14 谷間の底の光景
新年が明けたからといって、戦争を繰り広げている真っ最中の国家の諜報部員であるヴァルター・シェレンベルクにとっては特にめでたいわけでもなければ、目新しい情報が飛び込んでくるわけでもない。
退院させたばかりのマリーにはとりあえずの休暇を与えたが、カール・ゲープハルトの許可が下りればいつでも出勤させられる。
ジャーン、とシェレンベルクは執務室の電話が鳴ると同時にその受話器を取りあげて、視線を閃かせた。
「シェレンベルクだ」
事務的に。
彼はいつものように受け答える。
「ベック上級大将からお電話です」
ルートヴィヒ・ベック。その名前を電話の向こうの交換手に告げられて、シェレンベルクは小首を傾げた。
ナチス党――あるいはナチス親衛隊に所属するシェレンベルクを含めた全てを毛嫌いしていると言ってもおかしくはない前陸軍参謀総長は、けれども親衛隊知識人である青年にとって尊敬に値する人物のひとりだ。
そう。
彼は常に一本筋が通っている。
決して自分を曲げるようなことをしたりはしない。
「つなげ」
新年早々、状況がなにかしらの好転をするわけでもないから、いつも通りのペースを崩さないシェレンベルクが低く命じる。
マリーは相変わらず電話をしてこないし、仮に彼女に関係して電話があるとしても、せいぜいその周りの人間たちが彼女の代わりに電話をかけてくるという程度でしかない。もしかしたら電話の使い方を知らないのではなかろうか、ともシェレンベルクは思う。
さすがに世間知らずでもそれはないだろうと左右にかぶりを振った青年将校は、電話の向こうから退役将軍に簡単に「マリーが外出をしたがっている」といった旨を説明してきた。
「外出、ですか?」
ベックが確認をとるほどの事だから、単に雪遊びに行く、などといった趣旨ではないことは明らかだ。なにかしらの政治的に重大な相手なのだろうか。
そう考えてシェレンベルクがルートヴィヒ・ベックに問い返せば、老将は数秒考え込んでからその相手はマックス・プランクだと答えを返してきた。
「……マックス・プランク?」
ドイツでも最高の頭脳と呼ばれる「物理学者のプランク博士」?
「わかりました、すぐにそちらに参ります」
言いながらすぐさま電話を切ったシェレンベルクは、秘書の女に誰も執務室に入れないように命令をすると手早くナチス親衛隊のフィールド・グレーの制服から平服のスーツに着替えると姿見を覗いて身だしなみを確認した。
マックス・プランクのような相手に、ナチス親衛隊の制服は無意味な威圧感を与えるだけだ。数多くの記録に目を通してきた彼は、ドイツ国内の”いわゆる”学術的な知識人たちがナチス親衛隊に対して警戒心に近いものを抱いていることは知っている。
だから、シェレンベルクは国外のみならず、国内にあっても自分の地位や自尊心に固執することはしない。
諜報部員として大切なことは、相手が自分に対してどうすれば警戒心を抱かずにさせられるかということだ。もっとも、警戒心を持たれたなら持たれたで別の手段を選ぶだけのことなのだが。
マックス・プランクは、この歳八二歳になる大物中の大物で、ドイツ第三帝国にあって知らぬ者はいないだろうとも囁かれる高名な物理学者である。
彼の下に多くの弟子とも言える、やはり高名な物理学者たちがその学派を競い合って今のドイツの科学が存在している。そうした現状を知らないわけではなかったから、シェレンベルクも畑違いとは言え、敬意を払わずにはいられない。
ヴァルター・シェレンベルクの観察するところでは、近く戦争が終結した折りに必ずや後進を導くための礎のひとりとなるだろうことは間違いない。そうした意味でもマックス・プランクは十二分に重要な人間のひとりだった。
それから雪に覆われたベルリンの街並みの間を車で飛ばしてルートヴィヒ・ベック宅にたどり着いたシェレンベルクは、暢気なマリーの「あけましておめでとう」という言葉を聞きながら、ベックと少女の双方に、どうしてそうした事態に帰結したのかという話になった。
「君が物理学などに興味があるとは思えん」
見事に一刀両断したシェレンベルクだが、それにはそれなりの理由がある。
彼女はそもそも高等教育を受けることに積極的ではなかったし、スウェーデンに亡命したリーゼ・マイトナー博士や、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所のオットー・ハーン博士と接触した後も、特にそれらの科学分野に対して好奇心を抱いた様子もなかった。だから彼女が小難しい数学を多用する物理学という分野に興味を持っているとは思えない。それらの理由からシェレンベルクはマリーが学問的な理由からマックス・プランクと話をしたいと言っているのではないと結論づけた。
もっとも余りにも余りなシェレンベルクの物言いに片方の眉尻をつり上げたのはルートヴィヒ・ベックのほうで、知的でハンサムなそれこそ女性たちの理想像が服を着て歩いているような青年に物言いたげな視線を投げかける。
「別に難しい話は興味ないけど」
「……――だろうな」
マリーはいつものマイペースを崩すこともなく、兄のような青年に応じて右手の人差し指を自分の顎に当てるとわずかに首を傾げてからにっこりと目を細めて笑ってみせる。
無邪気な、と言えば聞こえは良いが、単に彼女の場合なにも考えていないだけだ。
「でもプランク博士のことは守ってあげないといけないでしょう?」
馬鹿でなにも考えていないかと思えば、彼女は国家保安本部の中央記録所に保管された膨大な情報のほぼ全てを把握している。どこになにが置かれていて、なにが重要でなにが不必要なことなのか。
時に彼女の記憶力にはシェレンベルクすらも戦慄した。
嘘はつかない。
隠し事もしない。
だから問いかければするすると答えは返ってくるが、彼女がいったいなにをどこまで考えているのかと聞かれれば、シェレンベルクには正直なところ答えられない。
まるで、哲学的に言えば深淵の底を覗き込んでもいるかのようだ。
彼女こそ、まさに「底なし」。
「意味を理解しかねるが」
「……本当に?」
マリーがまっすぐな青い瞳でシェレンベルクを覗き込んだ。
「シェレンベルクはわたしなんかよりもずっと頭が良いのに、”本当に”理解できないとか思ってるの?」
ぽんぽんと彼女は素直な言葉を吐きだして笑顔で星がきらめくような瞳を瞬かせた。
「――……わたしがなにを考えていたところで、それを君に全て話さなければならないわけでもないだろう。それに、今質問しているのはわたしで、君はわたしの質問に応じる義務がある」
シェレンベルクが上官で、マリーはその部下だ。
そうした青年の問いかけに、口元に手を当てた少女は再びクスクスと笑い声を上げると「それもそうね」とあっさりと同意した。
彼女の感覚は、他の同世代の少女のそれとはとても異なっていて、容易にシェレンベルクにもベックにも理解することなどできはしない。
なにかが欠落しているようにも見えるが、しかしその「なにか」が欠落していたとしても、彼女が重大な規律違反をするわけでもなければ犯罪に荷担しているわけでもない。大人たちの言うことを素直に聞く良い子の典型だ。
「だからね、もうすぐ戦争が終わるでしょう? その時のために守るべき人とそうではない人の”選別”が必要だと思うの。だから、プランク博士には警察組織として接触しておくべきだと思うわ」
必要な人間と、無価値な人間を選別する。
なんでもないことのように告げられた少女の言葉にベックは一瞬、ギョッとした様子で肩を揺らした。
選別をする。
選別をした後の結果はどうなる……?
ベックは忙しなく思考を働かせながらふたりの国家保安本部の親衛隊将校らの会話を見守っていた。
ただでさえ多くの知識人たちが「人種が異なる」という理由だけで排斥され、処罰された。そしてそれらの行動に怯えた多くの高名な学者たちは当にドイツの権力の外に逃亡してしまったこと。それをルートヴィヒ・ベックは知っていた。
彼女は再びその土台を作ろうとしているのだろうか。
理解が追いつかずにベックは困惑しきって視線を彷徨わせていると、マリーはちらりとそんな老人を見上げてからにっこりと笑みを浮かべる。
「安心して、別に、わたしには人種とか宗教とか、”そんなこと”どうでもいいの」
必要な人間と、不必要な人間。
それはベックが危惧するような「問題」ではないのだと彼女は告げる。
反ユダヤ主義に包まれたドイツで育っただろうマリーは、もっと的確に物事の本質を捉えて必要なことと不必要なことを大人たちよりも冷静に見極めている。
「このまま全てを見なかったことにすれば、ドイツは遠からず破滅する」
小鳥が歌うようによどみなく少女は告げてから笑うと、「ね?」と言いながらシェレンベルクとベックを順に見つめて小首を傾げた。
ドイツ往く道の破滅を排除するために、彼らは戦っているのだ。
この幼い子供はすでに彼らのそれを看破している。
「……つまり、君はドイツの未来のためにプランク博士が必要だと言いたいのだね」
ベックがやっと相づちを打つように、声を絞り出すとマリーはほほえんだままで頷いた。
彼女は不思議な子供だった。
必要な人間と、不必要な人間とを選別する。本来、そんな人の命を選別するようなことはあってはならない。それは倫理的な問題だとわかっているのに、冷静に考えればそれもそれで利にかなっているという考えにも思い至る。
「少なくとも、今、ドイツがやっている”選別”は”わたしには”利にかなっているとは思っていないわ」
なんでもないことのように。
彼女は”笑った”。
こうしてベック家でマリーと合流したシェレンベルクは、不審げな眼差しを向けてくる老将に背中を向けて彼女を連れると車へと向かった。
「ベック上級大将、いつもマリーがお世話になっています」
シェレンベルクは丁寧に会釈をしてから運転手と護衛を兼ねる親衛隊下士官に一言二言なにごとかを命じてから自分もマリーに続きメルセデスの後部座席へと乗り込んでいく。
フンと鼻を鳴らしたルートヴィヒ・ベックは、これ以上親衛隊将校のやることなすことを観察していたところで仕方がない。どうせ眺めていたところで馬脚は現さないだろう。そこまで考えてベックは自宅に向けて踵を返した。
*
ライプツィヒの寂れた林の奥にある古くさい建物の奥まった研究室で、ヴェルナー・ハイゼンベルクは鉛筆とノートを目の前に放り出したままじっと虚空を見つめて考え込んでいた。
彼が推進する新兵器の開発計画は国家予算を多大に消費するのは、世界の科学の歴史を塗り替えることになるかもしれない。
科学の歴史は日夜塗り替えられていく。
その最前線にいることをハイゼンベルク自身も理解しているが、実際のところ、その内心は複雑だった。
彼は目の前の鉛筆を指先で小さな音を立てて転がしながら科学者同士の会話を思い出していた。
「これは由々しき問題である!」
叫ぶように言ったマックス・プランクにハイゼンベルクは「もっともだ」と思ったこと。かろうじて人種的な問題をクリアしたヴェルナー・ハイゼンベルクは、他のユダヤ系の科学者たちのように研究所を追われる事態はなんとか免れることができた。だが、状況はいつどこに転がっていくかもわからないのだ。
彼ら科学者は、現在の状況で学問――あるいは研究だけに没頭することができればどれだけ幸せだろう。
かつて、まだ若かった青年時代の学者仲間たちとの心が躍るような楽しい日々がハイゼンベルクの中に蘇る。
「わかっていますが、プランク博士。……わかっていても、我々にはどうにもならないのです」
政府になにかしらの影響力があるわけではない。
もしも自分に政府の政策になんらかの影響力があれば、ハイゼンベルクは心を許した頼もしい学者仲間たちを守ってやることができたはずだ。
「安易な発言が身を滅ぼすことになるかもしれないことは、博士もご存じのはずです」
ユダヤ系である。
反政府的である。
そうした理由だけで多くの知識人、学者たちがドイツの社会的な地位を剥奪された。言論の自由などないに等しいことはハイゼンベルクもプランクもわかっている。
「もしもわたしにそんな大きな権限があるのでしたら、わたしはもっと多くの知人たちを守ることができました」
苦しげなハイゼンベルクの言葉に、プランクはすっかり老いた双眸に力なく暗い光をさまよわせてから肩を落とすと座っていてソファに背中を深く預けた。
そもそもマックス・プランクにそうした権限がないのであれば、ヴェルナー・ハイゼンベルク程度の若造にそれ以上の権限が存在するわけもない。
「わたしたちは、政治に無関心すぎたのかもしれん」
溜め息混じりにマックス・プランクが呟くと、重苦しい空気がふたりの間を漂うが、それを打ち消す術はどちらにもない。
原子の構造や、ミクロの世界にだけ捕らわれていた時代が余りにも懐かしくて、マックス・プランクは片目を細めた。
知らないうちに自分たちを取り巻く世界は大きく移り変わっていて、学問の世界が政治体制に飲み込まれてしまった。
「このままでは、ドイツの知性は衰退する一方だ。どこかで止めなければ、ドイツは世界の知的水準から大きく立ち止まることになってしまう」
そればかりではない。
おそらくすでにドイツで辛酸を舐めさせられた過去を持つ学者たちは二度と戻ることはないだろう。
つまり、流出した知識人たちは、二度と戻ってきはしまい。
「プランク博士……、わたしは友人をたくさん失いました」
もう彼らと顔を合わせることもないかもしれない。
彼らを失望させたかも知れない。
それでも自分にはやらなければならないことがあると、心に定めてドイツに居残る決意をしたのはプランクもハイゼンベルクも変わらなかった。
「なにを失ったのかもわからないくらい、わたしはなにもかもをなくしてしまった」
肩を落としたハイゼンベルクは、年上の科学者たちとの会話を思い出して視線を上げた。窓の外には冷たい空気に凍り付いた林が広がっていて、それは世間の冷たさそのものを思い出させる。
世界はどこへ向かっているのだろう。
そして、その世界に対して自分はどんな貢献ができるのだろう。
――原子物理学の理論によれば、原子の力を利用したとてつもなく膨大なエネルギーを得ることができるはずだ。その力を兵器として利用できないものか。
相手を屈服させることができる軍事力を得るために。
「わたしがしようとしていることは正しいのだろうか……」
予算的な問題はともかくとして。
ハイゼンベルクはそこまで考えてから溜め息をついた。
兵器とは軍事力を体現するものだ。そして、強大な兵器は人を殺す力でもある。それを開発すると言うことがどういうことなのか。
それを理解できないハイゼンベルクではない。
「パウリならなんと言うだろうか……」
「理不尽で論理的ではない暴論だ」とでも言うだろうか。
何度目かの溜め息をついたヴェルナー・ハイゼンベルクは指先で鉛筆を持ち直した。彼が心を許した友人でもある科学者は、一九四〇年にドイツを去った。
「わたしの進む道がたとえ間違っているのだとしても、わたしはドイツの未来を守るべき義務がある」
だからドイツに残る決意を固めた。
マックス・プランクと同じように。
すでに年老いてしまったプランクだけに背負わせるわけにはいかない問題だった。




