5 白い不穏
アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は、書類の束を手にしたままでふと足を止めた。国家保安本部のバルコニーの一角。木製の簡素な椅子を持ち出している華奢な少女が降り注ぐ日差しの下でうたた寝をしていた。
典型的な官僚肌のアイヒマンは溜め息をついてから、彼女を起こそうとして体の向きを変える。
――仕事中に寝るとは何事か。これではせっかく自分がシュトレッケンバッハ親衛隊中将から弁護してやったのも無駄骨になってしまうではないか。
そんなことを考えて少女の肩に触れようとしたアイヒマンは、触れる寸前で思い直したように手をおろす。
なぜだろう。
触れてはならない気がした。
もう一度溜め息をついてから、彼はバルコニーに寄りかかったままでプリンツ・アルブレヒト街の街並みを見下ろす。
国家保安本部のバルコニーは、多くの職員たちが雑談に利用していた。
不思議な光景だ。そんなことを思いながら彼は肩越しに椅子に座ったままで眠っている少女を見やる。金色の長い髪が風に揺れた。
瞳の色に近い水色のワンピースから覗く手足は細く頼りなくて、こんなにも華奢な少女がもしも万が一襲われたら自分の身を守れるのかという思いにも捕らわれた。もっとも、そうはいったところで、アイヒマンも軍事的な訓練を受けているわけではなく、それほど腕っ節が強いというわけではない。
彼よりも若いヴァルター・シェレンベルクはすでに、一九三九年の十一月に行われたフェンロー作戦で真価を発揮しているが、未だにアイヒマンはそう言った意味での真価は発揮していない。そのことがアドルフ・アイヒマンの決定的な劣等感につながった。
大学出身のエリートとも言えるシェレンベルクは、秘密作戦を行っても有能であるのだと証明されたのである。
マリア・ハイドリヒ――彼女をアイヒマンがかばったのは理由があった。彼女が国家保安本部の一員になれば自分よりも格下の者ができる、という自己満足に浸かることができたからだった。
スカートの裾に縫い付けられた白いレースが頼りなさそうに揺れて、アイヒマンは顔を上に向けて空を見上げると手にしていた書類を一瞥する。自分よりも明らかに年少の、格下とも思える士官が国家保安本部に着任したというのに、この満たされない気持ちはなんだろう。
苛立たしい気持ちのまま、彼は足音を鳴らすとネクタイを直す。
そうして歩きだしたアイヒマンは結局少女を起こすことをしなかった。
「気に入らん」
口の中で彼はぽつりとつぶやいた。
時間にしてアイヒマンがバルコニーにいた時間はほんの数分だが、それを廊下の片隅で覗っていた男がいる。
「……気になって仕方がない、と言ったところか」
シェレンベルクはつぶやいてひどく面白そうに目を細めた。アイヒマンの姿が見えなくなってから歩きだした六局の局長は、向こうから歩いてくる男の姿に首を傾げる。
現在、特別保安諜報部でマリーの補佐を務めるヴェルナー・ベストだ。
「シェレンベルク大佐か。ハイドリヒ大尉を見ていないか?」
知的な眼差しのベストに、シェレンベルクは長い指でそっとバルコニーを指さすと、元裁判官の男はやれやれと溜め息をついた。
「大尉、こんなところで寝ていたら日射病になる」
ベストの言葉に「そういう問題か?」とシェレンベルクは思ったが口には出さない。肩を揺らされてぼんやりと目を開いたマリーは、目の前にふたりの男たちが立っているのを認めて驚いたようだった。
「ごめんなさい、ありがとうございます。ベスト中将」
にっこりと笑って立ち上がりながら、マリーは椅子の背を持って廊下へと引きずり込んだ。木製の簡素な椅子は最近ではすっかり廊下に放置されたままだ。マリーがバルコニーで息抜きをしているときに座っていると知っているから、誰も片付けたりはしない。
「総統官邸からメッセンジャーが来た。おそらく例の件だろう」
「わかりました、すぐ戻ります」
例の件、という言葉にシェレンベルクが片方の眉をつり上げる。現在、マリーの指揮する特別保安諜報部はアメリカ合衆国の画策するテロリズムに対する捜査を行っている。ヴェルナー・ベストの言う「例の件」が、それに関することだろうというのはシェレンベルクにも目星がついた。
「シェレンベルク、失礼します」
ぺこりと頭を下げた彼女はベストに連れられて執務室へと戻っていった。
長身のベストと、マリーでは後ろ姿だけを見ているとまるで親子のようだともシェレンベルクは思った。
「さて事態はどう動くか……」
真価の発揮、などと簡単に言うが実際の所、真価が発揮できる国家保安本部の高官たちはそれほど多くない。あるいはかつての第六局局長ハインツ・ヨストがそうであったように。精神的にそれらを受け止めきれずに病んでしまう者もいる。
顎に手をやったままで立ち尽くしたシェレンベルクはそうして廊下へ戻るとバルコニーに続く窓を閉めた。
ガタガタと窓ガラスを叩く風の音が聞こえる。
風が出てきた。
まだ青空が広がっているが、天候が崩れるのだろうか……?
メッセンジャーの運んできた封筒を開いたマリーは、ほとんど変わらない表情のままでその文面を見つめている。この目の前の彼女が、どうしてこれほどまで表情が変わらないのか、ベストには理解できない。
年齢を考えればギナジウムに通っていてもおかしくはない。
けれども彼女には年齢以上の深い知性を感じさせられた。なぜ、彼女はこんなに年若くありながら多くのことを知っているのだろう。
「官邸からはなんだと?」
マリーの手元にある手紙はタイピングされたものではなく、手書きのものだ。
「……ふぅん」
つぶやいた彼女は長い金色の髪を耳の上にかけながら文面を見つめて口元でほほえんだ。ややしてから、マリーはベストに手紙を差しだすと「これ」と告げる。
「官房長か」
「そうみたいです」
マルティン・ボルマン。ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの側近であるが、諜報部員たちからしてみれば評価の低い小男だ。
ヴェルナー・ベストからしてみれば、自分が優秀だと思っている低能。
「どう思う? 大尉」
デスクに肘をついてかわいらしく笑った彼女は、額の上に編み込んだ金髪に指先で触れた。
「中将こそ、どう思われているんです?」
「連中について、か?」
長く沈黙したベストにマリーは立ち上がった。コートハンガーに無造作に掛けられたショールを肩に掛けると、それを胸元で鷲章のスカーフピンで留める。ノースリーブのワンピースを身につけているせいでSD章のつけられたベルベットの腕章はつけることができないため、彼女の身分を示すものは髑髏リングと鷲章のスカーフピンだけだ。
外国のスパイやレジスタンスなどの情報網を警戒して、マリーが国家保安本部に所属していることが公になっては彼女自身の身に危険が及ぶ可能性が高い。だから、彼女は普段、本部の外へ出るときは自分の身の上を示すものは身につけない。
危険すぎた。
「車を回そう」
「お願いします」
あの男は、とベストは考える。
ボルマンはこの年、女好きのくだらない男だが、四二歳でまさか十六歳の少女に手を出すようなこともあるまい。
気持ちが悪いのでそう思いたい……。
マルティン・ボルマンの顔を想像してベストはうんざりとしながら、眉をひそめると自分の目の前を歩いている少女の頭頂部を見下ろした。
「気をつけるんだ、あの男は存外くだらない」
「大丈夫よ」
黒いベンツの窓にはカーテンが掛けられており、中は覗けないようになっている。彼女の身柄が知られてはならないというベストなりの考えだ。おそらく、国家保安本部に少女が在籍しているということが外国の諜報部員に知られることになれば、確実に非力なマリア・ハイドリヒは狙われることになるだろう。
それこそ、かつてのフェンロー作戦のときのように。立場としては逆の立場で、だ。
雲の張り出した空を見上げて、ベストは少女を車に乗せると自分もその隣へと座った。念のため襲撃に備えて腰の拳銃を確認する。
黄色い花と白いリボンでできたコサージュをつけた麦わら帽子をかぶるマリーは、やがて官邸に到着して控え室で待たされたが、足があまり丈夫ではないマリーのためにとベストが椅子を要求した。
いかに年下であり、階級も下であろうと、ベストは自分の立場をわきまえている。もちろん、必要とあればいくらでも討論を交えるつもりではあったが。今のところマリーとの関係であまりその必要性は感じられない。
今回、ベストがマリーに同行したのは、相手がボルマンであるという理由だけではない。彼女が非力な少女であり、まだ一介の親衛隊大尉でしかないということを考えて、親衛隊中将の地位を持つ自分が同行したほうが、新たにヒムラーによって新設された特別保安諜報部が軽視されないだろうという計算が働いたためだ。
時に、組織というものは目に見える権力が必要なこともある。
おそらくヴェルナー・ベスト、ハインツ・ヨストなどの将官が引き抜かれたのはそういった理由からだろう、とベストは思った。
「君がマリア・ハイドリヒ大尉か」
豪華な執務室の扉から出てきた小男にマリーはにっこりと笑う。なにを考えているのかわかりづらい笑顔だが、ベストはそれに対して言及しない。
「ハイル・ヒトラー」
右手を挙げたマリーの声はそれほど大きくないが、ボルマンはそれほど気を悪くした様子はない。
せいぜいこの女好きは、訪れた少女がそれなりにかわいらしかったから、怒鳴りつけるのをやめたというところだろう。ベストは冷静に状況を分析していた。
なにもたかが大尉ごときをナチス党官房長自ら出迎えなくても良いだろうに、それほどこの小者は彼女に対して興味津々だったのだろう。
「しかし、これがあの国家保安本部長官だったハイドリヒ大将のご親戚の子とは思えんな」
そう告げてからボルマンは興味深そうにマリーを見つめてから右手を挙げた。
「さぁ、入りたまえ」
自分の執務室へ招くボルマンを鋭い瞳で見つめているベストは、なれなれしげにマリーの肩に手を回している男に鼻から息を抜いた。
「ベスト中将も」
振り返ったボルマンがベストに呼び掛けると、敬礼をすると官房長の執務室へ入る。マリーだけなら妖精のようにも見えるが、その隣にボルマンがいるというのは目の毒だ。
「それで、報告書のことだが総統の周りにいる者は全てわたしが信頼できる経歴かどうかを調べている。総統の身の安全については心配などする必要はない」
「そうですか……」
ボルマンの説明にマリーは肩をすくめると、肩に回された手に視線を落とす。それでも笑顔が絶えないのが逆に気味が悪く感じてベストは目を伏せた。
権力者を前にして機嫌を取るために愛想笑いを浮かべているわけではない。長い人生経験のうちで、ベストは愛想笑いを浮かべる者の多くを見てきた。けれども彼女の笑顔はそうではない。
いつもと変わらない優しく明るい笑顔。
とても国家保安本部に在籍している諜報員のそれには見えなかった。
「ですが、あなた方にはその情報を見るための見方をご存じない」
「どういうことだい?」
そう、そこだ。
ベストは思った。
情報管理に甘い人間というものは、その情報の見方を知らないのだ。そうして、だからこそ見誤る。
撫でるようになれなれしく肩を抱いているボルマンも気持ち悪くて仕方がない。これが官房長でなければ殴りつけているところだ。
「大雑把な履歴はこちらでも掴んでおります。官房長のお持ちの情報を提供していただきたいのですが」
「君に?」
ボルマンが優しい声で語りかける。ベストがそこにいるということも官房長を務める男は気にならないようだ。
彼はかつて総統代理のルドルフ・ヘスがイギリスに向かった時に、後任として副総統の候補として上がったのだが空軍総司令官ヘルマン・ゲーリンクの強い反対を受けて一度は見送られた人事だったが、結局副総統事務所は党官房という名前に改められて、その責任者である官房長に就任した。
それにしても、ベストにとってみれば国家の最高権力者に尻尾を振っているだけの程度の低い男だった。自分に地位があると勘違いして多くの愛人を囲っている。優秀な遺伝子を持つ男は、複数の女を孕ませる権利を持っていると信じ込んでいる馬鹿な男。
優秀な遺伝子――。
曖昧な表現だ。
「国家保安本部はその道のプロです。親衛隊長官からもお聞きのこととは思いますが、どうぞお任せいただければと思います」
「ヒムラー長官が君のことを随分と評価していたようだ」
「ありがとうございます」
「承知した、夕方までにはこちらの持っている情報を全て国家保安本部に提出させよう」
そう告げたボルマンの瞳をじっと見つめたマリーは目元を和らげるとはにかむように笑った。
「どうだね、大尉……」
今夜、と言いかけたボルマンの言葉を待たずに、踵を鳴らしてヴェルナー・ベストが立ち上がった。
「大尉、まだ書類の決裁が終わっておりません。早めにオフィスへお戻りください」
鋭い声ではっきりと言い放ったベストの声に、ボルマンの言葉が遮られた。
言わんこっちゃない。
女にだらしがない、という意味でシェレンベルクも同じだが、ゲッベルスやボルマンなどの高官たちに対してベストは信用を置いていなかった。権力を笠に着て女を籠絡しようとするのだから、シェレンベルクよりはるかに始末に悪い。
「はい、ベスト中将」
ボルマンがマリーの金髪を取りあげてそこに口づけようとするが、その腕をするりとかわして少女はベストの隣に立つと「失礼します」と告げて退室した。
全くもって油断のならない男だ。
ブーツの音を鳴らして歩くベストは、胃のむかつくような気分をこらえながら待機していたゲシュタポ上がりの諜報部員に車を回させた。
四十代の肥満男が人買いでもあるまいし少女に手を出そうとするなど吐き気がする。さぞや気持ち悪かったのではないかと思いながらマリーを見下ろすと、彼女はいつもとあまり変わらない表情のままでベストを見上げた。
「……官房長閣下は、ご存じない。染みひとつない経歴のほうがいっそ怪しいのだということを」
染みなどあってもかまわないのだ。
マリーの言葉にベストはかすかに目を細めただけだ。
人が生きている限りよほどのことがなければ、染みひとつないというのは非現実的な話しで、染みのひとつやふたつあったところでそれはあれば当たり前のことだ。
「染みひとつない経歴……、か」
「ベスト中将もそう思いません?」
「確かに」
頷いてベストはボルマンの余裕たっぷりの表情を思い出した。
「総統の周りにいる全ての者が染みひとつない経歴だというのは逆に怪しいな。官房長閣下の余裕振りも気にかかる」
つまるところそれは捏造された経歴でもある可能性が非常に高い。
「ゲシュタポを動員するべきだな」
「はい、お任せしても構いませんか?」
「わかった」
ベストはヒトラーの側近たちにも強い疑惑の視線をだいぶ以前から向けていた。それはかつて彼と袂を分かつことになったラインハルト・ハイドリヒもそうだ。
もしも彼が生きていれば歴史が変わっていたのではないかとすら思う。




