8 光と影の向こう側
「大丈夫ですか」
何の疑問も感じさせない顔で、青年は彼女のベッドサイドに座って問いかけている。
そんな様子に違和感と疑問を感じるのはヨーゼフ・メンゲレだ。
「……最近、忙しかったの?」
「すみません、ベスト中将の命令で仕事が立て込んでいまして」
コホコホと小さな咳を繰り返すマリーの横で、そんなやりとりを交えながら告げる親衛隊少尉の青年は、メンゲレと年齢はそれほど変わらないだろうか。
「プラハの……?」
「えぇ」
どうしてこの男は、こんな子供に同等、あるいはそれ以下の扱いをされているというのになにも疑問に感じないのだろうか。
募るのは苛立ちばかりだ。
「ナチス親衛隊少尉及び、武装親衛隊少尉及び警察少尉のアルフレート・ナウヨックスです。メンゲレ中尉」
それなりにハンサムな親衛隊将校にそう挨拶をされて、メンゲレはフンと鼻を鳴らした。
「親衛隊中尉、医師のヨーゼフ・メンゲレだ」
「そうですか」
それほど交わす言葉は多くなかったが、ナウヨックスは特殊部工作員の出自だと言った。一時は武装親衛隊にも所属して東部戦線にも従軍したということだが、今は、少女――マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐の麾下に配置されていると自己紹介した。
メンゲレに対してそれほど大して興味もなさそうなナウヨックスは、事務的な会話をメンゲレと交わしてから少女に向き直って言葉を交わしている。
「ベスト中将とヨスト少将が随分心配していたので、ゆっくり養生して体を治してください」
ヨスト少将が、心労でハゲが進行しそうだと嘆いていましたよ。
付け加えるナウヨックスにマリーは熱い吐息を履き出しながら、クスクスと笑ってからそうして疲れたように目を閉じる。
「仕事のほうは、ベスト中将とヨスト少将とメールホルン上級大佐が勝手に進めると言うことで、年明けにサインだけもらいにいくとのことです。あなたの警護については、マイジンガー大佐が全体の指揮を執るとのことですから心配はされなくても良いと言われていました」
業務連絡的な物言いのナウヨックスは、少女がやがて眠りの淵に沈み込んでいくのを確認してからベッドサイドの椅子から立ち上がった。
「少尉はなにも思わないのか?」
黙り込んだまま様子を窺っていたメンゲレが押し殺したような声で問いかければ、ナウヨックスは長い睫毛を震わせてからちらりと視線を流しやる。
「なにも、とは?」
「こんな子供が親衛隊員であるということだ」
「……つまり、メンゲレ中尉は彼女が親衛隊員であるということが愉快ではないと言いたいのですか?」
外見上は特にこれといった表情の変化を見せることもなく冷静な様子で応じたアルフレート・ナウヨックスにメンゲレは神経質そうに眉尻を引き上げる。
ナウヨックスが返す言葉は形式的な礼儀を払っているものの、極論を言えばそれだけで、ナウヨックスがメンゲレに敬意を持っていないことなど明白だ。
もちろんそれはナウヨックスが悪いわけではない。
ナウヨックスにしてみれば一介の親衛隊中尉――しかも、医師である以上は最初から将校として採用されたというわけであって、武勲によって与えられた階級ではないのだから、真価の発揮をしていない以上、国家保安本部に所属するナウヨックスにしてみればその程度の存在だ。
自らの真価の発揮をすることこそ、国家保安本部で一目置かれることなのである。
そしてマリーも同じだ。
戦場ではないものの、真価の発揮をして今に至っている。
「おかしいとは思わんのか!」
思わず荒くなる口調のメンゲレを一瞥してから、ナウヨックスは一度床に視線を落としてから、再びヨーゼフ・メンゲレを見返した。
確か、とナウヨックスは思い出す。
つい最近、カール・ゲープハルト親衛隊中将の指揮下に配属された武装親衛隊の医師で、どうやら当の本人はマリーのことを快く思っていないらしい、というのは彼の態度を見ていてすぐに悟った。
「面白くなかろうが、おかしかろうが上層部の命令は絶対です。中尉」
それだけのことだ。
命令されればナウヨックスに否やはない。
「……そんなことはわかっている!」
「では議論するだけ無駄なのではありませんか?」
冷ややかにナウヨックスが言葉を投げかけた。
外見しか見ていないのは誰しも同じだ。だからナウヨックスは自ら進んで、マリーの性格の好ましいところを説明してやるつもりはなかったし、固定観念で頭ががちがちに硬直した男になにを言ったところで意味などないことを感じ取っているからこそ、口を閉ざした。
「それに、本官は一介の少尉ですので、ヒムラー長官の命令に逆らうことなど許されません。どれほど気に入らなかったとしても、命令は絶対です」
表情ひとつ変えることなく告げたナウヨックスに、メンゲレはなぜかわなわなと唇を震わせてから聴診器と血圧計をひっつかむとそのまま足音も荒く病室を出て行った。バタンと勢いよく閉ざされた部屋の扉にナウヨックスは肩をすくめる。
まがりなりにも高熱を出して寝込んでいる患者の病室なわけだから、もっと静かに扉を閉じてくれなければ困る、などと一見、一般常識的なことを意地悪く考えて、ベッドに視線をやると扉の閉まる大きな音に目を醒ましたらしい少女がナウヨックスを見上げていた。
「……ナウヨックス?」
「なんでもないので、気にしなくていいです。少佐殿」
「うん」
点滴を受けながら再び疲れた様子で眠り込んでいく華奢な少女に、ナウヨックスは苦笑した。
ヨーゼフ・メンゲレ――愛称はベッポ。
すっかり彼の存在が横にあることにも慣れたマリーは、男のことをベッポと呼んでいる。そんなメンゲレのほうは、まだ彼自身よりも年少のマリーが階級が上であることを受け入れられないようだが、軍隊や親衛隊では自分よりも年若い者が上官であることなど今に始まったことではない。
つまるところ、メンゲレの感じているものはくだらない自尊心なのだが、それはナウヨックスにも理解できないわけではない。
シェレンベルクのような明確なエリートであればともかく、マリーはいかにも馬鹿そうだ。特殊工作員出身の諜報員のナウヨックスですら、彼女が自分よりも階級的には上になることに複雑なものを感じざるをえなかったのだから、医学の博士号をとったメンゲレにしてみればなおさらだろう。
しかし、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが彼女を部署長として任命し、親衛隊少佐という階級を与えたのだから親衛隊員である以上は、受け入れなければならないことなのだ。
最近はテロリズム的な危険な行為に晒されることが多かった彼女の護衛は、ヨーゼフ・マイジンガーに指揮権を取られているためナウヨックスの主な仕事はそれらの手回しに追われていた。
将校の仕事というものは案外多いのだ。
こと、特別保安諜報部のような小さな部署では。
「また来ます」
眠る少女に形ばかり言葉を投げかけて、ナウヨックスは控えめに踵を鳴らすと党の敬礼をしてから部屋を出た。
廊下に張り込むのはマイジンガーの指揮をする警護部隊の下士官だが、そんな彼らには目もくれずにナウヨックスは小脇に抱えた皮のカバンを持ち直すと歩きだした。
ハイドリヒの指揮下であろうとも、マリーの指揮下であろうとも。自分にあるのは選りすぐりのエリート特殊工作員であるというプライドだった。法律家出身のなよなよとした親衛隊高級将校たちとは違う。
だからヨーゼフ・メンゲレの抱く不信感が実にくだらないものに思えて、ナウヨックスは鼻を鳴らした。
医師でありながら、未だに親衛隊中尉という階級にとどまっているというのであれば、つまるところそういうことなのだろう。
「それでは、一応サインはいただきましたので、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ります。マイジンガー大佐」
「あぁ、ご苦労」
病院に詰めているのは主治医のゲープハルトだけではない。警護部隊を指揮するマイジンガーも、万が一の事態を考えて連日病院に通い詰めていた。
まだまだ若いナウヨックスなどにしてみれば、マリーのことを心配して時折泡を食ったような顔になるマイジンガーやゲープハルト、カルテンブルンナーらの顔が面白くてたまらない。彼女以外に彼らにそんな表情をさせることができるのは、彼らの家族以外にいないのではないだろうか。
そんなことを思わせる。
「帰るのかね?」
唐突に飛んできた声に、ナウヨックスはぎくりと肩を揺らしてから姿勢を正した。
マイジンガーの存在は予想していたが、こちらの医学博士の存在には神経を払っていなかった。どうやらマイジンガーの執務室で話し込んでいたらしい。
「閣下もこちらでしたか」
「マリーの容態が安定したら連絡をいれると、ベスト中将に言伝を頼みたいのだが」
「承知致しました!」
「ともあれ、年内には一山越えるので心配いらんと伝えてくれたまえ」
「はっ」
カッと踵を鳴らして敬礼するナウヨックスに、片手を軽く上げて礼を返したゲープハルトは、再びマイジンガーを見返すとそれまでの会話へと戻っていく。
そんなふたりに背中を向けて扉を閉じたナウヨックスは、夕暮れに染まるベルリンの街並みを眺めつつ、駐車場へ止めたメルセデスの扉に手を伸ばした。
ベルリンには時折アメリカ合衆国とイギリスの爆撃機が飛んでくるくらいで平和なものだ。外国で戦争を継続中の国とは思えたものではない。
ソビエト連邦との戦いも、コーカサスの資源地帯を握ったことで一息ついた。これによってコーカサス地方からドイツまでの輸送網が敵国に握られない限り今のところ、戦況は安泰だが国内と国外のひどい落差にナウヨックスは時折、心の均衡が図れなくなることがある。
それはドイツ国内に燻っている時限爆弾にも似ていた。
思わぬ形でそれらが暴発することになるのかもしれない。
黙り込んだまま考えるアルフレート・ナウヨックスはふと、背後から注がれる視線にちらと肩越しに目をくれた。新聞を睨み付ける男の姿にせせら笑うと、青年は国家保安本部の車に乗り込んだ。
どうせ国防軍による軍事クーデター疑惑に関係するなにがしかの組織の捜査機関だろう。
それからナウヨックスはプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ってベストに報告を入れて、残った時間で自分に与えられた仕事をこなす。
特殊工作員であるからといって、事務的な仕事がないわけではないのだ。
*
「全くもって、オーバーワークにも程がある。僕はそのうち過労死するんじゃないか」
ぶちぶちと文句を垂れ流しながら怒濤の勢いで書類をめくるヘルベルト・メールホルンは旧知の間柄でもある気心の知れた親衛隊高級将校のふたりにぼやいた。
「こんなもん”あの若いの”に押しつけておけばいいだろう」
「そうは言ってもメールホルン上級大佐の言う”あの若いの”も、過労死する勢いで仕事をしているからな」
愚痴るメールホルンの言葉を受け流したヴェルナー・ベストは、朝から晩まで仕事三昧のエリート将校の顔を思い浮かべてから苦笑した。
ついでを言うなら朝から晩まで仕事をしている上に、愛人までいるのは若い故なのかもしれない。
「”不倫”している暇があったら仕事に回せばいいだろう」
「若いから体力が有り余っているのではないか? それに彼が不倫をしているからといって、仕事に影響を与えるような振る舞いをしているわけでもない。前のように上官の奥方に手を出したりしなければ個人の問題だろう」
揶揄するようなベストの口調に、メールホルンはうんざりとしながら机に肘をついた。
「顔が良いというのは、羨ましいことだ」
憮然としたヘルベルト・メールホルンの口調は心の底からうらやましがっているようには見えなくて、ベストとヨストは顔を見合わせてから笑い声を上げた。
「ところで、問題の特別保安諜報部の部長殿が例の疑惑に関与しているらしいという噂について、貴官らは対策をとっているのか?」
とてもハンサムとは言えないメールホルンが、思慮深げな光をその瞳に閃かせながら問いかければベストは書類に視線を走らせながら「あぁ、それか」と相づちを打った。
特別保安諜報部のマリーの執務室にメールホルンの机はないから、今、彼が座っているのは主人不在のマリーの席だ。
「それについては、シェレンベルクとオーレンドルフ、それとカルテンブルンナー大将が動いているらしい」
「……連中か」
答えを受けて考え込んだメールホルンだったが、仕事の手を休めることはせずに次から次へと情報の整理を行っていく。
「疑惑をぶちあげた奴らがどう動くかはともかく、こちらから”仕掛ける”ならば、決定的な一打を加えない限り逃げられることになりそうだが」
「それはシェレンベルク辺りがうまく画策するだろうな」
「なるほど」
情報はうまく扱わなければ諸刃の剣だ。
それは誰でもなくシェレンベルクが一番知るところのはずだ。今回の疑惑は、おそらく国家保安本部と国防軍の権威の失墜とを狙ったものであることには間違いない。しかし、相手がわかったからと言って、安易に相手を攻撃すれば良いというものでもない。
他国との戦争中である以上、国家の中枢に関わる問題であるならば慎重にならざるを得ない。
「その結果として”事態”がさらに悪い方向へと転がることも考えられる」
総人口一億人近い国家が正常に機能するためには、必要なことは山ほどあった。
「……――後釜、か」
メールホルンの言葉にヨストがぽつりと呟いた。
世間は不穏に満ちている。
多くの者たちが、より権力の高みを目指して弱肉強食の凄絶な戦いを繰り広げているのだ。
もっとも、外国で命を賭けて戦っている最前線の将兵たちがそんな政治家たちの権力争いを見ればどう思うだろう。
そんなこと不意にをヨストは考えた。




