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15 罪には罰を

 新年早々の来訪者にマックス・プランクは閉口した。

 平服姿の若者と、白いマントを身につけた金髪の印象的な少女だ。

 マントと同じ色のロシアンハットをかぶって、首からは同じ素材で作られたマフがかけられている。

「……――ゲシュタポ、か」

 苦々しく呟いたマックス・プランクは眼差しに強い光を閃かせてから唇をへの字に引き結んだ。どうにも年齢(とし)のせいだろうか。頭が固くなっていけない、とは思うものの凝り固まった自分の頭を柔らかくすることには少々難儀する。

「博士の認識には偏った誤りがあるように思われます」

 表情をかけらも変えずにそう言ったのは三十代前半と思われる背広姿の男だ。

 どうやら、とプランクは可能な限り相手の青年に表情の変化を気取られぬように考えた。物理学博士に応じた金髪の青年の気品を感じさせる仕草の裏に不穏な影を老練なプランクは素早く感じ取った。

 伊達に八十年も政治の世界の傍らにいたわけではない。

 学問と政治とは異なる類のものだと思われがちだが、特にそのトップクラスに属する者は政治の世界を避けることなどできはしない。だから、プランクも「そう」と覚悟を決めた。

「……すると、なにかね? 君はわたしがどう認識を誤っていると言うのだ?」

 問いかけたプランクに会釈をした青年は、右手を差しだして握手を求めるとナチス式の敬礼はおくびにも出さずに長い睫毛を伏せる。

 一方で、そんな彼の隣に立っている少女はふたりの狡猾ともとれるやりとりを聞きながらプランクの自宅の客間を不躾な様子で見回していた。青年はともかくとして、彼の隣にいる知能指数の低そうな――端的に言えば馬鹿そうな――少女はいったい何者なのだろう。思考の隅でプランクはそんなことを勘ぐった。

「本官はナチス親衛隊の将校ではありますが、国家秘密警察(ゲシュタポ)ではありません」

 想定内の返答を返されてマックス・プランクは肩をすくめて見せた。

「くだらん戯言(たわごと)だな」

「博士は戯言とおっしゃいますが、物理学の権威でもいらっしゃいますお方でしたら、もっと言葉は正確に使うべきかと考えますが?」

 どこか見下したものさえ感じさせる青年の物言いに、プランクが不機嫌をそのまま隠すこともなく向かいのソファに腰掛けた青年と少女を見つめて鼻を鳴らす。

 自分がもっと若ければ、ヴェルナー・ハイゼンベルクのようにうまく振る舞えたかも知れないとも思うが、今さら時間は巻き戻すことなどできはしないし、できもしないとわかりきっていることを考えるだけ時間の無駄というものだ。

「申し遅れました、本官は国家保安本部六局の局長を務めております親衛隊上級大佐のヴァルター・シェレンベルクと申します。プランク博士」

 会話と挨拶の順序が逆だ、とプランクは思ったがそれは口にせずに青年の手を無言のままで握りかえしてしばらく考えた。

「……国家保安本部六局というと? ”我々”一般人には余り聞き慣れないが」

 慎重に、彼は言葉を選んだ。

 正確に言えばマックス・プランクはドイツ物理学会の重鎮であって「一般人」とはほど遠いのだが、目の前にいるならず者集団の尖兵とも言えるナチス親衛隊の将校相手に物理学者としてのマックス・プランクの権威を説いてみたところで、せいぜい徒労でしかない。そもそも徒労にすらならないかもしれない。要するに時間と体力の無駄遣いだ。

「簡単に申し上げますと、国外諜報を担当しております」

 にこやかな笑顔でずばりとシェレンベルクがプランクに切り込んだ。

 その切れ味は絶妙だ。

 呼吸のタイミングと良い、沈黙のタイミングといい、腹が立つほど無駄がない。

 優秀な頭脳をこんなくだらない謀略に「浪費」するなど、国家の財産の損失だ。そこまで考えに及んでから、再び自分の考えに憮然としたプランクは声もなく息を吐き出してから、じろりとなにもかんがえていなさそうな表情の少女を見やる。

「諜報か」

 彼女も?

 そう問いかけたマックス・プランクに、シェレンベルクは「えぇ」と頷いてから、顎をしゃくって少女を紹介した。

「彼女は部下のハイドリヒ親衛隊少佐です」

 親衛隊少佐と言えば、国防軍の少佐に相当する。陸軍で言うなら一個大隊の指揮官だ。中間管理職と言えば中間管理職でもあるが、とはいえこのような少女に務まる役職とはとても思えないのも事実だ。

 絶句したプランクが少女を見つめていると、老物理学者の眼差しに改めて気がついたらしい華奢な少女はにこりと笑みを返す。

「マリーです、プランク博士(ドクトル・プランク)

 そう言われてマックス・プランクは、この無礼な少女を観察するように凝視してからわざとらしい不機嫌そうな眼差しを放つ。

 マックス・プランクの名前を知らない者――あるいは無知な子供――であっても、ごく一般的な思考力と神経を持っていれば、彼の全身から放たれるただならぬ威圧感に圧倒されるだろうし、今までは「そう」だった。

 誰もがマックス・プランクの知性に一目おいた。

 けれども、どうしてだろう。

 プランクは思った。

 彼女は「なにか」が違う。なにがどう、というのは彼の知る物理学の観点からは説明をつけられないような気もする。

 不機嫌そうに唇をへの字に曲げる智の開拓者。

 彼の存在に、幼い子供は怯えて泣き出したことすらあった。さらに言うなら、泣き出さなかった子供もいたが、せいぜい彼のつまらない学術的な話に興味を示さない知識の足りない子供たちばかりだった。

 だから、無知な子供の相手などしていたくなかった。

 そう思いもするというのに、「マリー」と自分の名前を告げた少女は、シェレンベルクとプランクを交互に見つめてから大きな青い瞳に軽やかな光を閃かせてから、テーブルにおかれた皿の上から屈託のない表情のままで焼き菓子を取りあげた。

 屈託のない、恐れを知らない。

 それは、まるで無垢な赤ん坊のような眼差しに似ている。

 安易に扱えば、大人の力で死んでしまう。

「プランク博士は、”本当は”わたしのことをどう思っているんですか?」

 ニコニコと正体不明の絶対的な笑顔で告げてから、無遠慮に焼き菓子に齧り付く。どこまでも相手の内心を(おもんぱか)るということをしない少女は小首を傾げた。

「……なにが言いたいのだね?」

「”子供相手に難しいこと言えば”煙に巻けると思っているなら、プランク博士の頭も”たかが知れてる”わ」

 物理学の権威――マックス・プランクに対して、歯に衣を着せぬ物言いをした少女の余りの無礼さに思わず老人は頭に血が上って立ち上がった。

 わなわなと唇を震わせる。

「き、君はどういう躾をされてきたのだ……!」

「そんなことあなたに関係ないじゃないですか」

 もてなしのために用意されたクッキーに齧り付いている金髪の少女は何食わぬ顔のままで立ち上がって自分を見下ろしている老人を見上げた。

 しばらくプランクを見上げてから、自分が手にしている菓子を見やって、もう一度老人を見上げる。

 どうやら、マリーは自分にとってクッキーとプランクのどちらが重要なのかを考えているようだ。そんなふたりの対照的な態度が内心でおかしくて仕方がないシェレンベルクは、あえて少女を諫めもせずに口を閉ざしたままだった。

「シェレンベルク君!」

 マリーと押し問答のようなかみ合わない会話を続けていたマックス・プランクが心底焦れた様子で両目をつり上げたままで叫び声を上げた。

「いったいこの目上の者に対して礼儀もなっとらんこの無礼千万な子供はなんなのだ!」

 興奮して上ずったプランクの言葉がシェレンベルクに向けられたことで、老人に対する興味を失ったらしいマリーはカチャカチャとティーカップを指先で持ち上げながら、バターの香りのする焼き菓子を堪能している。

「……これは失礼いたしました。彼女の無学は本官からお詫びいたします」

 型どおりの言葉を返したヴァルター・シェレンベルクに、面白くなさそうな顔したマックス・プランクはややしてからようやく怒りを収めた様子でどっかりとソファに腰を下ろした。そうしたところでやっと目線が同じ高さになって、マリーと再び視線があった。

「それで、君らの用件はいったい何なのだね」

「プランク博士は現状のドイツ国内をどのように考えていらっしゃいますか?」

 唐突に単刀直入にシェレンベルクが口火を切った。

「あぁ、いえ。博士の感情論には興味がありませんのでご心配なく。この会話も全て内密とさせていただきます。ですから、ご自由にお話くださって結構です」

 立て続けに告げたシェレンベルクにぴくりと神経質な様子でプランクの眉尻が跳ね上がる。しかし、そんなプランクの変化を見て見ぬ振りでやり過ごしてから国外諜報局長の青年はずば抜けた頭脳を持つだろう年上の老人を観察していた。

 互いが互いの腹を探り合っているのだと言うことは、シェレンベルクもわかっているのだが、いずれにしたところで相手の手の内を読む技術に関しては、年老いた科学者などよりも青年の方が一枚上手だった。

 冷徹に、自分の感情など目的のためなら切り捨てることができる「ならず者」。

 彼にはそうした側面が備わっている。

「フン……」

 悪びれることもなく片手を挙手してプランクの発言を制したエリート親衛隊将校は不遜な光を瞳に閃かせてから両方の肘を膝について、さらに両手の指を組み合わせるとそれを口元に当てた。

 マックス・プランクは確かにドイツ国内でも、そして世界においても世界最高峰の頭脳の持ち主に入るだろう。それゆえに、そのプライドに対して揺さぶりをかけることは可能だ。

「真意を測りかねる……」

 長い沈黙の後にプランクが低く告げると、シェレンベルクが口を開く前にマリーがにっこりと真冬の太陽のような笑顔をたたえてみせた。

「真意なんて、そんなもの”どうだって”いいじゃない?」

 いつものようにその場の空気を読まない少女は、金色の髪を揺らしてから自分の横に置いた白いマフとロシアンハットの手触りを楽しむように撫でる。

「ねぇ、プランク博士。あなたがどうしてこんなドイツに残っているのか、わたしには全然理解できないけど、あなたがこだわっていることは”わからないでもないわ”」

「……科学者に愛国心がないとでも言うのかね?」

 ぴりぴりとした空気に緊張感を感じているのはおそらくプランクだけだ。

 シェレンベルクは常日頃から諜報部員でもある彼に対して警戒心を持つ人間の相手には慣れているし、少女のほうの反応はいわゆる世間一般的なそれとは異なった。

「別にそんなこと言ってないけど」

 不服そうにプランクが言ったのはシェレンベルクが諜報局長であると名乗った故のものだろう。彼も彼なりに国家保安本部に対して警戒している。もちろん警戒されていることは承知の上でシェレンベルクは会話をすすめた。

「わたしに、ハイゼンベルク君のような柔軟さを期待するのは無駄だ」

 吐き捨てるようなプランクの言葉に青年は苦笑して見せる。そうして視線だけを動かして手慰みのようにマフとロシアンハットを撫でている少女を見下ろすと顎をしゃくってから小首を傾げた。

「年齢を重ねれば誰でも自分というものに固執していくものです、本日、博士をお訪ねしたのは、彼女が……」

 そうしておもむろに言葉を切ったシェレンベルクは、マックス・プランクに少女を示す。

「彼女があなたとお話をしたいと言い出しましたので。ご無礼は承知で連れて参りました」

「今日、ここでの話を内密にすると言う貴官の言葉を信じてかまわんのかね?」

「もちろん」

 短くシェレンベルクは相づちを打つと頷いてみせる。

「わたしが知りたいのは、”あなた”が戦争が終わったらどうしたいのかっていうことだけよ」

 マリーの思わせぶりな物言いに、プランクは数秒言葉を失ってからぽつりぽつりと言葉を吐きだしていく。相手が子供だと嘗めてかかっていたら、その瞳に飲み込まれた。いや、もしかしたら飲み込まれたと勘違いしたのかもしれない。どちらにしてもそんなことはどうでも良かった。

「わたしは、戦争が終わったら……」

 そこで再び数秒の時間をおいて口元を指先で覆うとじっと眉間を寄せてから、視線をさまよわせる。

「わたしは、謝罪したい」

 途切れがちになるプランクの言葉に、マリーはにこりと笑いかけると膝を揃えてソファから立ち上がるとわずかに腰を屈めてマックス・プランクを覗き込んで見せた。

「あなたのせいじゃないのに、謝るの?」

 問いかける。

 問いかけられて硬直した。

「全然わけがわからない」

 マリーの声色は相変わらず変化すらも見せることなく、明るい日差しの下にいるかのようだ。

「あなたはあなたの責任じゃないなにかを、言葉だけの上っ面だけで謝るの? そんなの意味なんてどこにもないのに。あなたが謝りたい人たちを傷つけたのは確かなことでも、その責任を負うべきはあなたじゃない別の人にあるのに」

 そこで言葉が一度途切れて、彼女は続ける。

 ――わたしが、その人だったらプランク博士に謝られても全然嬉しくないわ。

 低く、静かにたゆたった。

 その下にあるのは怒りの波動だ。純粋な怒りが水面の下に波打つようにさざ波となって揺れている。

「裏切り者には」

 死を……――。

 マリーはそう告げると、しばらくしてからかすかに笑った。

「ねぇ、博士。本当に”悪い”と思っているなら、わたしに協力して?」

 少女は金髪を揺らして片手で彼の頬に触れると、秘密の話をするかのようにもう片方の指を少女自身のピンク色の唇の前に立てると静かにほほえんだ。

「”死”には、”死”の罰則を……」

 罪には罪を。

 ドイツを貶めた者へ、罰を。

「君が愛しているものは、いったいなんだというのだ……」

 マックス・プランクが問いかけた。

 まるで禅問答だ。

「ドイツ騎士団の”魂”を……」

 そうしてその言葉にマリーが応じた。

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