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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IV 神の炎
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4 秘密を巡る者

 国家保安本部第六局に新設された特別保安諜報部の主導によって、ドイツ第三帝国国家元首アドルフ・ヒトラー総統周囲の情報管理体制の新たな調査とその統制と確率が急速に押し進められることとなった。

 特別保安諜報部の主要メンバーとして名前を連ねることになったのは、かつての長官ラインハルト・ハイドリヒとの軋轢によって国家保安本部から離脱をせざるを得なかった者たちである。

 アルフレート・ナウヨックス、ハインツ・ヨスト、ヴェルナー・ベストらであった。いずれもそれ以前は国家保安本部の中枢メンバーを務めた優れた人物だ。中でもヴェルナー・ベスト博士は文句なく優秀な人物のひとりだった。

 もっとも唐突な転属に訝しげなものを隠せなかったのは同様で、パリの民政本部から転属になったベストは特に不快感を露わにしていた。しかし、一方でこの人事を歓迎したのはアインザッツグルッペンの指揮官として東部戦線に送り込まれ精神的に再起不能になりかけたヨストだった。彼は喜んで武装親衛隊の任務を辞退して国家保安本部へと戻ってくることになった。これに複雑そうな顔をしたのは三局局長のオットー・オーレンドルフと、一局局長のブルーノ・シュトレッケンバッハだ。六局を統括するヴァルター・シェレンベルクも複雑そうな表情をにじませたものの、ヨストの復帰によって自分が現在の地位から引きずりおろされるわけではないと知って、結局なにも言わなかった。

 こうしてマリーの下にはかつての国家保安本部を支えた類い稀なブレインと、手足とも呼べる優秀な現場指揮官がそろえられることになった。もっとも、当の本人たちにしてみれば、子供のおもり以上の任務ではないと当初は感じていたようでもある。

 そんなことから、マリーが簡素なデスクで書類とにらめっこしていると眉尻を下げて息をつくのだった。

「あまり根を詰めるものじゃない、大尉」

 マグカップに薄めのコーヒーをいれたヴェルナー・ベストが表面上は穏やかな様子で語りかけながら机の上にカップを差し出すと、少女はありがとうございます、と言ってにっこりと笑う。

 少女のためにと、牛乳を半分ほどいれたコーヒーは刺激も少ない。

 年長者らしい落ち着きを見せる法学博士に、マリーは首を傾げながら彼を見つめた。そんな彼女を見つめて、ベストは内心で「いつの間に国家保安本部は幼稚園になったのだ」とうんざりするが、そこは大人の余裕で表面には出さずに少女に応対していた。

 手書きの書類ができあがって、それをベストに差し出しながらマリーはコーヒーを口に含んでじっと上目遣いに彼を見つめた。

 ベストは自分に手渡された書類の筆跡に考え込んでいると、マリーが長いまつげをまたたかせながら静かに笑う。

「なにか?」

「……いや」

 なんでもない。

 そう応じてベストは踵を返して秘書を呼んだ。

「それをタイプしておいてくれ」

 とても少女のそれとは思えない字に、ヴェルナー・ベストは見覚えがあった。紛れもない、ラインハルト・ハイドリヒの文字だ。

 同じ姓を持つ、同じ字を書く少女。

「君は、わざとこの字を書いているのか?」

 問いかけるとマリーは大きな青い目をさらに大きく見開いてからきょとんとした。

「どういう意味ですか?」

「意味がわからないなら気にしないでほしい」

 つぶやいてから、ヴェルナー・ベストは彼女の仕事部屋を後にする。法学博士ということもあり、マリーの最も近くで彼女の補佐をすることになった彼は、今のところ訝しげなものを隠せないままで自分の上司となった少女を見つめていた。

 彼女はいったい何者だろう、と。

 そんなマリア・ハイドリヒ親衛隊大尉の元にそのまま出向する形で、実働部隊として残留することになったのが、マリーの身辺警護のために宛がわれたゲシュタポの屈強な警察官と、シェレンベルク直接の指揮下に入っている諜報部員(SD)だった。

 七月の末、東部戦線でもひとつの大きな変化があった。

 スターリングラード防衛戦を指揮するゲオルギー・ジューコフの司令所にロケット砲が撃ち込まれるという事態になった。これは、ドイツ軍による攻撃ではなく、フュードル・クズネツォフらのクーデター一派に同調するスターリングラード方面軍の砲兵らが決死の覚悟で放ったものだった。

 これによってジューコフの司令部は壊滅的な被害を受けるものの、ゲオルギー・ジューコフ元帥はたまたま司令所の外に出ていたため命が助かった。

 反乱分子に賛同した将兵を中心として、スターリングラード方面軍はまるで内側から侵食されていくように、傍目にはゆっくりと崩壊が進んでいった。

 まるで、土台からぐずぐずと崩れていくように。

 こうしてスターリングラードを防衛するはずのジューコフの軍隊は、さながら内戦状態に陥って泥沼の殺し合いに発展していく結果となった。これが結果としてドイツ国防軍にとって好機として働いた。

 そんな状況の中で、ドイツ国内では国家元首アドルフ・ヒトラーに対する敵国のテロリズムに対する厳重な警戒態勢をとると同時に、シェレンベルクに対しマリーがひとつの秘密作戦を提案した。

 ――(アメリカ)軍が動き出す前のこれに決定的な一撃をくわえよう。

 彼女はそう言った。

 しかし、どうやって?

「我が国にテロリズム的な行為を行えばどうなるのか、知らしめてやればいいのです」

 そしてマリーはこうも言う。「もちろん、それと悟られてはならない」と。

「だが手段がない」

 言葉を返したシェレンベルクにマリーが微笑する。

「インドにいる工作員たちを使えばいいのです」

 何を、と彼女は言わない。

 言わなくてもシェレンベルクにはわかった。

 ”彼ら”は、ラインハルト・ハイドリヒが生存していた当時に連合国側に放たれたスパイだ。いや、スパイと言うよりも秘密工作員であると言ったほうがいいだろう。

 そもそも彼らがドイツを遠く離れてインドにいるのは理由がある。そこがイギリスの植民地であるというだけの理由などではない。

「この時期にはじめれば、確実な結果が出せるはずです」

「……しかし」

「大丈夫よ、シェレンベルク。彼らはまだそれが兵器として使われるなんてつゆほども思っていないわ」

 この頃になると、シェレンベルクはいい加減マリーの突飛な発言に慣れている。だから表情を変えることもない。

 ”理解する”という行為を彼はいろいろ諦めた。ラインハルト・ハイドリヒの知っていたことの全てをマリーが知っている、と理屈ではない部分で、そう考えることにしたシェレンベルクの判断は彼自身の精神衛生のためにも必要なものだった。

「ヒムラー長官に相談をしてみて?」

 確かに、アメリカ軍が動き出す前に決定的な一打を加えてこれによって、人種問題で揺れているアメリカ国民に大きな動揺を与えられるようなことになれば、ドイツにとってそれは有利に働くだろう。

 だが、それは人道的に許されることなのだろうか?

 そこまで考えてからシェレンベルクは軽くかぶりを振った。

 人道的などと言う言葉は、人殺しに全く関与していない人間が使う言葉であって、少なくとも自分には使う資格などありはしない。

「善処してみよう」

 けれども、国防軍のお偉方やもしくはヒムラーが彼女の提案に賛同するかは大きな謎が残るところだ。

 作戦決行不可能と判断されて計画そのものを却下される可能性もあった。


  *

 七月の終わり、マリーはミュンヘン大学の入り口を訪れていた。

 子供の彼女が入ると目立つことこの上ないので建物の中には入らない。

 なによりも国家社会主義ドイツ労働者党の党員たちが多くいるのも面倒臭い。

 白い柱によりかかったまま、清楚なスカートと半袖のブラウス、そしてトップハット型の麦わら帽子という出で立ちで彼女はある女性を待っている。

 やがてどれくらいの時間がたってからか目的の女子学生が構内から出てきたのを確認して、少女は一歩足を踏み出した。

 華奢な彼女からは想像もできないほど強い力で白い肌の女子学生の手を取ると足早に歩きだす。

「……えっ、なに?」

 唐突に少女に手を引かれた女子学生――ソフィアは、理知的な瞳をしばたたかせながら目線の先をずんずんと歩いて行く金髪の少女を見つめた。驚いている様子が伝わってくるがマリーはあえてなにも言わなかった。

 やがて、人気(ひとけ)のない公園の隅にたどり着いた少女は足を止める。

「はじめまして、ゾフィー」

 戸惑っている様子の相手を見つめたマリーが右手を差しだすと、ソフィアもつられた様子で手を差しだした。

「あなた、誰?」

「わたしはC(ツェー)

 その言葉を知る者は、マリーの名乗ったそれに戦慄したかもしれない。しかし、目の前の女子学生はそんなものを知りはしない。

「今日は、暇だったから忠告をしにきてあげたの」

 自分よりも少しだけ高い場所にある顔を見つめてマリーがほほえむと、ソフィアはわずかに眉をひそめた。

「あら、だめよ。そんな顔をしてはダメ。秘密を隠したいなら、なにを言われても顔色も、顔の筋肉も動かさないくらい鉄面皮でいなければ。それができないなら巨大な秘密なんて持つものではないわ」

 両手を大きく広げて、その場でくるりと回ったマリーが注意深く辺りを見回すと、ソフィアのほうもぎょっとしたように顔を上げて辺りを見渡した。

「ほら、それがいけないわ」

「……なにが言いたいの?」

「別に政治討論がしたいわけじゃないのよ、わたしは」

 スカートの裾を指先でつまんだマリーが動揺している様子のソフィアを見つめてころころと笑う。

「お子様は、政治的思想なんて興味がないものね。ただ行く末に興味があるだけ」

 そう言ってマリーはスカートのポケットから一枚の紙切れを取り出した。

 半分に折りたたまれた印刷されたビラである。

「”火遊び”はいけないわ。自分の命を賭けることになってよ」

「……遊びなんかじゃない」

 くつりと笑うマリーに女子学生が、低くつぶやいた。

 遊びなどではない。

 自分の命をかけて戦おうと決めたのだ。

 ドイツという国を守るために。

「あら、そう? でも、たかがビラをまいたくらいでどうにでもなると思っているなら、それは大間違い」

 告げてから、肩に吊ったカバンからマッチを取り出すと、こすって火をつけた。紙切れに火をつけて焦げ付いていくのをマリーは見つめている。そうしてそれが完全に灰になったのを見届けてから顔をあげた。

「忠告はしたわ。”ゲシュタポはどこにでも”いる。だから、充分注意して振る舞うのが身のためです。あるいは”わたしたち”はあなたたちに実力行使をしなければならないかもしれません」

「密告でもするつもり……?」

「さぁ?」

 クスクスとマリーが笑った。

「どうかしら? わたしの”忠告”をどう受け止めるかはあなた方次第。仮にも大学生ならもっと賢く振る舞うべきではなくて?」

 耳障りな笑い声に少女から女性に脱しつつある女は硬直した。

「残った国家保安本部(RSHA)の連中……。間抜けは出し抜けるかも知れないけれど、わたしのことはたばかれないわ」

 そうしてからマリーはこつりと靴音を響かせた。

「子供は口が軽いものよ。それに、うまく騙せていると思っているのは、まだまだ子供の証拠。大人はもっと賢いし、子供の嘘なんて見抜ける人間には簡単に見破ることができるのだから」

 正義感も結構だけど。

 そう続けた少女にソフィアはぞわりと背筋を震わせた。

 目の前の、人間の形をした異質な生き物。

 その生き物は、企みが全て筒抜けなのだと忠告している。その本心はどこにあるのか。

「黒の反対は白じゃないし、裏の裏は表じゃない。フロイライン?」

「……知ってるわ」

「そうね、でも”わかって”ない」

 相変わらずのように笑っているマリーが片手で自分の頭の上の麦わら帽子を直した。

 そのとき彼女は見てしまった。

 白い造花のコサージュの中にさりげなくルーン文字の「SS」のピンが留められていることに。

「忠告は一度だけ。その忠告を生かすも殺すもあなたたち次第……」

 そこまで言ってから、マリーは大きな動作で振り返ると、青い瞳が空のようにまたたいた。

「時間切れ」

 そう告げてから歩きだす。

「……親衛隊大尉ハプトストルムフューラー!」

「ごめんなさい、散歩に出ていたの」

「嘘を言わないでください、ベルリンからこんなところまで何の用なんです」

 親衛隊将校に昏々とお説教されている少女は、クスクスと機嫌良さそうに笑いながら腰を屈めた男の頭から制帽を奪っておどけた調子で歩きだす。そんな少女を追いかけながら、長身のナチス親衛隊の青年は自分よりもずっと低い位置にある麦わら帽子をかぶった頭を見下ろした。

「あなたになにかあったら始末書ですまないのはわたしなんですから」

「……そうね」

 男の言葉にぽつりとつぶやいて、マリーは口元だけでかすかに笑う。

 彼の制服の袖には菱形のSD章がある。しかし、そんな親衛隊将校に気後れもしない少女は、呆然とふたりを見送っている年上の女性を一瞬だけ振り返った。

 視線が交錯する。

 それだけで、親衛隊将校を引き連れて歩き去ってしまった少女を見送ってからソフィアはへなへなとその場に座り込んで長い息をつく。

 ――でも、”わかって”いない。

 ソフィアに接触してきた少女は、ナチス親衛隊の関係者だ。どんな地位にあるのかはわからないが、親衛隊大尉ハプトストルムフューラーと呼ばれた彼女は、ソフィアの生死などいくらでも自由にできる。

 金色の髪の少女の声がソフィアの頭の中で反響するように鳴り響いた。この段になって、やっと彼女は「計画」の失敗を思い知らされたのだった。

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