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4 恐怖の化身

 マリーがかんしゃくを起こしたとヨーゼフ・メンゲレ中尉から報告を受けたゲープハルトは、カルテに書き込みをしていた手を止めてちらりと丸い眼鏡の奥から視線を上げた。

 ベルリンオリンピックでも医師長を務める程のエリート医師は、座っていた椅子を引いて「ふむ」とうなり声を上げてから、若く経験の足りないメンゲレ医師に視線を投げかける。

「”いつから”だね」

「は……?」

「いつからマリーが訴えていたと言うんだね?」

 基本的には周囲の意見に流されやすく、事なかれ主義で事大的な彼女の事だ。そんな彼女がかんしゃくを起こすと言うことは、それなりにストレスを溜めていたということになる。それをメンゲレは見抜けなかったのだろうか?

 これだから臨床経験のない医師はダメなのだ。

 小馬鹿にするように鼻を鳴らしたカール・ゲープハルトはじっとメンゲレを見つめてから、ややすると書いていたカルテを机のひきだしにしまいこんでから片方の肘を突いて顔の前に指を立てた。

「あの子はもう半月以上も入院しているのだ。普通の子供ならストレスのひとつやふたつを溜めていてもなんらおかしくはない。そのうえ、親しくしていた国防軍のお偉方が軒並み面会拒絶にされていればかんしゃくを起こしてもやむを得んだろう。それを中尉は医師として見抜くこともできなかったのかね? だいたい、君はマリーに関する資料にはちゃんと目を通していたのか?」

 容赦なくこきおろすゲープハルトにメンゲレは返す言葉もなく黙り込んでうつむいた。

 一応、彼女に関する資料には目を通したのだ。その上で、国防軍の将軍たちと個人的に親しく交流を持つとは親衛隊員として何事かと憤ったのはそれほど遠くはない過去だ。

「しかし、閣下。国防軍の上層部と通じているなど、親衛隊員にあって良いことではありません」

「ふむ、つまりマリーはやはり”そういう事情”でかんしゃくを起こしたのか」

「……閣下」

 マリーに四六時中張り付いているマイジンガーが、ゲープハルトを呼びつけたというのはなんとも鼻について面白くない話だが、彼女が本当に怒っているのならば顔を出すべきだろう。ゲープハルトは若手医師の無能さにあきれかえりながら肩を落とすと立ち上がった。

 「患者」には感情がある。

 それを理解しないで医療行為を行うことなど無謀以外にほかならない。

「君は臨床現場の医療行為をもっと知るべきだ」

 ばっさりと一刀両断されて小さくなっている医師に顎をしゃくって、ゲープハルトは歩きだす。

「ついてきたまえ」

「……承知しました」

 マリーの病室に入ると、白いベッドにぺたりと座り込んだ病衣の少女がゲープハルトの姿を認めて天真爛漫な笑顔をたたえた。

 最近ではだいぶ病状も落ち着いてきている。

 もっともまだ夜間は高熱を出すこともあり予断を許さない状況ではある。

 病衣から伸びた白い足の頼りなさに、ゲープハルトは片方の眉尻をつり上げてからベッドサイドの椅子を引き寄せて、華奢な少女を覗き込んだ。

「怒れるほど元気になったのは全くもって良い傾向だ」

「聞いてよ! ゲープハルト中将……!」

 細い腕を伸ばしてエリート医師の腕を白衣の上から掴んだマリーは、常々不満に感じていたことをゲープハルトに訴えた。

「あぁ、先ほどメンゲレ中尉から聞いたが、陸軍参謀本部の首脳部に会いたいということか?」

 秩序警察による陸軍参謀本部に対する訊問がはじまり、それに関係してベックやハルダーなどのマリーとは日頃から親しくしていた面々が面会拒絶状態となったこと。それがマリーにとっての一番の不満の原因だ。

 そんなことは状況を分析すれば誰にでも理解できることだ。

 彼女のような子供に、感情よりも理性を優先しろというのは無理な話で、マリーが不満を募らせていてもいたしかたない。

「どうしてグデーリアン上級大将も、ハルダー上級大将も、ベックさんも来てくれないの?」

 マリーには彼らが面会拒絶状態にあることは報されていない。だから、いつもであれば暇を探しては病室へ顔を見せに来ていた老将たちの訪れがないことに不満を抱いた。

「君が会いたいなら、わたしがなんとか話をつけてみよう」

「いや! 今会いたいの! 許してくれないなら、マイジンガー大佐と行くわ」

 悠長なゲープハルトの言葉に、やはり怒ってしまったのは相当ストレスが溜まっているせいだろう。

 ぷりぷりと怒りながらベッドを下りたマリーが、薄手の病衣のままで壁際に仁王立ちしたままのマイジンガーに駆け寄って無骨なその手を握りしめる。

「ふーむ……」

 これは困った展開だ。

 ゲープハルトが暢気に考えていると、やや困惑気味のマイジンガーに助けを求めるような視線を投げかけられて、中年の医師は首をすくめた。

「メンゲレ中尉、彼女のバイタルを」

「は……っ」

 無理強いされる検査にいやがって暴れるマリーをなだめすかすのはマイジンガーだ。

 不満たらたらと言った様子のマリーのバイタルサインを取ったメンゲレは、疲労困憊して上官にやっと報告すれば、ゲープハルトは自分の膝を軽くたたいてから立ち上がった。

「その格好では病気を悪化させる。しっかり暖かい服を着てから行きなさい。マリー。それともしも調子が悪くなるようならすぐに帰ってくるように。病状が悪化するようなことがあれば命に関わる。わかったね?」

「……ありがとう! ゲープハルト中将!」

 マリーはカール・ゲープハルトの外出許可に胸の前で両手を組み合わせて感激すると、すぐにぴょこんと跳びはねて喜んだ。

「それと、わたしからの”お願い”だが」

 ゲープハルトは腰を屈めると、マイジンガーの隣で喜んでいるマリーに神妙な顔つきで覗き込んで言葉を続けた。

「できれば、わたしのこともゲープハルト”博士”と呼んでもらいたいものだ」

 そう言ったゲープハルトにマリーは大きな青い眼をさらに大きく見開いてから、視線を天井に上げると右手の人差し指の先をを唇に当てた。

「別に、いいですけど……」

 どうしてゲープハルトがそんなことを言うのかわからない、とでも言いたげな彼女の様子にエリート医師は声もなく笑ってから病室の扉を開くと通りかかった看護婦にマリーの服を持ってくるように命じた。

「ハイドリヒ親衛隊少佐に外出許可を出した。すぐに保管している服を持ってきたまえ」

 マリーが「博士」と名前につけて呼ぶのは、今のところたった三人の男たちしかいない。

 ひとりは国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将。もうひとりは特別保安諜報部のマリーの首席補佐官、ヴェルナー・ベスト親衛隊中将、もうひとりは同じ部署の次席補佐官を務めるハインツ・ヨスト親衛隊少将だ。

 彼女に親衛隊の階級を素通りして個人的に親しく呼び掛けられる三人の法学博士たちのことが、ゲープハルトはなぜだか羨ましくてならなかった。

 どうしてそんなことが羨ましく思ったのかと問いかけられても、ゲープハルトにはうまく答えられる自信などなかったし、仮に正確に自分の内側にあるものを分析できていたとしても、他者に答えるにはかなりの勇気が必要だっただろう。

 幸い、そこに同席しているのは親衛隊大佐のヨーゼフ・マイジンガーと、親衛隊中尉のヨーゼフ・メンゲレだけで、誰もゲープハルトに要求の真意を追究することもない。

 彼女の着替えのために、メンゲレとマイジンガーに顎をしゃくって病室を後にしようとするゲープハルトを金髪の少女は笑顔で呼び止める。

「ゲープハルト博士、ありがとう」

「なに、気にしなくてもよい。わたしはいったん、親衛隊長官を説得しなければならないので失礼するよ」

 彼女が陸軍参謀本部首脳部に会いたいというのだ。

 外出許可を出しただけでは、彼らに会うことなど到底出来はしない。

 ゲープハルトの権力でも力不足なら、その上の権力に働きかけるだけのこと。少なくともそうした働きかけを行うことができる力をゲープハルトは持っている。

 ナチス親衛隊全国指導者の親友であり、側近。

 その名前は決して飾りではない。

 病室の警護はマイジンガーに命じて、長い廊下を歩きだしたゲープハルトは自分の後ろを歩くメンゲレから自分の顔が見えていないことを肩越しに確認してから、引き締めていた頬を緩めて思わず、若者たちと同じようににやけ顔になった。

 ――ゲープハルト博士。

 親しげに呼ばれた彼女の声が嬉しくて、スキップでもしたくなる。

 もちろんメンゲレの前でそんなことをするのは自分の権威にも関わることだからさすがに自重するが、にやけがちになる顔はなかなか治らない。

 他人行儀に「ゲープハルト中将」と呼ばれるのと親しげに「ゲープハルト博士」と呼ばれるのでは雲泥の差だ。

「閣下……、彼女は、いったい」

 背後からメンゲレの声が聞こえた。

 青年を振り返りもせずにゲープハルトはわざとらしく固く装った声だけで応じる。

「最初に言ったはずだ、彼女は、君の上官だ。もう少し口を慎みたまえ」

 ヒムラーから特権的権力を与えられた親衛隊少佐。

 彼女の権力は、腕利きの秘密工作員であるアルフレート・ナウヨックス、ベテランの警察官僚のヨーゼフ・マイジンガー、そして三人の法学博士と、ゲープハルトによって支えられている。

 実質的な判断能力など皆無だが、彼女の特殊な立ち位置は本来、権力の中枢から外れてしまった男たちの自由な裁量を可能にした。彼らの頭脳は、閑職として追いやられるには余りにも忍びない。

 それをゲープハルトは特別保安諜報部に配属されてから知る事になった。

 優秀な人間は優遇されるべきだ。

 幸い彼らと比べれば遙かに知性の足りないマリーだが、親衛隊知識人の中でもエリート士官と呼ばれる彼らの意見を感情で反対することはない。もちろん彼らに言いくるめられているところもあるのかもしれないが、少なくとも子供らしい正義感をやたらと振り回して大人たちを困惑させるようなこともなかった。

 彼女は不思議な子供だ。

 一言などではとても言い表せない。

 病院の中に特別にあつらえられた仮の執務室に戻ったゲープハルトはさっそく電話の受話器を上げると、幼なじみのハインリヒ・ヒムラーの元へと電話をかける。

「あぁ、ハイニー。マリーがね、訊問中の陸軍参謀本部のお偉方と遊びたいと言っているから、君の権限でなんとかしてくれないか?」

 ちなみに説得は無理だったから、これから夕方までにベック上級大将やハルダー上級大将のところに順繰り回るだろう。

 明るくそう言ったゲープハルトの気安さに、仰天したのはヒムラーで陸軍参謀本部の訊問中の高級将校となればそれはもうあちこちに連絡を取らなければならにということになる。

「頼んだよ」

 ヒムラーの気の弱さについては、ゲープハルトは幼い頃からよく知っているが、それにしたところで親衛隊全国指導者の権限がなければそれに準ずる組織を上から動かすことなど不可能だ。

 理想を言えば国防軍総司令部総長――ヴィルヘルム・カイテル元帥や、国防軍空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥などが動いてくれれば物事がスムーズに片付くのだが。

 マリーはマリーですでに出かける準備を始めているだろうから、いまさら彼女を止めたところでややこしい事態になることは目に見えている。なによりも普段はそれほど自分の欲求を押し通すようなことなどほとんどない彼女の願いだからかなえてやりたいというのが、色眼鏡のかかったゲープハルトの意見だった。

 それ以上の成り行きについてはゲープハルトは知る事はないが、結局、ヒムラーの要請を受けてゲーリングがあちこちの組織を恫喝し、マリーの行動の自由が確保された。

 最近すっかり格好良くなったゲーリングだが、マリーの名前を聞いた瞬間引きつった笑顔を浮かべているらしい。

 もちろんゲーリング以外の人間は、彼がなにに警戒しているのかは知る由もない。

 ――あんな化け物に比べたらヒトラーの怒りなど恐ろしいはずがない。

 ゲーリングはヒムラーから「マリーが陸軍参謀本部高官と会いたいらしいからなんとかしてやってほしい」という連絡を受けて、ぴくぴくと口元を痙攣させながらそんなことを思った。

 できれば今後、空軍総司令部(OKL)に二度と顔を見せることがなければ、ゲーリングとしては素晴らしいことなのだが、彼女のおかげというのか、それとも怪我の功名とでも言うべきか、それ以上に恐ろしいものがなくなった。

 まるでそれは虚無の底なし沼を覗き込んでいるような恐怖感。

 そんな彼女と比べれば、英米連合の空軍も、国家元首アドルフ・ヒトラーも、もちろん吠えるように戦略爆撃の必要性を訴える空軍参謀部も恐ろしくはなかった。

「わたしはこの世で最も恐ろしいものに遭遇したのだ……」

 受話器をおろしたゲーリングはぽつりと独白した。

 それは自ら戦闘機を駆っていた先の欧州大戦でも感じたことのなかった恐怖だった。

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