0 ゼロの彼方
――神はいない。
神など存在しない。
――神々の存在など認めない。
それでも、……神という神々の全ては、結局のところ神のリンゴを食べた愚かな人間に罰を与えるのか。
「……わたしは、欠片となり消滅する運命なのか」
金髪の男は低く笑った。
子供の頃に、ユダヤ人の父を持つからおまえはユダヤ人だと言われたとか。そのことによって、後年、自分の名誉が傷つくことになったとか。
もしくは海軍で、雌山羊とからかわれたことだとか。
――そんなことはどうでも良かった。
熱に浮かされて、意識がもうろうとする彼の目に、ひとりの少女が見えた。
まるでガラスを挟んで見つめているような。
そして、そんな彼女の瞳からガラス越しの世界が見えた。
自分が死んだ世界。
自分が消えた世界がどう変わったのか。
彼女の瞳を認識したその瞬間に、男はまるで天啓でも受けたように感じ取った。
彼女は「自分」だ。
理屈ではない。
理屈ではなく、もっと魂の核に近いところで感じ取った……!
「……それが”神の思し召し”とやらならば」
ハイドリヒは熱に浮かされたまま無意識に強く拳を握りしめた。
世界は繋がっている。
全てのかけらというかけらは飛散し、ほとんど全てが消滅した。
今の自分には世界を変える力は愚か、自分の命を世界につなぎ止める力すら残ってはいない。
ナチス党も。
アドルフ・ヒトラーも。
ハインリヒ・ヒムラーも。
カナリスも、リナも。なにもかもがどうでもいい。
「わたしは、わたしが存在するためだけに”定義”するのだ」
世界を。
時間を。
全てを駆け抜けて、全てを塗り直すために。
失敗するためだけならば、自己顕示欲も、自己承認欲求も。なにもかもがいらない。全てが邪魔なら、全てを捨て去るだけのこと。
「神などわたしには必要ない」
神が人を定義するならば、自分は化け物でいい。
長い、とても長い時間をかけて、そうして彼の魂の最後のかけらは眠りについた。再び目覚め、再び彼の意識に触れるその日まで。
――神はイらぬ。
自分の邪魔をするならば、今度は神をも叩きつぶす……――。
一九四二年から、眠りについた七十年。
そうして彼の魂は人が及ばぬ高みへとたどり着いた。
「自分の名前を言ってみろ」
そして少女は目を醒ます。
彼と同じ青い瞳の、金色の髪を持つラインの乙女。
――わたしの名前は、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ……。
姿形も、性別もなにもかもが違う小さな少女。
鏡越しに手のひらと手のひらを合わせた。
繭から目覚めた乙女は、そうしてそっと金色の睫毛を伏せた。
――ただいま。