9 虚構と暗がり
問題は山ほど積算していて、正直なところどこから手をつけたらいいのかわからないくらいだ。頭を抱えているのはドイツ外務省だけではない。
「正式に抗議をしなければなにもなりませんぞ、長官」
「わかっておる」
重々しく言葉を返したハインリヒ・ヒムラーに、エルンスト・カルテンブルンナーは苛立つ様子のままで眉間を寄せる。
「シェレンベルクの英断があったから助かったようなものです」
カルテンブルンナーの批難するような言葉に、ヒムラーは困惑したように視線を彷徨わせてから同席するカール・ヴォルフと、オズヴァルト・ポール、そしてハンス・ユットナーに視線をやった。
「長官閣下、カルテンブルンナー大将の言われる問題は、なにも国家保安本部所属者のみに限りません」
別に不愉快なことこの上ないカルテンブルンナーという男に口添えするつもりは欠片もないが、ハンス・ユットナーはあくまでも武装親衛隊の司令官として口を開いた。
生粋の軍人であるハンス・ユットナーは、現在の国家保安本部の長官を務めるエルンスト・カルテンブルンナーが人間として信用ならないから、彼に対して否定的ではあるが、その下の人間の全てがそうというわけでもないことを知っている。
そもそも国家保安本部の上層部が信用できないことなど言うに及ばず、暗殺された前長官ラインハルト・ハイドリヒの時からの伝統である。
ナチス親衛隊の名前を掲げている以上、武装親衛隊の将兵らも国家保安本部の警察組織同様に命の危機に晒される。
「……現状、国家保安本部の少数の部隊だけで秩序の維持を行うのは、非常に困難を伴います」
秩序の維持が困難ともなれば、その余波は武装親衛隊、あるいは国防軍、その他のドイツ人自身にも及ぶことになるだろう。
苦々しい面持ちでカルテンブルンナーはヒムラーに訴える。
広大な東部占領地域の秩序維持を国家保安本部のたった五千人という少数の部隊で担当している。激務と過労でずさんな活動になったところで何らおかしな話ではない。
「う……、うぅむ」
ラインハルト・ハイドリヒという男の恐怖の存在をもって、維持していた国家保安本部とう組織に走った巨大な亀裂は今ではそのままでは機能しなくなっている。エルンスト・カルテンブルンナーを頂点とした新たな新体制を本格的に考慮しなければならないのだが、凡人のヒムラーにはなにをどう変えていけば良いのかさっぱり考えつかない。
「確かに、厳重な抗議が必要なことはよくわかっている」
しかしマンシュタインや、ルントシュテットがそうであるように国防軍は国家保安本部の秩序維持部隊の危険性を知ってか知らずか国防軍の将兵らの関与を一切禁じている。そもそもそれがカルテンブルンナーには気に入らない。
武装親衛隊の将兵らは前線での娯楽の少なさも手伝って、刺激的で残忍な国家保安本部のやり口に好奇心からおもしろがってちょっかいを出しにやってくるがそれだけだ。いざ矢面に立たされれば、武装親衛隊司令部は事態に関与などしていないと言い逃れるだろうことは明白だ。
そうカルテンブルンナーは思うし、武装親衛隊のハンス・ユットナーは最初からそのつもりだ。
戦場における殺しあいはともかくとして、民間人や非武装の人間に対する残虐行為は本来許されるものではない。
国家保安本部が推進する行動は諸刃の剣だ。
「……だが」
口ごもったヒムラーは突き刺すような部下たちの視線を受けて、執務机についたままで黙り込むと何度か口を閉じたり開いたりとを繰り返した。
現在、状況は非情に混乱している。
国防軍による軍事クーデター疑惑のみならず、それにナチス親衛隊も荷担していたのではないかという疑いをかけられていることに、ヒムラー個人としては動揺を隠せない。
アドルフ・ヒトラーに忠実な親衛隊員。
その名目が崩れればヒムラーは一巻の終わりだった。
もちろん混乱はそればかりではない。
ドイツと外国との窓口とも呼べる外務省も、ヨアヒム・フォン・リッベントロップの権威の失墜によって正常に機能していない。それこそが、ドイツの迷走に拍車をかけている。外交筋がまともに機能せず、国防を担う軍が国家に対する罪を疑われているとなれば、戦争どころではない。
なによりもナチス親衛隊内部にも問題が生じていることは確かだった。
「とりあえず、国家保安本部のほうで労働力にならぬ人間を選別してくれることはありがたい話であると考えて、我が経済管理本部で管理する”施設”はその許容を大きく越えつつあります。今後このままの施設数で労働力の管理を行うことは合理的であるとは思えません」
ちらりとポールはカルテンブルンナーを見やってから、ハインリヒ・ヒムラーにそう言った。
国家保安本部と経済管理本部とが対立しているのは今に始まったことではない。なにか物言いたげな眼差しをカルテンブルンナーに放ったオズヴァルト・ポールに、ソファに腰掛けていた国家保安本部長官はムッとした様子で腰を浮かしかけたが、結局座り直して憮然と唇をへの字に曲げてみせた。
要するに何らかの対処が必要だとポールは言うのだが、ヒムラーはヒムラーで自分になんらかの決定権があるわけでもなかったから狼狽するばかりだ。
そんなヒムラーを見るに見かねたのか副官のカール・ヴォルフがオホンと咳払いをして、その場の空気に一息入れた。
「なににせよ、ヒムラー長官は総統閣下から”最終的解決”の指示を受けているにすぎません。ポール大将も、カルテンブルンナー大将も思うところはあるだろうとは思うが、今議論すべきはそういったことではない」
黙り込んでしまったヒムラーに助け船を出すようにヴォルフが告げれば、カルテンブルンナーは舌打ちをしてから長い脚を組み直して首を傾げた。
「ポール大将の言うことはもっともだが、東部の状況をポール大将は理解していない」
「フン」
「だから、やめたまえ」
エルンスト・カルテンブルンナーの言葉に面白くなさそうに鼻を鳴らしたポールに、ヴォルフの声が重ねられる。不毛なやりとりにうんざりとしている武装親衛隊のハンス・ユットナーは三名の一般親衛隊高級士官を眺めてから、苛立つようにソファの肘掛けに指を踊らせた。
「とにかく」
彼らのやりとりに区切りをつけるようにユットナーは内心の苛立ちを隠そうともせずに強い声で空気を震わせた。
「こんなところで可能性と推論だけで、結論を議論していたところで意味はなかろう。現状、政府首脳部が混乱していることは否定できん。ヒムラー長官にも思うところはあるかと思いますが、やはりこのたびのモスクワへ向かった親衛隊使節団がパルチザンに襲撃された事件について無策とあっては、今後もこのような”事件”を繰り返すことになるでしょう」
ドイツは何もしてこない。
そうした外国からの評価は余り喜ばしい話ではなかった。
しかしハイドリヒ暗殺の後に行われたような報復行動も考え物だ。何事も程度というものが存在する。
簡単に言えばこんなところで議論するだけ時間の無駄なのだが、議論しないわけにもいかない。ハンス・ユットナーもそれをわかっているから当たり障りのないことしか言えずに憮然とするしかない。
「それで、被害状況はどうなのです?」
ユットナーに問いかけられて、気を取り直したのかヒムラーはホッとしたようにと息をついた。
「ランゲ少佐とエーアリンガー中佐は無事帰国したと聞いていますが」
助け船を出すのは別にヒムラーのためではない。ユットナーは大した実力も持たないのに威張り散らしている経済管理本部のポールと、国家保安本部のカルテンブルンナーが大嫌いだった。こと、彼らは武装親衛隊の行動に対してもなにかにつけてくちばしを挟んでくる。
これが生粋の軍人として面白くないわけがない。
「一部、ランゲとエーアリンガーの護衛についた部隊に被害が出た。しかし、これはシェレンベルク上級大佐の指揮する部隊が秘密裏に支援のためにソ連入りしていたため、最悪の事態は避けられた」
「……シェレンベルク上級大佐、ですか」
ヴァルター・シェレンベルクは抜け目のない男だ。それに対してハンス・ユットナーも議論の挟む余地はない。なによりも、シェレンベルクが提案した親衛隊特殊部隊がこれほど短期間にものになっているとはさすがにユットナーも思ってはいなかった。
訓練もあるから、使えるものになるには年を越すだろうというのがユットナーの見解だったが、その辺りは正直意外だった。
もっとも、シェレンベルクは軍隊単位の実働部隊を指揮した経験はないはずだから、若きエリートが直接指揮を執ったわけではないだろう。
「と、とにかく、今回の一件については我が親衛隊員の優秀な頭脳の安全を確保する意味でも重大な問題である。わたしも”それとなく”総統閣下にお伺いしてみる……」
語尾が掠れているヒムラーの声色は全く当てになりそうもないが、一応、これ以上の確約など頼りなさが服を着て歩いているようなヒムラーに聞くだけ無駄と言うものだ。
「……期待しましょう」
数秒の間をおいてカルテンブルンナーはそう告げた。
オズヴァルト・ポールのほうもこれ以上ヒムラーを追及したところで意味がないことをわかっていたから、宿敵ともいえる国家保安本部のカルテンブルンナーに視線を走らせただけで沈黙を守った。
「ところで、カルテンブルンナー大将」
「はい?」
意図的に話題を切り替えたヒムラーに、カルテンブルンナーは視線を上げて机の向こうにいる親衛隊全国指導者を眺めやる。
「そ、その……、マリーの様子はどうだね?」
「どう、というのは?」
「肺炎で入院したと聞いたが」
「どうも少し容態が安定したのでゲープハルト中将が外出許可を出したらしいですが、国防軍のお偉いさんのところを遊び歩いたせいで状態が悪化したらしいとのことです」
形式的な受け答えをしてヒムラーの反応を観察したカルテンブルンナーはわずかに片目を細めた。
カール・ゲープハルト親衛隊中将。
彼はハインリヒ・ヒムラーの側近であり盟友だ。
幼なじみと言えば聞こえは良い。
ゲープハルトからマリーの容態については直接報告がいっているだろう、と暗に示唆するカルテンブルンナーにヒムラーは憮然とする。
「そういうことが聞きたいわけではない」
「……――そうは言われましても」
ではどう答えればいいのだろう。
カルテンブルンナーは逡巡した。
ヒムラーの妄言にいちいちつきあっているわけにはいかない。
「もういい、今日の会議は解散だ」
そう言ってしっしと片手を振ったヒムラーも、どこか心底うんざりした様子で鼻から息を抜くと頬杖をついて横を向いた。
いつもヒムラーは思う。
自分は究極の中間管理職なのではないか、と。
部下たちも、政府首脳部も勝手なことばかり言っていればいいだけで、それを通さなければならない自分の身にもなってもらいたい。愚痴も言いたいが、かといってヒムラーが愚痴を言える相手は限られている。
人生そのものがいやになってヒムラーは何度目かの溜め息をついた。
ハイル・ヒトラーと敬礼をして、ヒムラーの執務室から四名の高官たちが出て行ったことを確認してから、椅子に座り直すと腹の前で指を組んだまま目の前に積み上げられたファイルを睨み付けた。
「問題、か……」
問題が山積みであることはわかっている。
問題を自分が作り出していることもわかっている。
けれども、小心者のヒムラーにはどうすればいいのかわからない。
「わたしにだってわからんのだ」
わからない。
どうすればいいのかがわからない。
――熱狂は、やがて冷める。
――良くも悪くも。
そういうものだ。
重い吐息をついたヒムラーは頭を抱えて考え込んだ。
「わたしが考えたところでどうなるわけでもないのはわかっている」
ヒムラーには国防的な意味でも、政治的な意味でもなんら権限がないと言っても等しいだろう。だから、彼は親衛隊全国指導者という立場にありながら、手をこまねくことしか出来はしない。
「わたしになにができるって言うんだ……」
なにが正しい答えなのかわからずにヒムラーは両手で顔を覆った。
「熱狂はいつか終わる」
熱はいつか冷める。
それが目の前に見える現実だ。




