3 反形而上学の系譜
苛立ちを隠せない男は憮然とした表情のままでまずい紙巻きタバコをくわえると片目を細めてから窓の外の穏やかな景色を見やった。
北アメリカ大陸の西海岸――ニュージャージー州に位置するプリンストン大学の教授を務める男はヨーロッパ情勢と比較して余りにも穏やかすぎるアメリカ合衆国の景色にそっと眉をひそめた。
故郷のあるヨーロッパではかつて友人だった男たちが日夜、ドイツという祖国のために原子爆弾――新型爆弾の開発に勤しんでいるのだろう。そして、その情報を得たアメリカ合衆国を含めた英仏の連合国でも大規模に科学者たちを招集して、ドイツよりも早く新型爆弾を完成させるべく研究に励んでいる。
それが彼にはくだらないことだと思う。
「どこぞの”やくざ”か”ならず者”と同じだ」
独白が苦々しくなるのは、その先の道に広がる危険性を承知しているためだった。アメリカ合衆国にしろ、ドイツにしろ、現在でさえこの新たな理論を繁栄した原子爆弾という恐るべき兵器に対して資金をかけているというのに、それが完成した暁には途方もなく深い軍拡競争が待っているだけに違いない。
数年前、ハイゼンベルクがアメリカ合衆国を訪れた折りに、「彼」と同郷のオーストリア出身の科学者八歳年下のヴィクトール・ヴァイスコップが言ったことを思いだした。
――ハイゼンベルク教授を誘拐してはどうか。
目の前に腰を下ろした知己に、ヴォルフガング・パウリは一刀両断した。
「くだらんね」
告げられたヴァイスコップの言葉に、パウリはそれだけ言ってから肩をすくめた。ドイツの大学時代からの友人でもあるハイゼンベルクの気質を、パウリは知りすぎるほど理解していた。
夜遊びが好きだった彼とは正反対の好青年。
真面目で堅物で、愛国心に厚い。
そんな彼が稀代の天才と名を馳せて、ドイツの新型兵器開発計画に関わっていることも知っていたが、それでも彼はアメリカに渡航した際も何度友人たちに説得されてもドイツを離れるという選択肢に関心を向けることはしなかった。
自ら、政府内から疑いの視線を向けられることになっても。
「君だってハイゼンベルクのことはよく知っているだろう。あの男は堅物だ。頭も固いがなにより融通がきかん。融通が利かないからこうと決めたら自分の意志を曲げたりはしない。そういう男だろう」
彼はまだいい。
ヴォルフガング・パウリにしろ、ヴィクトール・ヴァイスコップにしろ。彼らはいわゆるユダヤ系知識人だ。
かつてアルベルト・アインシュタイン、リーゼ・マイトナー、ニールス・ボーアといった名だたる科学者たちをも苦しめたドイツの人種法は、パウリやヴァイスコップらにも降りかかる問題だった。
名声を馳せた彼らの名を貶め、妬みそねみを向けたドイツ人科学者たちによって糾弾された。
「しかし、パウリ教授……」
「しかしもかかしもない。だいたいいいかね、ヴァイスコップ。ハイゼンベルクは頭の固い男だ、あの男はこうと決めたら頑として他人の言葉など聞きはしないだろう。我々の学問的な話であればともかくとして、問題は”政治的”なのだからな」
排斥された者が涙を呑んで「祖国」を離れざるを得なかったように。
ハイゼンベルクも「排斥する側の人間」として、苦しみを抱えているだろう。
親友とも言えるつきあいをしてきたパウリだからこそ、ヴェルナー・ハイゼンベルクの苦しみもそれとなく察した。もっとも、辛辣を旨とするパウリはあえてそんなことは口にはしない。
ハイゼンベルクもそんなものは望んでいないだろう。
それが、長いつきあいのパウリにはわかっている。
だから、ヴァイスコップの底の浅い「企み」に対して「存外くだらない」と一蹴した。そんなことよりも気にかかる事は別にあった。
ハイゼンベルクの内心の思いはともかくとして、「彼ら」の推し進める計画にまつわる。
「君は、”例の計画”に参加しているのだろう?」
「えぇ、そうですが。それがなにか?」
応じたヴァイスコップの言葉にパウリは改めて憤慨する。
それがなにか、だって!
「……”君ら”はつくづく思っていたが全くもって”俗物”だな。たまたま人よりも多めに知識を得ているだけで、それ以外は猿にも劣る」
あきれかえった口調でそう言ったヴォルフガング・パウリは、ムッとした様子で眼鏡の奥で両方の眉尻を器用につり上げたヴィクトール・ヴァイスコップに一瞥をくれただけだった。
やはりパウリとは古いつきあいのヴァイスコップだったから、それ以上、年上の科学者を刺激するような発言は避けたが、心底不愉快で唇をへの字に曲げた。しかし、そんなヴァイスコップのことなど歯牙にも掛けない毒舌家として有名な天才科学者は太った体を揺らすようにして椅子に座り直すと改めて憮然としているヴァイスコップをじろじろと見直した。
理論物理学の権威――アインシュタインに勝るとも劣らない頭脳を持つ天才。
それがヴォルフガング・パウリに対する世間の評価だ。
「彼がドイツの原子爆弾開発計画に携わっているから誘拐しようなどという考え方そのものが低俗だというのだ」
切って捨てる。
そういう表現がいっそ正しいのかも知れない。
「しかし、原子爆弾が驚異的な存在であることにはパウリ教授も認識されるところではないのではないか?」
「……ふん」
ヴァイスコップの言葉にパウリは鼻を鳴らした。
「では君が参加している計画はどうだというのだね? ドイツのハイゼンベルクをあげつらっておきながら、自分たちが振るう力は抑止力だと息巻くつもりかね?」
鋭く切り込むパウリにヴィクトール・ヴァイスコップは辟易した。
「人というものは愚かな存在だ。だから、知能の低い俗物は、手に入れた力をすぐにでも誇示したくて仕方がなくなるものだ」
知能が低い俗物、というところにアクセントをつけたパウリに若いヴァイスコップは再三不快げな視線を素晴らしく優秀な理論物理学者に送るが、相変わらずそんな眼差しをものともせずに苛立たしげに体を揺らした。
つまるところ、パウリはヴァイスコップを俗物だとでも言いたいのだろう。
「もちろん、君の才能は”それなりに”認めるが、君の科学者としての姿勢は俗物以外の何物でもなかろう」
「わたしが俗物なら、ハイゼンベルク教授も俗物なのではないか」
思わず言い返したヴァイスコップに、パウリは低く声もなく笑った。
「わたしは”ハイゼンベルクが”俗物ではない、などとは一言も言っていないし、彼の参加している計画に賛成の意志があるわけでもない。だが、勘違いするな。ヴァイスコップ」
そこで一度、パウリは言葉を切った。
ヴォルフガング・パウリの言葉は、学生時代から変わらぬ鋭く切り裂く刃物のように空を切った。
「ハイゼンベルクが俗物であることと、君が俗物であることは同一の問題ではない。そしてハイゼンベルクが俗物であることが、君の行為の免罪符になるわけでもないことを忘れるな」
冷ややかにパウリが嘲笑した。
「オッペンハイマーだったかな、あいつはあの爆弾の開発について”大きな希望だ”と言ったそうだが、本当にそんなことを思っているとしたら、奴の頭はいかれている」
同業の科学者をこきおろしたパウリは、そう言ってから苦々しげに目の前の中空を睨み付けてからヴァイスコップを見やると舌打ちを鳴らした。
「結果はわかりきっている。その結果を導き出すために、君らはとてつもない努力をしているが、そんな努力は早々に切り上げて正しく科学を進める道に戻るべきだ」
「わかっていないのはあなたのほうだ、パウリ教授!」
パウリの辛辣すぎる言葉に、異を唱えたヴァイスコップは思わず立ち上がって拳を振り上げた。
まるで演説するかのように口を開いた。
「今やヨーロッパの大地で、我々の同胞がナチスの手にかかって命の危機に瀕している。彼らの命を救うためには我々は極悪非道な爆弾だとわかっていても、やらざるを得ないのだ! このままでは、ドイツ政府は必ずハイゼンベルク教授率いるチームのもとに原子爆弾を手に入れるだろう。世界の危機を、見逃せと言うのか!」
怒鳴りつけるように言葉を吐きだしたヴァイスコップに、パウリはもう一度「フン」と鼻を鳴らした。
「君らは”わかっていない”」
ヴァイスコップも、オッペンハイマーも、ハイゼンベルクも。
「君らが近視眼的なものの見方しかできんことで、本当に世界は危機を迎えるのだ。全く持って、君はチャーチルだの、ローズヴェルトだのの言葉にうまいこと乗せられたようだな」
まるで話にならないと首をすくめたパウリは、とにかく、とヴィクトール・ヴァイスコップに釘を刺した。
「ボーア教授とわたしの意見は同じだ。そもそも原子爆弾なぞというものはわたしには専門外だし、関わるつもりは最初からない。君らが自分自身の道として邁進するのは結構なことだが、それ相応の未来の対価を受けることになるということだけは覚えておきたまえ」
ヴァイスコップとの対話は結局、パウリにはなんの実りもなかった。
未だにレズリー・グローヴスの部下だという将校から、開発計画への参加を求められるが、それを追い返して今に至っている。
それにしたところで、ヴァイスコップは本当にハイゼンベルクを誘拐しようと考えたのだろうか?
パウリは窓の外を見つめたままで、ヴァイスコップとのやりとりを思い返してから小首を傾げた。
子供じみた諜報ごっこでもあるまいし。
噂では、やはり物理学の権威として知られるニールス・ボーアも原子爆弾の開発には否定的な見解を示しているという。
スウェーデンに逃れた原子物理学者のリーゼ・マイトナーも同様だ。
ハイゼンベルクが原子爆弾を開発できるかどうかは別として、ヴァイスコップらまでもが同じところにまで落ちる必要などどこにもない。そしてその爆弾が完成した日には、それは世界の物理学会にとって汚点の一つとして残ることになるだろう。
物理学者たちが、未来永劫背負っていかなければならない重い罪だ。
「ハイゼンベルク、君はそれほど重いものを背負う覚悟があるのか?」
独白するようにつぶやいて、ヴォルフガング・パウリは両肩を揺らした。
考え事をするときのパウリの癖だ。
おかげでミュンヘン大学に通っていたときは「まるで仏陀のようだ」と囁かれていた事も知っている。
オッペンハイマーも、ヴァイスコップも、そして若い科学者たちも。未来永劫続く茨の道を、重い十字架を背負っていく覚悟はできているのだろうか。
今やドイツのヴェルナー・ハイゼンベルクと言葉を交わすこともできない身の上だから、パウリは彼に聞くこともできないが。
真面目で堅物のハイゼンベルクをパウリは知っていた。
タバコの煙を吐き出してから、パウリは窓際に据えられた机の椅子に腰を下ろす。今の彼の頭の中を駆け巡るのは、学問を越えた世界で大きく動き出したきな臭い新兵器についてだ。
多くの科学者たちが、意気揚々と開発に携わっているが、それが間違った道であることには言うに及ばない。
やらなければわからない。
そんな妄言を吐き出す輩もいるが、この新型爆弾についてはやるまえから結果はわかりきっているのである。だから、パウリはその計画に乗り気ではなかった。
世界は間違った方向へと進もうとしているのに、何ら手立てはないままだ。
それが口惜しくて黙り込んだままで目を伏せると考え込んだ。
――今となっては、全てなにもかもが輝かしく懐かしい。
ハイゼンベルクと議論した大学時代も。
手紙のやりとりで論考をした研究員時代も。
「なんだなんだ、鬱陶しい顔をしているな、パウリ君」
コペンハーゲンにいた二十代の頃、異常ゼーマン効果について行き詰まっていた彼に投げかけられた声があった。
「うるさい! 異常ゼーマン効果のことを考えていて楽しそうにしている奴なんてどこにいるんだ!」
過ぎ去った昔日を懐かしむように、椅子に体を埋めたヴォルフガング・パウリは瞼を閉じた。
世界が間違っていることはわかりきっているのに、それを正すためには力が足りない。学問上の問題であればそれなりに解決できる自信はあったし、それなりの影響力を持っている自信もあった。しかし、問題は学問を越えて政治的なところで動いている。
閉じていた瞼をわずかに開いてからパウリは目の前を睨み付けた。
各国の狙いと、軍部の狙い。学問的な狙いや勢力争い。
そうしたものがパウリの目の前にちらついては消えていく。
鬱陶しい邪魔なものを全て取り払って考えた末に見えてくるものに、パウリは心底ぞっとした。
「科学者が、世界の勢力争いに巻き込まれた……」
この流れは今後さらに加速していくことになるだろう。そして、地位と名声を求める「俗物」たちが、そうした流れに相乗りするのだ。
それが実に馬鹿げていて、パウリは不愉快そうに眉間を寄せる。
地位だの名誉だの。
そういったものに全く関心がないパウリには理解できない。
「猿に道具を与えるからこういうことになるのだ」
そうして苦り切った表情で、パウリは辛らつな言葉を吐きだした。
感想お待ちしています。
ここでひとつ。
このお話のテーマはプラスとマイナス、これが鍵です。




