11 Guten Rutschins neue Jahr
眼鏡をかけた青年はスーツの上から袖を通したコートのあわせボタンを外しながら、年末の寒空を見上げるように視線を上げて、じっと片目を細めてみせた。
勤務時の時のいつものナチス親衛隊の制服姿ではなく、スーツにコート、マフラーと帽子に眼鏡という出で立ちだ。
「ご足労いただいて感謝いたします」
対応する相手によって、くるくると彼はその姿を柔軟に変える。
相手を警戒させてはならない。目的のためならば手段を選ばない青年は、ためらいのひとつもなく人好きの笑顔をたたえて見せた。たとえ、心中で相手を面白くないと思っていたとしても、それをあからさまに表情に出すのは彼の流儀に反する。
「……これが国家保安本部のやり方かね?」
「と、申しますと?」
国家保安本部国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクは、品の良い礼をとってから帽子とコートを脱ぐと、先にホテルの部屋についていた年上の男に穏やかな視線を投げかける。
真摯だが、どこか遅れて到着したヴァルター・シェレンベルクに対して警戒心を抱いている様子の男――エルヴィン・プランクは、その父であるマックス・プランクと良く似ていると青年は思った。
マックス・プランクと言えば、名実ともにドイツ随一の頭脳を持つ科学者のひとりである。そして、彼がドイツに残る決意をしたことは、またドイツにとっても幸いなことだったとシェレンベルクは考える。もっともヴァルター・シェレンベルクにしてみれば、物理学など一般教養レベルでしか知らないから科学者たちの論文の全てを正しく理解できているのかと尋ねられれば、それはそれで怪しいものだ。
しかし、現在警察官僚として組織に名前を連ねているシェレンベルクにとって、物理学を専門的に理解することは余り重要なことではなかった。
「常々ゲシュタポには年若い娘が配属されていることは聞いているが、全くもって下劣なやり方だ」
「あなたが独自に調査されて、”彼女”の身元を確定したことについては頭が下がる思いです」
シェレンベルクは警察官僚であるとは言え、生粋の諜報部員だ。
だから諜報員でもないプランクが独自の調査網によってマリーの身元を正確に把握したことに対して正直に感嘆した。もっともエルヴィン・プランクの動きは、すでにマリーが彼を来訪した直後からマークしていたから、彼のたどり着いた結論にそれほど驚きはしない。
「皮肉はいらん」
人好きのする笑顔をたたえたシェレンベルクに対して、プランクはぞんざいに言ってから鼻を鳴らすとひとりがけのソファにふんぞり返るようにして背中を預けて憮然とした。
「わたしは物事に対してまともな判断能力もないような子供を”君たちのような悪辣な”警察組織に配置することには、正直余り賛成はしていない」
「お言葉ですが、彼女はゲシュタポではありません」
やんわりと微笑するシェレンベルクにエルヴィン・プランクが片方の眉尻をつり上げた。
多くの者たちは総じて国家保安本部に所属する捜査員だといだけで、全ての捜査官たちを「ゲシュタポ」で十把一絡げにする傾向があることを知っていて、シェレンベルクは揚げ足を取った。
「屁理屈はやめたまえ、シェレンベルク君」
不機嫌そうなプランクの言葉に、そこでシェレンベルクはようやく笑い声を上げた。
「申し訳ありません、片言隻句を捕らえたつもりはないのです」
ではどういうわけだ、と不機嫌そうな表情のまま身を乗り出すようにしたエルヴィン・プランクに、シェレンベルクは相変わらず先ほどと変わらない笑みを浮かべたままで腹の前で両手の指を組み直した。
会話のペースを相手に握られてはならない。
エルヴィン・プランクが優れた相手であると言うことはシェレンベルクも認めている。だからこそ、彼に主導権を取られてはならなかった。
「国家保安本部には多くの捜査員が所属しています。ですが、それについてはプランクさんもご存じの通り刑事警察と情報官も含まれております」
「それを屁理屈だと言っているのだ」
ばさりとプランクは批判気味に青年の言葉を一刀両断する。
「組織上は異なるとはいえ、刑事警察もゲシュタポもやっていることには変わりがないではないか。なによりも、警察組織として絶大な権限を持ち、その力を警察同様に行使できるのであれば、いかに名前が異なっていようと実態は変わらん」
「ごもっともです」
穏やかに笑うシェレンベルクは決して他者に腹の底を見せることをしない。
「ですが、”彼女”が、ゲシュタポとして役に立つとお思いですか?」
静かに問いかけた青年に、エルヴィン・プランクは馬鹿にする様子で鼻を鳴らす。
「ゲシュタポにしても、諜報員にしても思慮に欠ける。無論、わたし個人としては彼女が国家保安本部に所属していて役に立つなどとは思わんが」
そこでプランクは一度言葉を切ってから足を組み直した。
「だが、”容疑者に気持ちの緩みを作らせる”ことは可能だろう」
「……あぁ、そういうことですか。もしかしたらそういう”使い方”も可能とは思いますが、先日、ひとりで人民法廷の前長官ローラント・フライスラー判事の独房に行ったときに昏倒しておりますので、彼女が野蛮な相手と接触を持つことは国家保安本部長官直々の命令で許可されておりませんので、今後、そのようなことは発生しにくいとは考えております」
マリーを馬鹿だ、と一蹴されてもシェレンベルクは特別腹を立てることもなく「全くその通りだ」と同意すらした。
「随分と投げやりにも聞こえるが?」
「……プランクさん、お言葉ですがわたしは人権主義者ではありません」
自分はナチス親衛隊に所属する人間だ。
シェレンベルクの返答に、エルヴィン・プランクは言葉を飲み込んだ。
「最初にプランクさんにお話を持ちかけた時に申し上げた通り、わたしは個人の権限でいくらでも他者を処罰できる立場にあるのだということをお忘れなきよう」
安易な発言は命取りになる。
そう忠告したシェレンベルクの不遜な態度に、プランクは今一度不愉快極まりないという表情を浮かべてから唇を引き結んだ。
「いずれにせよ、我々は国家の道具にしか過ぎません。プランク博士を含め、多くの方々にありとあらゆる疑惑をかぶせるのは簡単なことですから、プランクさん……、あなたも”お気をつけなさい”」
そう言ってから低く笑った。
どこまでも底知れない笑みに、エルヴィン・プランクがぎくりと肩を揺らす。
一方、スーツ姿のシェレンベルクは片手で眼鏡を外すと小首を傾げてから、片目をこすった。
「それにしても、眼鏡は疲れますね」
「……?」
不意に青年の声色が調子を変える。
今の今まで威圧的ですらあった声が攻撃的な性質を変えた。
「いえ、わたしは片目が近眼なので、どうにも眼鏡は疲れるのです。モノクルのほうが楽で良いです」
「シェ……」
「プランクさん」
彼の名前を呼ぼうとしたプランクに、シェレンベルクは唇の前で人差し指を立てて制止をした。
「わたしも、彼女も。同様に防諜に関係する人間だということです」
その名前を口にしてはならない。
そうすれば命取りになるのは自分自身だと、青年は年上の男に告げた。
*
「これで今年の仕事も終わりか」
やれやれ、とハインツ・ヨストが自分の肩を拳で軽くたたきながら独白すると、カレンダーを見やってから溜め息をついた。
結局、年末に病院から脱走したマリーはゲープハルトの追っ手によってあっさり「確保」されて、病院に連れ戻された。
もちろんマリーだけではなく、彼女に荷担したヨーゼフ・マイジンガーとアルフレート・ナウヨックスは、上官のヴェルナー・ベストとエルンスト・カルテンブルンナーにみっちり説教をされた。
地味に怒り心頭だったらしい人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハも、「こんなへまを二度とやったら武装親衛隊の最前線に送り飛ばしてやる」と息巻いていたらしいが、その辺りについてはのらりくらりとした様子のヴァルター・シェレンベルクに煙に巻かれたらしい。
執務室の彼女の席は今やすっかりヘルベルト・メールホルンの所在地となり、その壁際の戸棚には無造作に数々のクリスマス・プレゼントが置かれていた。
「あの子は……」
煙草を口元に運びながらメールホルンが言いかけた。
「うん?」
「あの子は、”あの”ハイドリヒとは違って他人のやることに対して何かにつけて口出ししないのは、僕としてもやりやすい」
メールホルンの率直な台詞にハインツ・ヨストが軽やかに笑った。
「良い子だろう」
「もっとも、かなり思慮が浅いというか、軽率なことは気に掛かるが。あれでは、どこぞの知的障害児ではないか」
辛辣なメールホルンの言葉に、ヨストが苦く笑う。
「それもそうだが、あの子はあれで一応、独英露と三カ国語はわかっているぞ? たまに無意識に使っているらしくて、普通に本を読んだりロシア人と会話をしている」
「本当か? そんなに聡明な子には見えんが」
「……それは、全く返す言葉がないのだが」
メールホルンの言葉は率直だ。
無駄に美形の類に入る男ではないだけに、メールホルンは特別言葉で飾り立てるようなこともない。
自分の知性のみが自分を飾り付けることができる。
彼はそう信じて疑わない。
「僕はシェレンベルクのように美形ではないし、要領も良くはないからな」
ヴァルター・シェレンベルクの立ち回りの良さは、それだけでも充分な才能だった。
”あのラインハルト・ハイドリヒ”の懐刀。
どんな汚い仕事も、どんな困難な仕事も顔色ひとつ変えずに遂行することのできる冷徹なエリート。
「”ハイドリヒ”の仕事をあらゆる意味で完璧にこなせるのは彼だけだろう」
ヨストが肩をすくめて指摘すると、メールホルンは口元に手を当てて数秒考え込むと、目の前のファイルをめくってからじろりと視線をそこに落とした。
「全く、彼の要領の良さは羨ましいよ」
国家保安本部に所属する親衛隊知識人として、ヘルベルト・メールホルンも意に沿わぬ任務に駆り出された人間のひとりだった。
自分に権力があって、いくらばかりか要領が良ければ意に沿わぬ暗い仕事などせずに済んだ。結果的に、ハイドリヒとは意見を異にすることとなり、ポーランド作戦のすぐ後にメールホルンは左遷された。
知識人としてエリートの道を進みながら、彼はあっという間にハイドリヒにそのキャリアを叩きつぶされたのだ。残された未来は、敗者の情けない姿だけだ。そしてそれから数年たった一九四二年の六月、ベーメン・メーレン保護領で最悪の事件は起きた。
ある程度の予測はできていた。
しかし、それでも敵も素晴らしい猛者ばかりで防諜部の弱点を華麗に突いてきた。そのために起こったのが、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺だ。
彼は一度は命を長らえたが、結局、傷が原因の破傷風によって命を落とした。
「僕は思ったのだ」
ぽつりとメールホルンが呟いた。
「ハイドリヒの支配する恐怖の帝国がなければ、ドイツの現在の支配体制は一巻の終わりだ、と」
抜け目のないハイドリヒの神経質なまでの疑い深さが、ヒトラーとヒムラーの帝国を支えていた。
それは過去形だ。
ヒムラーの帝国――あるいはハイドリヒの帝国――が次第に崩壊していく姿を外から眺めていたメールホルンは、いよいよ最後の黄昏の時が訪れるとさえ感じたというのに。
「あの子は何者だろう」
「さぁ? ハイドリヒ大将の棺桶に隠れていたくらい剛胆な子だから、その辺の子たちとは少々変わっているのだろうが」
問いかけられて応じたハインツ・ヨストにメールホルンは再び深刻な表情へと戻っていく。
目指していたのは恐怖の帝国などではない。
メールホルンやヨストが目指したのは、世界に冠たるドイツ。
たったそれだけだ。
「そういえば」
メールホルンが唐突に話題を変えた。
「僕はもう少し仕事をやっていくから、ヨスト少将は帰ってくれてかまわんが。”我が闘争”を読んだかね?」
「……いや」
読んではいない。
素直なヨストの返答にメールホルンが低く笑った。
「あんなもの読むだけ時間の無駄だと、マリーに言っておきたまえ。もっともらしいことがもっともらしく耳に心地よい言葉で書かれているだけだ」
冷ややかなメールホルンの論評に、コートの袖に腕を通したヨストは無言のままで肩をすくめた。
「では、わたしはこれで失礼する。良いお年を」
「良いお年を」




