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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIII ウロボロス
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1 世界の終わりを見つめる者たち

 一九四二年の末に旧知の友の来訪を受けてスウェーデンの首都、ストックホルムに暮らすリーゼ・マイトナー博士は机の上に広げていた数式の書かれたノートを横に押しやってから引き出しをひくと便箋を取り出してからペンを取りあげる。

 ドイツから逃れたのは一九三八年のことだ。

 それ以来、四年ぶりの再会になるオットー・ハーンは彼らが出逢った二九歳のころとは全く変わりがなくて、マイトナーを安堵させた。

 意志が強く、生真面目で誠実だ。だけれども、そんな誠実な科学の探求者とも呼べる彼は、どこか憔悴したような光を瞳に宿していた。もちろん、憔悴していたのはハーンだけではない。

 リーゼ・マイトナーもストックホルムでの退屈で刺激のない生活と、かつての研究の日々を嫌でも思い出させられてすっかり憔悴していた。

 理論的なことは甥でもあるオットー・フリッシュと共に研究を続けていた。しかし、実験ばかりはそうもいかない。ドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所での研究の日々は彼女にとって輝かしいものだった。

 科学者は研究に生きて、研究に死ぬ。

 それだけの存在だ。

 もちろん名誉を追いかける者もいるだろう。自分の命を賭けて戦う者もいるかもしれない。なにせ科学者と言ったところで、所詮は人間でしかないのだから。そんな利己的な思いをマイトナーは間違っているとは思わない。

 だから、親友でもあるオットー・ハーンの憔悴しきった理由はすぐに合点がいった。

 彼はドイツ国内での科学者として政府首脳部を相手に戦う事ですっかり疲弊してしまっているのだということを。

 表面上は闊達に笑ってマイトナーを訪ねてきたハーンの中に落ちていた暗い影。その存在に彼女はあえて気がつかない振りをした。科学者の中でも女性という異端の存在であるからこそ、「異性の科学者」として、男たちのプライドの高さは熟知していた。

 マリ・キュリーと同じく、リーゼ・マイトナーもそうした男たちの世界で戦いを繰り広げてきた女なのだ。

 だから、マイトナーは旧知の友が自分の落胆を隠して引きつった笑顔を浮かべていてもそれを追及することはあえてしなかった。そんなことをすれば、論理的な思考を旨としている科学者たちは、自分の感情のやり場をなくして心を壊してしまう事態になりかねない。その可能性をマイトナーは知っていた。

 ユダヤ系であるというだけの理由で、ドイツから追われた科学者は多い。それはリーゼ・マイトナーだけではなかった。

 高名なアインシュタインや、パウリもそうだ。

 多くの科学者たちが、類い稀な知性を持ちながら「ユダヤ人だ」という理由だけで、最も愛して病まない科学の道を閉ざされた。

「君は、ドイツの行う研究に対してどう思う」

 マイトナーを訪問したハーンは、応接室へと通されて唐突にそう切り出した。

「噂くらいでなら聞いているだろう」

 厳しい眼差しで上半身を落ちつきなく揺らしているオットー・ハーンの複雑な心境と立場。人間としての尊厳と、科学者としてのプライドの間で揺れる彼自身の心のようでもある。

 まるで、自分たちは振り子のような存在だ、とマイトナーは思った。

 科学の最先端を研究する故に、その存在は世界の中でも微妙な立ち位置に揺れていること。そして、その結果がこれだった。

 ひとつの国家の政策が、科学者たち自身を危険にさらしている。

 どこにも逃げ場はない。

 そして常に世界の技術発展の最先端の場に突き進む彼らには進む以外の選択肢は存在しないのだ。

「核分裂によって発生する膨大なエネルギーを兵器として……、爆弾として利用する兵器開発計画のことだ」

 率直なハーンの言葉に、マイトナーは肩をすくめただけだ。

 噂はすでに彼女の耳にも届いている。

 甥のオットー・フリッシュはすでにイギリスの物理学者ルドルフ・バイエルスと共に核分裂に関する研究を行っている。どうやらフリッシュにはすでにアメリカからも打診が来ているらしいと言う話は手紙で連絡を受けていた。

 彼女が手紙のやりとりをする物理学者は多い。そうした打診の中には、彼女に対してアメリカの原子爆弾開発計画に対する参加を呼び掛けたものもあった。

「……ハーンさん(ヘル・ハーン)、わたしの性格はあなたが一番よくわかっているとは思うけれど、わたしはそんな人道から外れる大量殺戮兵器の開発には絶対に関わらない」

 それがドイツの側であっても。その敵の側のものであっても。

 科学の道とは、殺戮の道ではないはずだ。

 たしかに歴史上、科学の進歩の裏には常に戦争の闇があったことをマイトナーは認めないわけではない。

 より効率良く相手を打ち負かし、降伏させる手段として兵器は発展していった。時代を経て、その兵器開発の歴史は加速して今に至る。

「もしも、その爆弾が完成した暁には、きっと世界は想像もできないような未曾有の事態に陥ることになるわ。わたしは、そんな暗闇に包まれてしまった世界なんて見たくない」

 そんなものは知りたくない。

 言葉を選びながら話をするハーンに、マイトナーは溜め息のように告げると両手で顔を覆った。

 殺戮の未来など、誰も望んではいないのだと信じたい。

「しかし、アメリカが大規模な資金を投入してもその開発に全力を傾けていることは明白だ。わたしが個人的に考えるところでは、現状のドイツの財政状況、及び政治的状況などから鑑みて問題の兵器を開発することは困難を極めると推察する。しかし、アメリカは物理的な状況からもドイツとは違う。なによりも多くの科学者がアメリカに亡命している今、開発の動きは加速するだろう、遠からずアメリカ合衆国は原子爆弾を手にするはずだ」

 アメリカ合衆国の本土はヨーロッパ大陸とは違って空襲もなければ平和そのものだ。

 彼らからしてみれば、他人の土地で戦争ごっこをしているに過ぎない。当事者はアメリカ合衆国ではなく、イギリスであり、フランスでありドイツである。

「……――”感情論”は話し合うだけ無駄だから置いておくとして、そうね。仮にアメリカが本気で原子爆弾の開発計画を推進しているとしても、ドイツ側にそれを批難する資格はないのも事実だわ」

 アメリカの人口は一億人を超える。加えてイギリスやフランスもその計画の後押しをしている。単独で原子爆弾の開発をするドイツは大きなハンデを背負っていると言ってもいいだろう。それが倫理的かどうかという問題はとりあえず脇に置いて、リーゼ・マイトナーはじっと言葉を探すように考え込んだ。

 現状で、ドイツ政府の命令によって原子爆弾の開発計画に名前を連ねるオットー・ハーンを前にして、あからさまに批難を口にするのは彼の心に負担をかけるのではないかとも危惧をする。しかし、それを心配して彼を気遣ってやれるほど、彼女自身に余裕があるわけでもない。

 ひどくきわどいところに立っているのはリーゼ・マイトナーも同じなのだ。

 ともすれば、自分の立場を嘆いてオットー・ハーンに怒りとやりきれなさと、そうした嘆きをたたきつけたくもなる。

 自分は、オーストリア人として。そしてドイツ人として。

 カイザー・ヴィルヘルム研究所の研究員の一員として、志を同じにしてきたはずではなかったのか。

 そう言葉をたたきつけたくなる。

 ありとあらゆる感情を切り捨てるように飲み込んでから、マイトナーはそっと穏やかにほほえんだ。

「あなたも苦しい立場でしょう……。それはわたしも同じだわ。けれども、どんなに苦しくてもわたしたち科学者は世界――国という違いを乗り越えて、世界の最先端をひた走る義務がある。戦争という一時(いっとき)の混乱に惑わされてはならない。世界の偏見に惑わされてはならない。そうしなければ、わたしたちは”全て”が終わったときに、自分たちのことを誰よりも理解してくれるだろう理解者たちを失ってしまうことになるわ」

 科学者は孤独だ。

 激しい火花をまき散らす最先端の世界のさらに先で、意見をぶつけあい批判を行いそれでも尚、自分が目指すその先を見据えなければならない。

 そこにどんな困難が待ち受けていたとしても、それらの危険の中を突き進む覚悟がなければならない。けれども、それはどの科学者たちも同じで、同様に批判をしあいながらもかけがえのない同志でもあった。

「わたしたちは、乗り越えなければならないことが普通の人たちよりも多すぎる」

 控えめにほほえんだマイトナーはそっと腰を上げてソファから立ち上がると、テーブルを挟んで目の前に座っているオットー・ハーンの手にそっと自分の手を重ねてわずかに唇の端を持ち上げた。

 科学者の孤独を味わっているのは、マイトナー自身だけではない。オットー・ハーンもまた、その孤独の中で苦しんでいる。

「わたしは”大丈夫”」

 ニッコリと笑った。

「”女”っていうのは、案外図太いものなのよ」

 だから大丈夫だ。

 自分の苦しみも、悲しみも、嘆きも。慟哭したいほどに感じてはいても、目の前で意気消沈してしまっている親友に伝えることははばかられた。

 四年前に命からがらドイツを脱出してから、ハーンとは手紙のやりとりを続けていた。今度、顔を合わせたらなんと罵ってやろうかともちらりと考えもした。しかし、実際彼を目の前にするとそんな悪態は出すのもためらわれた。

 溌剌としていた化学者はすっかり疲労困憊している。

 彼にこんな顔をさせるドイツ政府がただただ腹立たしくて、リーゼ・マイトナーは同年の友人に対してはやるせない笑みを返すことしかできはしない。

「……マイトナー嬢フロイライン・マイトナー

 ややしてからオットー・ハーンが重々しく口を開いた。

「どうか、僕を許してほしい」

 そう言って彼は顔を覆った。

 疲れ切ってしまった。

 なにもかもに。

「ハーンさん、しっかりなさいな!」

 打ちひしがれた親友の姿など見たくない。自分自身もドイツ政府に対する憤りもあったが、それらを吹き飛ばし、自分を奮い立たせるようにしてマイトナーが声を高くする。

 ハーンの前に若い頃と同じように仁王立ちして両手を腰に当てる。

 胸を張るようなそんな姿勢をした彼女は、数秒してから右手を縦にしてそのまますっかり肩を落としてしまったオットー・ハーンの頭頂部に軽快なチョップを入れた。

「わたしは大丈夫って言っているじゃないの。あなたはドイツにいて、あなたができる道があるはずよ、その灯火を消さない義務があるしわたしは科学者たちの中にある正しい道を信じているわ。あなたが謝ることはなにもないの、わたしは”わかって”いるから」

 たまに苦しいこともあるけれど。

 悲しくて、憤って眠れないこともあるけれど。

 それでも、自分は大丈夫なのだと、彼女は彼女自身に言い聞かせてきて生きてきた。

 それはそう。

 今までの六十年に及ぶ人生など苦難の連続だった。

「わたしは……、わたしたちは開拓者なの。たくさんの苦難と困難があって、それでも茨の道を進まなければならない義務がある。今までと同じように、茨の道は続いていて、痛みや出血を伴うのだとしても、逃げることは許されないのよ」

 なにかを揶揄するようなマイトナーの言葉に、ハーンはハッとして目を上げた。

 そうだ。彼女の道は苦難の連続だった。

 科学が男の世界だった頃から、それらの困難をわかってそんな世界に飛び込んだ。女性として、科学者として。道は険しいものだったにも関わらず、彼女は決して弱音を吐くことをしなかった。

「わたしたちが、後ろを振り返っている暇はないの。そうでしょう?」

 科学者の道は前に向かって伸びている。

「世界が誤っているなら、その道を正すのもまた科学者の務め。わたしたちには、後ろを振り返って後悔している暇はないのよ。だからしゃんとして」

 頭頂部にチョップを振り下ろされたオットー・ハーンが目を白黒させて、テーブルを挟んで目の前に立つ女友達を見上げていると、小首を傾げた美人のその人は「ね」と相づちを打った。

「あなたがしゃんとしていなかったら、あなたの後輩たちが道を見失ってしまう。後輩たちが道を踏み誤ったら、その道を正さなければならないのもあなたの義務でしょう」

 いつも明朗に笑っていた彼女の姿はそのままで、オットー・ハーンはそんなリーゼ・マイトナーの姿に思わず両目を滲ませた。

 涙で潤む両目に両手を当ててぐりぐりと擦ってごまかした彼は、そんな彼女に強く頷いた。

「あぁ、君にはいつも背中を押されてばかりだ」

 どうして彼女はこんなにも強いのだろう。

 やっと心の平静さを取り戻したハーンはわずかに赤くなった眼を細めてから、マイトナーに笑いかけると立ち上がって右手を差しだした。

「僕は僕の務めを果たすと君に約束する」

「みんながあなたを頼りにしているわ。だから、……どうか、どうか世界を破滅から救って」

 亡命中の自分にはなにも権限がない。だから世界を救う力など彼女にはありもしなかった。

 世界を破滅から救うためには、科学者たちの良心に期待するしかないのだ。

「……お願いよ」

「全力を尽くしてみるよ」

 数式の上からおぼろげに見える世界の破滅。

 その存在が、彼女に危機感を募らせた。

 ――親愛なる友、ハーンさんへ(ヘル・ハーン)

 彼の訪問を思い出してからリーゼ・マイトナーは便箋にペンを走らせた。

 何の影響力も持たない自分には、世界へ働きかける力などないに等しい。だから、彼へ思いを託す。

「……わたしのことは、心配いりません」

 形式的な時候の挨拶をいれた後、彼女は流れるようにペンを走らせた。

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