれば良い。別にわたしはそんなことに倫理観を求めているわけではない。ただ、君らの二重基準が筋違いではないのかと言っているのだ」

「パウリ教授はそう言うが、わたしは政治家ではない!」

 オッペンハイマーが身を乗り出すが、パウリは余裕綽々と言った様子の鋭い眼差しをわずかに細めて見せただけだ。

「”政治をする”というのは”そういうこと”だと言っているのだ」

「では同胞が命の危機に瀕しているのを黙って見過ごせというのか!」

 これでは堂々巡りだ、とエンリコ・フェルミは内心で思った。もっとも、パウリを前に余分なことを発言すれば、返り討ちにあうのは目に見えているから、オッペンハイマーのような愚行は犯さない。

「命の危機に瀕しているのはなにも我々ユダヤ人だけではない。戦争をしているのだからな、どこで誰かが命を危険にさらしていてもおかしくはないのだ」

「では救えば良いではないか!」

「たったひとりの力で、何万人を救えばいいのだ?」

 激昂するオッペンハイマーにパウリは氷のように冷静だ。思わずぐっと息を飲み込んだオッペンハイマーにドイツを逃れてきた科学者は腕を組んでから軽く上半身を前後に揺らした。

「君は科学の世界に政治と思想を持ち込んでいる。それは一個人としては素晴らしい理想なのかもしれんが、科学の世界に持ち込むべきものではない」

 無情なほど冷徹なパウリの言葉に、フェルミは表情には出さずにかすかに失笑した。

 パウリは天才だ。

 物事の本質を最も単純に見据えている。

 そこに個人の感情は一切ない。

「オッペンハイマー教授、君が科学の世界に政治と思想を持ち込めば、君は君が心の底から嫌っているナチの連中と同じ振る舞いをしていることにほかならない」

 本来、政治と科学の道とは切り離されるべきだ。

 言外にパウリはそう主張した。

「パウリ教授は口惜しいとは思わないのですか」

 パウリの言葉にしばらく考え込んでからなんとか冷静さを取り戻したロバート・オッペンハイマーがかろうじて告げると、パウリは静かに冷ややかに笑っただけで、組んでいた腕をほどくとソファについて軽くたたく。

「”君ら”がつまらない間違いをするのは今に始まったことではないし、わたしは今さらそれが口惜しいなどとは思っていない。ナチの連中にしても”そう”だ。我々を追い出すことによって、自分の信じた道を遂げられると心の底から考えているのであれば、あの連中の頭も程度が知れる」

 君ら、という言葉をエンリコ・フェルミは正しく理解した。

 もっとも頭に血が上ったオッペンハイマーが、パウリの言葉を正確に理解しているかははなはだあやしい。

 大概、物理学者というものは、厳しい非難と批判に晒されることが多いため、頑固な者が多い。パウリにしろ、フェルミにしろ少なからずそうした面を持ち合わせている。

 だからオッペンハイマーも同じだろうと、フェルミは推察した。

 同業者である故に、多少の理解はできた。

 パウリが告げる「君ら」とは、単にマンハッタン計画に関わるオッペンハイマーたちのみを差しているわけではない。

 連合軍、ドイツを中心とした枢軸同盟。

 そうした全ての者たちをさして、パウリは「君ら」と言っているのだ。

 パウリやフェルミ。その場にはいない多くの科学者たちを追い出したナチス党の迎合者たち。

 彼らの罪に対して、パウリは無関心だった。

「いずれ君は君自身の思想によって自分の身を滅ぼすことになるだろう、そのときにへたな言い訳のひとつも考えておくといい」

 全く時間の無駄だ。

 ロバート・オッペンハイマーやレズリー・グローヴスの再三再四にわたる打診を受けて、ニューメキシコ州の研究所まで訪れたヴォルフガング・パウリはやれやれと息を吐き出しながらそう続けると立ち上がった。

「パウリ教授……!」

 部屋を出て行こうとするパウリを、オッペンハイマーが呼び止めた。

「わたしは諦めませんよ」

 あなたの存在を。

 物理学の天才と呼ばれたヴォルフガング・パウリを諦めないと、挑発されて当のパウリ本人は声もなく肩をすくめただけだった。

 コートとカバンを片手に研究所の応接室を出て行くパウリに、エンリコ・フェルミが立ち上がった。

「車を呼びます」

「あぁ」

 応接室にオッペンハイマーだけを取り残して、パウリの横に並んだフェルミは太って丸顔の物理学博士の横顔を覗き込んだ。

 知的な眼差しにはどこにも曇りがない。

「本気ですか?」

「なにがだね? フェルミ教授」

「あなたがナチと”我々”が同じだと言った言葉が、です」

「あぁ、別に。言葉以上の意味はないからどうとでも取ってくれて構わんよ」

 言葉以上の意味はない。

 そう告げたパウリにフェルミが苦笑いを浮かべた。

「君だって、せいぜいアメリカが研究のために莫大な資金を提供してくれている程度にしか思っていないのだろう?」

 オッペンハイマーと違って。

 そう告げられてフェルミが肩をすくめる。

「ひとりの人間が、救える命などたかが知れています」

「……アメリカは良いところだ」

 年下の科学者の言葉を受けて、パウリはぽつりと呟いた。

「しかし、楽園ではない」

 彼の鋭い瞳はすでにアメリカ合衆国内にある問題を看破している。

「どこの国も楽園ではない。……楽園など、どこにもないのだ」

 わずかに物憂げな光をたたえたパウリの瞳に、フェルミはひとつ頷いてから足を進める床に視線を落とした。

「フェルミ教授は好きにやれば良い。ドイツのハイゼンベルクも好きにやっているのだ。低俗なことが悪ではないし、将来的な正しさはいずれにしろ現在の段階で決定づけられるものでもない」

 そんなことはどうでも良いことだ。

 パウリはタバコを口元に運んでからそう呟いた。

「ただ、自覚のない偽善者には全くもって虫酸(むしず)が走る」

 パウリとて馬鹿馬鹿しい批判に晒された。

 ただ、ユダヤ人であると言うだけで。

 けれどもそれとこれとは話が別だ。

「あなたは、あなたに妬みそねみを抱いたドイツ人に恨みを抱いてはいないのですか?」

 問いかけられてパウリは小首を傾げる。

 長い沈黙を彼は挟んだ。

「……――わたしは」

 わたしは、偉大な師――アルノルト・ゾンマーフェルト教授の教えを受けることができて「名誉」に思う。

 痛烈で名を馳せる科学者は、言葉少なにそれだけを語った。

 パウリが胸の内に秘めるのは、潔癖に思える程の学問の道に対する畏敬の念だけだ。だから彼はマンハッタン計画の中心人物とも言えるオッペンハイマーを強烈に批難したのだ。

「ふむ……」

 ヴォルフガング・パウリの科学者としてのあり方にフェルミは顎に手を当てて考え込んだまま一度相づちを打った。天才肌の科学者はその慧眼ですでにフェルミ自身の中にあるものも見抜いている。それをパウリが言葉にしないのは、それはそれで科学者のあり方だとでも思っているのか、それとも俗物だと諦観の念を抱いているのかは謎だった。

 結局それ以上の言葉は口にせず、パウリは招かれたロスアラモスの研究所を去っていった。

「ゾンマーフェルト教授、か……」

 フェルミは遠ざかる車を見送って、そうしてぽつりと呟いた。

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