12 Ein gutes neues Jahr!
「明けましておめでとうございます!」
自宅のエントランス前に車が停まった音が聞こえたと思ったら、元気いっぱいの少女の声が響いてきて鉄の男とも異名を持つ空軍総司令官にして国家元帥のヘルマン・ゲーリングは驚きすぎたせいで危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「……あ、あけましておめでとう」
彼女の隣にはすでに退役した前陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックが立っていて、ついでに少なからず苦々しい表情を浮かべている。
「やぁ」
ベックのどこか投げやりな物言いが、彼がゲーリングの自宅を訪れたことが決して本意ではないことをありありと物語っているが、原因を作ったであろう当の少女はどこ吹く風と言った顔つきで興味深そうにゲーリングの豪邸にきょろきょろと辺りを見回していた。
「”結構”質素ですね」
どこをどうすれば「このゲーリング邸」が質素な部類に入るのだと、ベックは内心で思ったがゲーリングにだけは決して弱みを握らせたくない老人はますます機嫌を悪化させてその自宅を見渡した。
もっとも、マリーの言う内容はそれはそれで「もっともだ」とも思う。
見栄と自尊心の塊のようなゲーリング邸には思ったよりも美術品の類が少ないのだ。不自然な部屋の空間が、ごく最近家財道具が相当数持ち出されていることを物語っている。
「もっと盗難美術品であふれかえってるかと思いました」
ニコニコと相変わらずの調子で爆弾発言を投下するマリーは、玄関ホールに置かれたゲーリングのブロンズの胸像に興味を示したようだ。
ぺたぺたと不躾にそれに手のひらで触れながら、少女は唐突に伸びてきたベックの手に白い毛糸の帽子を取りあげられて瞠目すると頭上を見上げてそこにあるベックの渋面を確認する。
「とりあえず、帽子と手袋くらい外しなさい。ゲーリング元帥は一応君よりも目上なのだ」
「はーい、ごめんなさい」
ベックから型どおりに咎められて、ぴょこんと跳ね上がってから毛糸の帽子を受け取ると、次いで手袋を外した。コートはウールのロングコートだが誰の趣味なのか、明るい茶色でまるで夏場の野ウサギのようにも見えた。
「そういえばゲーリング元帥、鉄道模型が見たいです」
彼は国防軍空軍総司令官という地位を悪用して私腹を肥やしている。そうした情報は、海軍や空軍、そして陸軍を含めてカナリスの国防軍情報部などからも寄せられる状況となり、もはやそうした意味でゲーリングには逃げ場はない。ルートヴィヒ・ベックがそんなゲーリングの怠惰と享楽に満ちた生活を知ったのはそうした情報源からだった。
「……あ、あれは」
ベックの前で言葉にされるのはゲーリングにとって余程都合が悪いことらしく、きょろきょろと視線が落ちつきなく彷徨っていた。
マリーが好奇心に満ちた眼差しで見回す表情とは雲泥の差だ。
「はい?」
ゲーリングにとっては後ろめたいことなのであろうが、マリーのほうは悪気はかけらもないらしくぱちりと睫毛を瞬かせてから青い瞳を閃かせた。
「あれは、もう小学校に寄付したのだ」
「そうなんですか、残念です」
「……――今は、戦争中だからな」
数秒の沈黙の後に、肩を落としたマリーは本当に残念そうに小首を傾げると、ややしてからベックとゲーリングという国防軍の大物相手に遠慮もせずに言葉を交わす少女を凝視しているゲーリングの美しい妻に少女は気がつくと明るい笑顔をたたえて屈託なく手を振った。
幼い娘の手を引いたゲーリングの妻――エミーに、マリーはにこりと笑うと、今度はその娘のエッダに視線を放つ。
「わたしの妻と娘だ……」
「あけましておめでとうございます、ゲーリング夫人」
小さなエッダもよろしくね。
マリーがにこやかに笑うが、一方のヘルマン・ゲーリングのほうは彼女がとんでもないことを言い出しかねないのではないかと気が気ではない。
「ベック上級大将閣下、と……?」
エミーのほうはといえば、やや困惑したようにルートヴィヒ・ベックに対して優美に礼を取ると幼い娘に挨拶をさせてから怪訝な表情で金髪の少女を見つめた。
長い金色の髪はまっすぐに背中の中心でドレープを描いている。金色の睫毛に彩られた青い瞳が物珍しげにゲーリング邸を見回した。一言で言えば落ち着きがないのだが、本人は余り他者の目に自分がどう映るかということは関心がないようだ。
「マリーって言います、国家保安本部の……」
「国家保安本部?」
親衛隊の?
そう言いかけたエミーは、言葉の続きをゲーリングの乱暴な行動で遮られて目を丸くした。
少女もなにか言いかけたようだが、ヘルマン・ゲーリングの大きな手に口を押さえつけられてもごもごと不明瞭な声を発しただけに過ぎなかった。
「と、とにかくエミー。わたしはベック上級大将の相手をしなければならん、もう下がりなさい。体調を崩してはいけない」
新年も一月一日を迎えたが、実際問題、戦時下の閣僚が昨年も今年もあるわけはない。問題は積算しているし、新年を迎えたからといってめでたいわけでもなければ、戦争が終わるわけでもない。
少女の肩を掴んでベックに視線を投げかけたゲーリングは、エミーと娘に早口で言いつけて、応接室へと大股に足を向ける。
「マリーも立ちっぱなしで疲れただろう、車での移動は退屈だしな」
「別に平気よ?」
どうやらマリーはゲーリングを自分よりも格下だ、と認識した様子だ。そんな男と少女のやりとりを無言のまま観察していたルートヴィヒ・ベックは、再三ゲーリングについて自分の顎に手を当てたままで考え込んでいた老将は、ひとつ頷いてからゲーリングの案内する応接室へと歩きだした。
「マリーも、体調が万全ではないのだからな、すぐに帰るぞ」
「えー? もう少しゲーリング元帥とお話したいわ」
「別に今すぐ帰るとは言っておらん」
ベックとマリーの他愛のないやりとりにひくひくとこめかみをけいれんさせたゲーリングは、かろうじて作り笑いを保ちながら少女と老人にソファを薦める。ヘルマン・ゲーリングの内心を最も簡単に表現するならば、「いっそのことベックの言うことをおとなしく聞いてとっとと帰ってくれればありがたい」というものだったが大人たちの気遣いなど子供に対しては全く無意味そのものだ。
「マリー、君は昨日やっと退院したばかりなのだということを自覚していないなら、問答無用で今日は帰るぞ」
叱りつけるようなベックの低い脅しに、マリーはバツが悪そうな顔になってからはしゃぎ回る足取りをわずかに落ち着かせて「うー」と納得しない表情のままうなり声を上げた。
もちろん彼女が納得できないからと言って、ルートヴィヒ・ベックがそれにつきあう必要はなく、容赦なく低い場所にある彼女の頭を軽い力でペチリと叩く。
「聞き分けなさい」
「……はいー」
怒られて素直に返事をした少女はテーブルの上に出された紅茶のカップを手にしながら、暖炉に燃える炎を見つめてから彼女自身よりも挙動不審に陥っているゲーリングを眺めやる。
「でも、去年の終わりはずーっと病院にいたから、退屈だったのよ。本当にゲーリング元帥のところに遊びにいくのを楽しみにしていたんだから」
唇を尖らせて不服そうなマリーを見下ろして苦笑したベックは、少女の肩を抱き寄せてから改めてゲーリング邸の応接室を見渡すと吐息を吐きだしてから口を開いた。
「しかしさすがに国家元帥の自宅ともなると見事なものだな」
「それほどのものではない、ベック上級大将」
向かいのソファにふんぞり返っているゲーリングは、時折少女にちらりと視線を彷徨わせてからベックの顔色を窺うと行動を繰り返している。
それがベックにも不審に感じたらしい。
鉄の男――ヘルマン・ゲーリング。
いったい彼はなにに怯えているのだろう。
そして政府首脳部、ひいては党本部はなにを企んでいるのだろう。
「ベック上級大将も昨年からクーデター疑惑の容疑をかけられていて対応に苦慮しているのではあるまいか?」
ベックが思う以上にゲーリングは普通の言葉を吐きだした。
「わたしの立場はわたしが軍をやめる時と大して変わらんから、それほど影響はないが、現役のハルダーに嫌疑が及んだというのは国防軍にとって痛手となるだろうな」
自分は死に行くだけの存在だ。
だからそんな自分にクーデター疑惑がかけられたところで、大して貢献できるわけでもなければ、仮に謀略にはめられたとしても処刑されるだけのことだろう。
ドイツの社会にとってルートヴィヒ・ベックという男はすでになんら影響力を持ちはしない。
「それに、ゲーリング元帥がわたしのことを気に掛けてくれることのほうが意外だが」
歯に衣を着せぬベックの台詞にゲーリングが凍り付いた。
国防軍陸軍の宿敵――ナチス党及びナチス親衛隊。
比較的陸海軍と比べると党に寄っている空軍だが、本当に党寄りの存在なのかと言えば、実のところそういうわけでもない。
つまるところ、ドイツ国防軍の三軍と、ナチス党及びナチス親衛隊は常に一定以上の親密さが構築されることはなかった。
「ベックさん、聞いて。ゲーリング元帥ひどいのよ、わたしが去年の暮れに入院していた時にほとんどお見舞いに来てくれなかったの」
だからそういう告げ口は遠慮したい……――。
そんなことに思いを巡らせつつ、ゲーリングはベックの片方の膝に手のひらをついて密告している少女に脱力した。
「ふむ、それは関心せんな」
仮にも女性が入院したのだから、見舞いに来るのが「紳士」としては然るべき態度だろうな。
続くベックの台詞にゲーリングは今度こそ愕然と閉口した。
完全にお友達扱いをされている。
ベックの認識を正確に把握したヘルマン・ゲーリングが、困惑しきって素っ頓狂な声を上げてマリーの名前を呼び掛けた。
「わ、わたしが君の見舞いに行かなかったのは、淑女の病室に気易く訪ねることが問題だと思ったからで……」
どもりがちになる声は裏返って国家元帥の地位に就く男の動揺をありありと伝えた。
「わたしゲーリング元帥がきっとすごいクリスマスプレゼント持ってきてくれるって楽しみにしてたのに!」
強い口調で言い換えされてゲーリングは辟易した。
「つまり、何日か遅れのクリスマスプレゼントの請求だな」
弱り切ったゲーリングに小気味そうな闊達な笑い声を上げたベックは、きっと年下の国家元帥が困惑しているのをさぞ「いい気味だ」とでも思っているに違いない。
これ以上ベックに弱みを握られるのもゲーリングは不愉快でならないが、秘密警察の一員であるマリーがそこにいる以上、好き勝手な発言ができるわけでもない。
ハイドリヒの築き上げた国家保安本部に設置される中央記録所。
その情報を彼女が握っているのだ。
ぐうの音も出ないゲーリングは右から左へと言葉を受け流しながら苛立たしげに時間の経過を待っていた。
しばらく当たり障りのない言葉を交わして、二時間も経過した頃ベックが腕時計を見つめてからマリーの背中を軽くたたいて立ち上がった。
「それでは、マリーが病み上がりなのでな。これで失礼するとしよう」
そう告げた老将にゲーリングはほっと胸をなで下ろした。
余分な失言はせずにすんだかもしれない。
「マリー、帰るぞ」
「はーい」
孫娘にコートを着せてやってでもいるようなベックの仕草に、ゲーリングは病み上がりだから早く帰ったほうがいいともっともらしくけしかけて、彼女の背中を慌ただしくおしてやりながら引きつりっぱなしの笑顔をたたえている。
「なるべく早く君へのクリスマスプレゼントを手配しよう」
「本当よ!」
「本当だとも」
念を押したマリーに口早にゲーリングが相づちを打った。
「このコートね、ベックさんが仕立ててくれたのよ」
帽子はベック夫人の手作りだ、と彼女は付け足した。
コートをゲーリングに見せびらかすように、マリーがくるりと男たちの視線の先で回って見せた。
「夜会でも使えるドレスかなにかがいいだろうか」
狼狽しきったゲーリングに、さすがにベックが苦情を申しつけた。
「こんな子供に夜会用のドレスなど非常識にも程がある」
「では、ブーツと帽子はどうだね?」
「楽しみにしてるわ」
太い腕を組んでうなり声を上げたゲーリングを尻目に、ベックは帽子を被るとステッキをつきマリーを連れてゲーリング邸の玄関口を出た。いつまでもプレゼントの内容で悩んでいるゲーリングなど相手にするだけ時間の無駄と言うものだ。
命を落とすことは恐ろしくはない。
自分にかけられた謀略も理不尽だが戦い抜く覚悟はできている。
だが、とベックは少女の肩を抱いたままで考えた。
ナチス党は、本当に歴史上類例を見ない虐殺の計画を推し進めているのだろうか、と。もしもそれが真実で、近い未来に現実のものとなるのであれば、それはドイツという国の軍隊に責任を持ったひとりの軍人として、体を張ってでも止めなければならないのだ。
「ベック上級大将」
ふと背後から声が聞こえた。
ゲーリングの太い声に、ゆっくりとベックが振り返る。
「わたしは、ドイツの騎士なのだ。……だから、戦う覚悟はできている」
「期待しよう」
くだらん男だ。
ベックは冷ややかに考えると、唇を引き結んだ。
軍人として、「戦わなければ」ならない。
それが彼らの目の前に突きつけられた現実だった。




