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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIII ウロボロス
304/410

2 選定

 新年が明けたからと言ってめでたくもないのは、国家保安本部だけではない。

「新年早々騒がしいにも程があるな」

 溜め息をついたアルベルト・シュペーアは頬杖をついてから新年の執務室で壁に掛けられた時計を眺めた。もうすぐ昼過ぎの一時になる。一九四三年の一月三日のこの日、シュペーアはライプツィヒからの来訪者を待っていた。

 シュペーアよりもいくつか年長ではあるものの、広い意味では同世代と言っても過言ではない若き天才。

「閣下、ヴェルナー・ハイゼンベルク教授がお見えになりました」

 秘書の言葉を受けてシュペーアは執務机についていた肘を離してから、短い言葉で応接室へと案内するように命じた。それからしばらくして自分も応接室へと向かったアルベルト・シュペーアはじっと廊下の天井を見上げたままで小首を傾げると、ハイゼンベルクの急な来訪の理由を思案した。

 表向きは、「計画」の予算に関する話し合いだ。

「どうも、シュペーア大臣」

 ぶっきらぼうにも聞こえるハイゼンベルクの物言いに、やはり彼と同じように若いシュペーアはさっと目の前の科学者を観察する。

 どこか眠たそうな顔をしているのは気のせいだろうか。

「お疲れの様子だが」

「これは失礼、昨晩も余り眠っていないので」

 シュペーアの気遣いのような言葉に、肩をすくめたハイゼンベルクは気のない返事をしてからソファの肘掛けを軽くたたいた。

「予算の件については、わたしのほうから総統閣下にご報告している。明らかに、割り当てられている予算が少なすぎることは、わたしも承知しているつもりだ」

「……フン」

 シュペーアの先回りした言葉に、ハイゼンベルクは鼻を鳴らすと横を向いて応接室の壁に視線を走らせた。

 かつて、大学時代から神童とも呼ばれたヴェルナー・ハイゼンベルクの立場はひどく微妙だ。そんな彼の物理学者としての立場の微妙さをシュペーアは理解しているつもりだった。

 苦々しい表情を隠しもしないのは、科学者の率直さ故だろうか。そんなことを思うシュペーアだが、一方でハイゼンベルクの保身とも言える行動についてはすでに国家保安本部(ゲシュタポ)からの報告書を受けとっていた。

 過去のドイツの知識階層には想像以上にユダヤ系知識人が奥深くまでに入り込んでいたこと。それは本来のアルベルト・シュペーアにとってはどうでも良いことに他ならないが、国家という大きな組織として動いている身の上である以上、彼個人の意見が政策を左右するわけでもない。

 軍需相。あるいはヒトラーのお気に入り。そうした評価を受けていながら、彼の手にする権力は傍目に映る以上に余りにも小さすぎた。

 国家というものは得てしてそういうものなのだ。

 だからハイゼンベルクがどうして言葉を濁すのかを、シュペーアにもわかっている。

 ――白いユダヤ人。

 そう囁かれる男。

「……いずれにしたところで、政府がこれらの研究のための科学者を排斥した以上の”国家的損失”はない」

 憮然としたままのハイゼンベルクがなにを考えているのか。そんなところにまでシュペーアは考えが至らないが、彼の経歴を見る限り少なくともハイゼンベルクが一個人として全面的に政府の推進する政策に対して好意的でないことも知っていた。

「それに関してはプランク教授も意見を提出している。しかし、ハイゼンベルク教授もわたしがそうしたことに対して決定権をもっているわけでもないことをご存じのはずではないか?」

「わかっている」

 フン、ともう一度鼻を鳴らしてからハイゼンベルクはあくびをかみ殺して、座った眼差しをアルベルト・シュペーアに戻すと足を組み直してから、胸の前で腕を組んだ。

「”そんなことはわかっている”、これは八つ当たりだ」

 ぶっきらぼうに言ったハイゼンベルクはどうやら本当に寝不足らしい。

 研究室で昼も夜もなく新型爆弾――原子爆弾の研究に没頭している彼は、シュペーアに礼儀を払うつもりなどかけらもないようでむっつりと一度黙り込んでから、大きく息を吐き出した。

「わたしは”たくさんの友人”を失ってしまった。その気持ちは君らにはわかるまい」

 ユダヤ人、あるいはユダヤ系であると言うだけの理由で、彼の多くの友人たちが奪われた。アメリカに渡航した際も友人たちからは幾度となく亡命を持ちかけられた。けれどもそんな彼らの進言を押し切ってまでドイツに戻り、ドイツのために戦おうと心に誓ったのは愛国心ゆえだ。

 力なき弱者たちのためだ。

「わたしは、ドイツのために友人たちを捨てたのだ。その気持ちが、君らにはわかるものか」

 ぐっと力を込めた彼の言葉の内側に隠されたものは、ハイゼンベルクという男の内側にある不安と不審なのだろう。

「”我々”がドイツを見捨ててしまったら、ドイツは本当の危機を前にして戦う力を失ってしまうことになる。わたしは友人たちを見捨ててまで、ドイツに残ると決めたのは、断じて君らのためなどではない」

「ハイゼンベルク教授……」

 吐き出すような彼の言葉に、シュペーアはハイゼンベルクに呼び掛ける。

「なにかね」

 イライラとした内心を隠すこともできずに顔を上げたハイゼンベルクに、シュペーアは苦笑すると自分の唇の前に人差し指を立てた。

「安易な発言は危険です」

「……わたしに人の心がないとでも言いたいのか」

 苦虫を噛みつぶした顔になったハイゼンベルクを落ち着けようとするかのように、アルベルト・シュペーアは時計を見つめてからタバコに火をつける。

「”あなたの気持ちは充分にわかっている”」

 人としての倫理観と、自分が携わる計画の末路にハイゼンベルクの良心が揺れる。わかっていてどうすることもできないのが人間なのだ。

 ドイツの一般庶民たちの未来と、心を許した学者仲間たをヴェルナー・ハイゼンベルクは秤に掛けて、身を切るような思いで後者を切り捨てた。だというのに……!

 ドイツ政府はそんなハイゼンベルクの思いに答えようともしない。

 そんなドイツ政府を捨ててしまいたいと思う心と、輝ける未来に溢れているだろう子供たちのためにドイツという国の形を残さなければならないという気持ちとがせめぎ合った。

 苛立つようなジレンマは、四十歳の彼に背負うには重すぎた。

 祖国の未来を背負っている。

 その気持ちが彼の行動を縛り付けるのだ。

「……わたしは、どうすればいいのかわからなくなる」

 なにが正しくて、なにが間違っているのか。

 わかっているのに、どうすれば良いのかわからなくなる。

「なんとかしなければならないことは、わかっているのに、わたしにはどうすることもできない」

 高名な科学者。

 そう呼ばれていながら、彼は、彼自身の世界への影響力の余りの小ささを嘆く。

「ハイゼンベルク教授、あなたの言いたいことはわかっている。だが、今は時は熟していない。まだ、”我々”の権力は小さすぎることを考えればまだ”ドイツのためにも”時がたつのを待つべきではないだろうか」

 沈鬱な表情になったハイゼンベルクにシュペーアはそう言ってから、ところで、と話題を切り替えた。

「先日、アメリカのスパイがウラン・クラブの研究室に潜り込んでいたらしいが」

「そういえば、なんでもアメリカの大統領が”また”暗殺されたらしいな。こうも国内が不安定ではアメリカも戦争どころでなくなってくれるとわたしとしてもありがたいのだが」

 戦争状態が長く続くということにハイゼンベルクは大きな不安を感じている。

 もちろん、彼と彼の友人たちとの関係性に対する影響にも危惧するところではあるが、それ以上にアメリカという豊かな新興国がヨーロッパの戦争に対して影響力を持つと言うことの危険性はハイゼンベルクもある程度は危機感を抱いている。

「聞いた話では、海軍が頑張っているらしいがそれにしたところで焼け石に水というところだろう」

「それについてですが、常々、海軍の潜水艦部隊に対する航空支援を拒んできた空軍が第三航空艦隊を派遣したことで大きく事態が改善しつつある」

「ほう?」

 海軍と空軍のもめ事など興味がないハイゼンベルクだったが、イギリスとアメリカを結ぶ海運を妨げることができれば、ドイツ側にとっては大きな朗報だ。

 なにせ、今のところアメリカからヨーロッパ大陸にあるドイツ本土まで直接攻撃をすることなどできはしない。どこかに軍事的拠点を設けなければならないのだが、ドイツ軍の快進撃によってアメリカはその足を止められていた。

「それで、教授。ウラン・クラブに潜入していたらしいアメリカのスパイは”なにを”持ち出そうとしていたのだ?」

「……国家保安本部から報告は受けていないのかね?」

 問いかけるシュペーアにハイゼンベルクは素っ気ない。

「国家保安本部の報告書では要点を押さえていない」

 シュペーアが応じると若き天才科学者は顎に手を当ててから考え込むと、ちらりと長身の軍需大臣を見やってから口を開いた。

「アメリカも新型爆弾の開発計画を推進しているのは周知の事実だが、おそらく、アメリカ側としてもドイツ(我が国)の研究に関心があったのだろう」

 研究の進捗状況と、その成果の奪取。

 それが目的であることは明白だ。

 ハイゼンベルクとしてもアメリカやイギリスの研究がどこまで進んでいるのかは、ぜひとも知りたいものだが敵対している以上、そうそううまくいくわけがない。

 なにせハイゼンベルクを含めた世界中の科学者が現在携わるのは、国家の名誉と威信を賭けたまさしく「最新兵器」の計画でもある。機密事項の漏洩は、互いに命に関わる問題だ。

 ドイツ側が有利に立てば、英米の連合国が窮地に陥る。逆もまた然りだ。

 少なくとも、カイザー・ヴィルヘルム研究所を抱えるドイツの科学は世界最先端をひた走ると誰もが考える。科学の中心地、それがドイツだ。

 しかし、その評価がすでに過去のものであることをヴェルナー・ハイゼンベルクは嫌が応にも理解させられていた。かつて、世界の科学の最前線を駆け抜けたドイツの姿は今やすでにない。

 それをハイゼンベルクは誰でもなく知っていた。

 言いかけた言葉を飲み込んでから、ハイゼンベルクは目の前のソファに腰掛けるシュペーアに睨むような視線をやるとやはりむっつりとした顔のままでソファの肘掛けに肘をついた。

「過去の栄光に縋るのは、惨めなものだ」

 ユダヤ人であるという理由だけで多くの知性を手放すことになったドイツ政府の政策を言外に批判するハイゼンベルクに、シュペーアは自嘲気味に笑うと深い溜め息をついた。

「ハイゼンベルク教授。風向きは変わりつつある。今は、わたしはそれを信じようと思う」

「……――大臣」

「”ドイツの未来”のためには、我々はどんな犠牲を出してもこの戦争に勝たなければならない」

 固い決意を秘めたシュペーアの言葉に、ハイゼンベルクは睫毛を伏せた。

「わたしの携わる研究が、”抑止力”になれば良いのだが」

 遅かれ早かれ、新型爆弾は誰かの手によって完成することになるだろう。それはすでに理論の上に「完成している」と言っても過言ではない。あとは技術的に「完成させる」だけだ。

 今のところそのためには莫大な資金が必要で、容易なことではないというだけのこと。

 新型爆弾の向こうにある未来は、想像などしたくはない。

 計算の上で導き出されるのは膨大なエネルギーだ。その膨大なエネルギーを直接被れば人間など一瞬で蒸発するだろう。

 計算の上から理解することはできる。

 どれほど膨大な規模であるのかも理解できる。

 しかし、ハイゼンベルクの感情が、導き出された結果についていかない。そこにあるのは確実な悲劇だけだ。

 人間(ヒト)の体が、その衝撃に耐えられるわけがない……――。

「科学者が卑劣なのではない」

 シュペーアは不意にぽつりと言い切った。

「その力を、”悪用”してきたのは常に権力者なのだから」

 そこまで言ったシュペーアとハイゼンベルクは、ふと廊下から聞こえてきたばたばたという足音に顔を見合わせた。

明けまして(アイン・グーテス)おめでとうございます(・ノイエス・ヤール!)!」

「な、親衛隊少佐殿シュトゥルムバンヒューラー! 待ってください! 上級大佐殿、止めてください! なんなんです、この子は!」

 軍需相の官僚の悲鳴じみた声と、少女の声が重なってハイゼンベルクとシュペーアはぽかんと口を開けて勢いよく開け放たれた扉に目が点になる。

 後ろからゆっくりと歩いて入ってきたのは国家保安本部の国外諜報局長、ヴァルター・シェレンベルクだ。

 茶色のコートを身につけた少女は室内に踏み込んだ瞬間、長い毛足の絨毯に蹴躓いてそのまま前方へと倒れ込んだ。

「……なにごとだね? シェレンベルク上級大佐」

「申し訳ありません、彼女がハイゼンベルク博士が来ているならぜひ会いたいと言って聞きませんで」

 かろうじて倒れ込む少女のコートの襟首を掴んだシェレンベルクは、行動とは裏腹の完全無欠の笑顔でシュペーアとハイゼンベルクに向けてそう告げた。

 国家保安本部の局長の姿に、困惑しきった様子の部下を応接室から追い払ったシュペーアは鼻から息を抜いて金髪の少女を観察する。

 じたばたと両腕を振り回してシェレンベルクの手から逃れた金髪の少女は、手のひらでコートをはたいてから改めて大きな青い瞳を瞬かせるとにこりと笑った。

「ハイゼンベルク博士、お久しぶりです」

 ライプツィヒを訪れた際、乗り物酔いで早々にダウンした少女だ、とハイゼンベルクは思い出した。あのときはシェレンベルクとの打ち合わせのほうが主体だったから、車で到着した矢先に倒れた少女とはほとんど言葉を交わすこともなかった。

「あぁ、久しぶりだ。元気かね?」

 シェレンベルクはともかく、少女のほうはハイゼンベルクの半分にも達していない年齢だ。加えて頭が悪いとなれば、ヴェルナー・ハイゼンベルクとしては親衛隊員だからといって礼儀を払うべくもない。

「……このあいだ、肺炎にかかって」

 元気かと問われて、困ったようにうつむいた少女はぼそぼそと言い訳でもするように「入院した」とハイゼンベルクに説明した。

「そんなにやせ細っているからすぐ倒れるのだ。以前、ライプツィヒに来たときもそうだったろう」

 つけつけと一方的に叱られて金髪の少女はうなだれた。

「少しは学習しないと、君のことを快く思っていない者は、馬鹿で親衛隊員である資格がないとか余分なことを言い出しかねんぞ」

 別に親衛隊の肩を持つわけでもないが、親衛隊員の手前そう言ったハイゼンベルクは、小さなくしゃみをした少女の様子に気勢をそがれた。

「はい、ごめんなさい」

 教師のようにはっきりとした物言いをするハイゼンベルクは、ふと違和感の存在に気がついた。

 ナチス親衛隊がなにを考えてこんな子供を採用したのか。そんなことはハイゼンベルクには関係がない。国家保安本部の悪辣なやり口は有名だし、そうした手法に子供が用いられることも時には存在するらしい。それを風の噂で耳にしていたから、彼女が国家保安本部の所属であることにも大きな驚きはない。

 しかし、どうしてこの子供はハイゼンベルクやシュペーアに対して身構えることすらないのだろう。

 誰だって年上の人間には緊張の一つやふたつ感じるだろう。

 けれども彼女はそうではない。

「シェレンベルク上級大佐、彼女が例の?」

 微妙な室内の沈黙を断ち切るように、驚いた表情をなんとか改めたシュペーアがシェレンベルクに言葉を投げかけた。

「はい、大臣閣下」

「なるほど、そうか……」

 独白するように頷いてから、アルベルト・シュペーアは少女を見直した。

「”君”の忠告は、大変参考になった」

 ハイゼンベルクとは異なる目線からの物言いに、ウラン・クラブの物理学者は理知的な瞳を閃かせてから少女と軍需大臣を見やって口を閉ざす。

「もっとも、誰がスパイで誰がスパイではないのかもわからなかったから、半年一杯かかってしまった上、結局、国家保安本部が動員されなければ暴くこともできなかったのだが」

 苦笑したシュペーアが固い表情を緩めると、少女は軍需大臣の態度に満足そうな笑みを浮かべてみせる。

 どこまでも素直な少女だ、とハイゼンベルクとシュペーアは思う。

 怒られれば肩を落として、褒められると嬉しそうな子犬のような顔をする。もっともシュペーアとハイゼンベルクでは彼女に対する評価は決定的に異なっていて、おそらくすりあわせることなど永久に不可能だ。

「ところで、君は今、国家転覆罪に関与している容疑がかけられているのではなかったかな?」

 シュペーアが唐突にマリーの現状を確認すると、当の本人は勝手知ったるといった様子であいているソファに座り込むと軍需大臣と科学者の男たちを交互に見つめてから首をわずかに傾けるとにっこりと笑顔になった。

「別に、わたしはなにもしてませんし、疑うだけ無駄だもの」

 それよりわたしの助言は役に立ったでしょ?

 念を押すようにふたりの男たちに告げた彼女は、自分の隣に腰を下ろしたシェレンベルクに寄りかかると、得意げな様子で自分の顔の前に人差し指を立てて見せた。

「”必要なヒト”と”必要じゃないヒト”はちゃんと”見極めておかないと”ね」

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